第4話……商人への道「後編」
前書き
第3話「商人への道『中編』」では、
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🟦『忘れられた皇子』【地図】
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本文
3人の護衛は、同時に番頭としても店を支える重要な存在であった。いずれも腕利きで、そしてそれぞれ年俸60両で
剣士・
鋭い目つきは、まるで相手の心の隙間までも見透かすようであり、その剣技は一等賞を勝ち取った折り紙つきである。無駄のない所作で刀を手入れする姿は、静かな店内でひそやかな緊張を生み出していた。
目は細く、いつも何かを計算しているように遠くを見ている。言葉は少ないが、その一言一言に重みがあり、戦いだけでなく商売の駆け引きにも向いた「戦略家の頭脳」を持っていた。
太い腕は、綱を握ればそれだけで軋ませ、荷を担げば木箱が小さく見えるほどである。驚異的な身体能力で試合の三等賞を勝ち取り、店の荷運びから用心棒まで、力仕事のほとんどを一身に引き受けていた。
3人はそれぞれ違う色合いを持ちながら、そろって李蘭の商いを支える「柱」であった。
◇ ◇ ◇
980年2月末日。
その日の夕暮れ、
店の奥の座敷には油灯がともされ、ゆらめく炎が帳簿の紙面と人々の顔を柔らかく照らしていた。墨の匂い、紙の乾いた手触り、算盤の玉が打ち合う軽やかな音が、静かな部屋の中で心地よいリズムを刻んでいる。
李蘭は、帳場に座って大きく広げた帳簿に目を落としていた。
その隣には、興味深そうに身を乗り出して数字を追う
2月の商売の流れを把握するために行う月次決算である。
収入は2つあった。
1つは、故・
もう1つは、今月の商売の結果である売り上げ400両であった。
あわせて、合計収入は1,600両である。
一方、支出は細かく分かれていた。
まず、試合の結果として支払った護衛たちへの賞金が合計180両。
内訳は、張剣豪に100両、孫智遠に50両、王力山に30両である。
次に、護衛3人の年俸として180両。
1人60両ずつ、計180両である。
さらに、自宅兼店舗の購入費として100両。
簡素ではあるが、商売と暮らしの拠点であり、その土壁や梁には既に家族の生活の匂いが染み込みつつあった。
日々の生活費に5両。
茶葉、米、油、調味料、わずかな贅沢としての果物や干し肉などが、静かにこの数字に含まれている。
馬車3台の購入費が90両。
1台あたり30両で、今や荷を満載して大運河沿いの道を行き来する商売の足である。
最後に、店舗の維持費として50両。
屋根の補修、内装の手直し、棚板の新調、油灯の油代などが、見えないところでこの数字にまとまっていた。
これらを合算すれば、支出は合計605両。
帳簿の端に「収入1,600両」「支出605両」と書きつけ、算盤の玉をはじいて差を確かめると、残ったのは995両であった。
合計収入:1,600両
合計支出:605両
純利益:995両
李蘭は、算盤の動きを止めて静かに息を吐いた。
灯火の光が、ほっとしたように揺れた。
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https://kakuyomu.jp/users/happy-isl/news/16818622170846977683
挿絵は、2月の収支内訳です。筆者がエクセルで作成し、スクショしたものです。
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帳簿を閉じると、彼女は柔らかな声で呟いた。
「順調に進んでいるわね、フェン」
柴風は、母と同じ帳簿の数字を追いながら、弾む声で答えた。
「母さん、995両の残金が出たんだね。これでもっと布を仕入れられるね」
彼の目には、銅銭や銀が増えることそのものよりも、その先に広がる布の山や、新しい商いの景色が映っていた。
李蘭は息子の横顔を見てから、静かに頷いた。
「その通りよ。これからも慎重に商売を続けて、さらに拡大していきましょう」
油灯の光が、母子の影を障子に映し、ゆっくり揺らしていた。
◇ ◇ ◇
決算を終えたあと、李蘭は、その数字をただの数字としてではなく、「次の一手を打つための地図」として眺め直した。
まず、在庫の補充である。
2月に売れ行きがよかった綿布、麻布、そして
特に苧麻布は祭りの季節が近づけば需要が高まると見込まれ、その涼しげな風合いが人々の目を引くだろうと考えた。
次に、新たな商品づくりである。
裁縫師との提携をいっそう強め、完成品の衣服や家庭用品の種類を増やすこと。
スカーフや袋などの小物をより多く作り、布そのものを買えない者や、裁縫が得意でない者にも手が届く商品を増やすこと。
さらに、季節ごとのセット販売や、用途に応じたカスタマイズ販売を押し出していくこと。
品質を保つだけではなく、接客や説明にも気を配り、顧客が「ここで買いたい」と思う店をつくること。
そして、護衛たちの役割も広げること。
3人には、ただ剣を振るうだけでなく、顧客対応や商人同士の交渉の場にも同席してもらい、その信頼される人柄と存在感を活かして新たな取引先との橋渡しをしてもらうつもりであった。
これらを胸に描いたうえで、李蘭は皆を呼び集め、小さな会議を開いた。
油灯の下、布の香りとわずかな茶の香りが混ざる座敷で、彼女は皆の顔を見渡し、静かに口を開いた。
「皆さんのおかげで、商売が順調に進んでいるわ。これからも協力して、さらに発展させていきましょう」
張剣豪が、背筋を伸ばして力強く答えた。
「
その言葉に続いて、李蘭は視線を帳簿から馬車の方へ移した。商売を広げるには、物を運ぶ「足」も強くしなければならない。
「拡大をするには、馬車の積載量を増やさないといけないわね。」
彼女の言葉に、柴風がすぐさま口を挟んだ。
「お母さん。馬車一台でどのくらい積めるの?」
李蘭は、これまでの経験と聞きかじった知識を思い起こしながら答えた。
「馬車1台でおよそ500〜1000斤「300〜600kg」程度の荷物を運ぶことができるわ。綿布1匹「約45メートル」の重さはおおよそ2〜3kgだから、最低でも綿布100匹は積めるわね。でも綿布200匹を楽々積めるようにしたいの。」
張剣豪が、腕を組みながら現状を確認するように言った。
「今馬車が3台あり、馬も3頭います。馬を3頭購入して、2頭建ての馬車にすればいけるかも知れませんね。」
李蘭は、その提案の筋の良さを感じながらも、現実的な補強の必要性を見逃さなかった。
「それは良いアイディアだと思うけど、確実に馬車1台で綿布200匹を積めるためには、馬車を補強・改修する必要があると思うわ。」
「
張剣豪は、短くそう答えると、すでに市場の厩舎や鍛冶屋の顔を思い浮かべているような目をした。
その横で、孫智遠が、別の角度から静かに口を開いた。
「
李蘭は、彼の言葉にうなずきながら、胸の奥にある政治の影を口にした。
「そうよね。
血の匂いを思わせるような言葉が、油灯の下の静謐な空気の中に落とされた。
重くなりかけた空気を、王力山が穏やかな笑みでやわらげた。
「力が必要な場面では、私たちが守ります。安心して商売に集中してください」
その大きな声には、不思議と温かさがあった。
柴風も、まっすぐな目で言葉を重ねた。
「僕も商売の手伝いをしながら、護衛としての訓練を続けます。将来のために、もっと強くなりたいです」
その決意を聞き、李蘭は胸の奥に静かな誇りを感じた。
「その意気よ、フェン。私たちの未来は明るいわ」
灯火の光が、4人の影を重ねて畳の上に映し出していた。
◇ ◇ ◇
数日後。
市場を駆け回っていた張剣豪が、店の戸口に姿を見せた。冬の風に晒された頬はわずかに赤く、衣には土埃と鉄と革の匂いが混ざっていた。
「市場の厩舎、鍛冶屋「冶工」、大工「木工」、皮革職人、馬車製造工房を廻り、2頭建ての馬車「補強・改修済み」を3台用意しました。これで、綿布200匹、麻布200匹、
その報告を聞いて、李蘭は胸の中でそっと算盤をはじいた。
運べる量が増えるということは、それだけ遠くまで商いの手を伸ばせるということである。
ほどなくして、孫智遠も戻ってきた。
彼は、顔なじみとなった北宋の役人から直接話を聞いてきたのである。
「やはり、北宋皇帝太宗からの指示でした。
李蘭は目を細め、短く息を吐いた。
「そうでしたか。やはり今のままでは太宗の目をごまかすことは出来ないわね。」
王力山が、少し顎に手を当ててから提案した。
「
大理という名を聞いて、李蘭は遠い南西の山々と、茶馬交易の隊商を思い浮かべた。
「
張剣豪は、別の方向からの案を口にした。
「広州あたりへ行き、地元の役人に賄賂を渡し、
「広州は海路が開けているのが魅力だわね。一考する価値があるわ。」
海の匂いをまだ知らない少年の傍らで、李蘭は、波と港と異国の船を心に描いた。
孫智遠は、もう一度揚州に目を向ける形で言った。
「
「私が信頼する商人や仲間、あるいは有力者の協力を得て、
李蘭の声には、もはやただ逃げるだけではない、「生き延びながら勝つ」ための意志が宿っていた。
◇ ◇ ◇
2月の決算を終えた李蘭は、揚州での商売が確実に軌道に乗りつつあることを実感していた。
護衛たちの支えと、柴風の成長。その両方が、彼女の背中を押していた。
しかし同時に、北宋の追及の手は依然として遠くから伸びてきており、彼らの安全を脅かす影は消えてはいなかった。
商売の成功と家族の安全。その2つを両立させるため、彼女たちは今後も慎重に戦略を練り続けなければならないのである。
そして、980年3月1日。
朝の冷気がまだ強い中、
補強された車体には、布を積むための頑丈な棚が組まれ、革で補強された手綱が、いななき声を上げる馬たちの口元へとつながっている。
李蘭と柴風、そして3人の護衛は、その馬車を従えて再び
大運河沿いの道には、まだかすかに朝露の匂いが残り、車輪が土を踏みしめる音が、新しい月と新しい商いの始まりを告げていた。
後書き
第4話「商人への道『後編』」では、
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