第14話(前編)――「倉庫の贈答と三方針」

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『忘れられた皇子』(第十三章第14話)【作品概要・地図】です。

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『忘れられた皇子』(第十三章第14話)【登場人物】です。

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前書き

992年5月24日早朝、杭州ハンジョウ知府ジーフー私邸の倉で崔俊宥チェ・ジュンユは黄金・白銀・絹・香木・武具・食料の山を確かめ、金瑞蘭キム・スイラン梁秀麗リョウ・シュウリー張勇チャン・ヨンと相談して「記録を公開する」「用途を仕分ける(軍備・救済・公売)」「政治色の濃い献上は受領を保留する」の3方針を決め、警備強化と仕分け札・公開帳簿の準備に着手する。


本文


 992年5月24日午前6時、薄い朝靄が四合院の屋根瓦を湿らせ、庭の砂利は夜露を含んでしっとりと黒ずんでいた。知府ジーフー私邸の一角、倉に向かう廊下には白檀の香が淡く流れ、遠くからは台所で湯が沸く微かな音が届く。俊宥ジュンユは少数の扈従を伴い、重い閂を外して倉の扉を押し開けたのである。


 木戸が軋むや、冷えた空気の奥で光が跳ねた。積み上げられた黄金の塊は朝陽を弾いて濡れたように輝き、白銀の延べ棒はひやりとした鈍い光で並ぶ。絹織物の反物は淡い花粉のような糸埃を空中に舞わせ、香木や薬草は乾いた土の香りと薬効の苦みを鼻腔に残した。陶磁器の釉は静かに光を収め、貴石の装飾品は鳥の目玉のように倉の暗がりを見返している。


 食料品の木箱からは干し果の甘い匂い、酒樽からは立ちのぼる酵母の温かな気配。片隅には唐草を彫った短剣や、細工の見事な武具まで積まれていた。


 「……これは」


 俊宥ジュンユは列の間をゆっくり歩き、手指で箱の縁を撫で、目で量を測った。


 「このままでは、盗まれる危険もあるな……」


 贈答の山を私的に受け取ることは、統治の正しさを濁す。杭州ハンジョウを任された身として、金品の行き先は公に定められねばならない。


 「……家臣を召集しよう」


 朝の光が差し込む小会議の間に、信頼する側近が揃う。軍備と警備を預かる金瑞蘭キム・スイラン、食事と倉の運用を担う料理長梁秀麗リョウ・シュウリー、行政と経済を統括する副官張勇チャン・ヨン。蒸した茶の青い香りが湯気とともに立ちのぼる。


 俊宥ジュンユは倉の現状を簡潔に告げた。


 「ここ数日、私邸に持ち込まれた金品が膨大となり、倉庫は満杯になった。このまま放置するわけにはいかない。どう処理すべきか、意見を聞かせてほしい」


 まず金瑞蘭キム・スイランが、端正な声で言う。


 「一部を軍の備蓄に充てるのが良いでしょう。特に食料品や酒類、布地は、兵たちの生活に役立ちます」


 続いて、木箸を置いた梁秀麗リョウ・シュウリーが言った。


 「貧民に施すのも一つの手かと。近ごろ、杭州ハンジョウの一部では米価が高騰し、困窮する者も増えております。食糧や衣服を施せば、市民の信頼も厚くなるでしょう」


 しかし、帳面を繰りながら張勇チャン・ヨンは慎重に眉を寄せた。


 「……施しに使うのは良い案です。しかし、すべてをただ配るのは避けるべきでしょう」


 「どういうことだ?」


 「中には贈った者が後々、見返りを求めてくる者もいるでしょう。もし彼らが『あの時献上したから、特別な便宜を図ってほしい』と言ってきたらどうされますか?」


 俊宥ジュンユは扇を閉じ、静かに頷く。


 「つまり、献上者の意図を見極めるべきだということか?」


 「その通りです」


 その場で、献上品と献上者の洗い出しが始まった。書吏が札を持ち、印の押された木札を列に差してゆく。香の煙が細く揺れ、筆の走る音が畳の上にさらさらと落ちる。


 「……ある商人が大量の金品を送ってきているが、その商人が最近、杭州ハンジョウの税制改革に反対していた」と、張勇チャン・ヨンが報告した。


 「ふむ」


 「また、もう一人の富豪は、杭州ハンジョウの新規事業の許可を求めていたが、同時に高価な宝飾品を献上している」


 「つまり、ただの贈答ではなく、政治的な駆け引きということか……」


 静かな沈黙が落ち、紙の匂いと茶の甘みだけが残る。やがて俊宥ジュンユは天井の梁を見上げ、扇の骨で掌を軽く叩いた。


 「——ならば、こうしよう」


 方針は3つに定まった。第一に、贈答品はすべて「私的に受け取らぬ」と宣言し、誰が何を献上したか、月ごとに記録を作って公表するのである。帳簿は閲覧可能とし、不審の影は早期にあぶり出す。


 第二に、用途を公に仕分ける。軍備と倉の補充に回すもの、貧民救済に充てる食糧・衣服、そして余剰の贅品は公売して公共資金に編入する。倉の戸前には仕分けの札を掲げ、行き先を誰の目にも明らかにする。


 第三に、政治的な思惑の色が濃い献上は慎重に扱う。必要とあらば受領を断り、献上者を呼び出して意図を正す。


 数日ののち、決定と仕組みが告げられると、街はすぐに反応した。青果の露店の陰で、魚の匂いと胡麻油の香りが混じる中、民の声が弾む。


 「さすがは新しい知府ジーフー様、公正な判断をなさる!」


 「権力を持つ者が、こうも清廉であらせられるとは……!」


 一方で、帳合いに長けた商人たちは顔を曇らせる。


 「これは警戒すべきだ……」


 贈答はもはや密やかな合図ではない。記録され、公に管理されるものとなった。俊宥ジュンユは“物は裁き、人は招く”の軸を、実務の場に刻みつけたのである。


 そして2日が過ぎ、992年5月26日午前9時。朝の光が白壁を洗い、知府ジーフー公邸の門前は早くも人いきれで温い。


 外の広場から、鋭い罵声が弾けた。


 「これは偽金だ!この詐欺師め!」


 「冗談じゃない!私は代々、金細工を生業にしてきた。こんな汚名、着せられてたまるか!」


 騒ぎの主は、金細工職人のチェンと、名もなき商人である。人々が波のように押し寄せ、粉塵と汗の匂いが漂う。


 「チェン殿、商人よ、詳しく話せ」


 俊宥ジュンユの声に、両者は公堂へ引き出された。格子窓から差す光が床の木目を斜めに走り、張りつめた空気に墨の香が濃くなる。


 「私の店で買った指輪が偽金だったのです!」商人は拳を振り上げ、怒気を露わにした。「これが本物なら、昨日、金貨と交換した際に受け取った額が少ないはずがない!」


 「嘘だ!私は偽物など作っていない!」チェンは必死に言うが、机上の証はまだ揃わない。


 俊宥ジュンユは短く息を吸い、炉を所望した。


 「金は熱すればその性質を表す。純金ならば溶けても色が変わらぬが、混ぜ物があれば異変が出る」


 鋳金師が火床に炭を寄せ、ふいごが息を吹きこむ。火の赤が金に映り、金属の甘い匂いが鼻先を刺す。


 「では、この指輪を試してみるとしよう」


 人々が固唾を呑む。ほどなくして、熱に晒された指輪はなお鈍い黄金の光を保っていた。


 「ほう。偽金ではないな」


 俊宥ジュンユは指輪を持ち替え、商人へ冷ややかな視線を向ける。


 「では、そなたはなぜ、この指輪が偽物だと思ったのか?」


 商人の喉仏が上下し、視線が泳ぐ。やがて搾り出すように白状した。


 「……実は、別の場所で手に入れた金貨が偽金だったのです。それで、こちらの指輪も偽物ではないかと疑っただけで……」


 「つまり、お前が偽金をつかまされた腹いせに、チェンを陥れようとしたのか?」


 「そ、そんなことは!」


 「証拠が出た今、そなたの言い訳は通らぬ」


 商人の顔色がすっと褪せ、チェンは膝から力を抜いて大きく息をついた。


 「閣下……私の無実を証明してくださり、ありがとうございます」


後書き

贈り物は私物から公の財産へと扱いが変わり、民は透明さを評価し、利権を狙う商人は動きを鈍らせる。ここで行政の土台が整い、このあと市場改革と汚職対策を具体化できる段取りができた。

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