第3話……商人への道(中編)
前書き
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🟦『忘れられた皇子』【地図】
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980年2月14日、冬の名残を含んだ冷たい風が、
荷台の上には、綿布、麻布、そして
先頭の馬車の傍らを歩く
店は運河に近い通りに面した、2階建ての店舗兼住居である。木の引き戸には、長年の手垢で磨かれたような光沢があり、庇には薄く霜が残っていた。店先の格子戸を開け放つと、室内に残っていた乾いた木の匂いと、茶の葉の香りがふっとまじり合った。
護衛たちが荷を降ろし、反物を肩に担いで運び込んでいくたび、布の束が土間の上にずしりと沈む音が響いた。綿布の柔らかな白、麻布の素朴な薄茶色、苧麻布のわずかに青みを帯びた灰色。それぞれの布地が、薄暗い店内に新しい景色を描き出していく。
◇ ◇ ◇
今回、李蘭が
1匹(1反)は約45メートルである。
1匹あたりの仕入れ値は次の通りである。
綿布……800文
麻布……550文
計算すれば、仕入れ値の総額は、(800+550+650)×100匹=200,000文=200両となる。
店の奥の帳場で、李蘭は算盤を軽快に鳴らし、紙の上に墨の匂いを漂わせながら、数字を書きつけていった。木玉がぶつかる乾いた音は、彼女にとって戦場で鳴る太鼓のようなものである。
まず考えるべきは、自宅店舗での基本となる価格設定であった。
彼女は、1匹単位での卸売価格を、次のように決めた。これは卸売業者にまとめて売る場合の価格であり、一般の庶民が1匹単位で買うのは非現実的であるため、小売の話とは別である。
綿布……800文×1.25=1,000文/匹
麻布……550文×1.27=700文/匹
3種合わせれば、1匹あたりの販売額は2,500文となる。
総販売額は、2,500文×100匹=250,000文=250両である。
仕入れ価格が200両なので、卸売だけでも儲けは50両になる計算である。
しかし李蘭は、そこから先を考えていた。
「1匹(45メートル)丸ごと買う庶民はいない」
彼女は、そう心の中でつぶやきながら、布を実際に使う人々の暮らしを思い浮かべていた。
◇ ◇ ◇
1匹(1反、約45メートル)の布を前にして、李蘭は、その長さを現実の生活に当てはめて考えた。
まず、単位としての長さである。
1.(匹)の長さ
- 1匹(1反):約45メートル
次に、宋代の庶民が布を買うとき、どれくらいの長さを必要とするかである。家族構成や用途によって異なるが、おおよその目安はこうであると彼女は考えた。
2.一般庶民の布の購入量
衣服用としては、
- 成人男性:上衣1着で約15メートル
- 成人女性:上衣やスカートなどを合わせて1着につき約20メートル
- 子供:1着につき約10メートル
家庭用品用としては、
- 寝具(布団やシーツ):約30メートル
- テーブルクロスや仕切り布、簡易なカーテンなどで約15メートル
こうして見れば、1匹そのままでは長すぎる。
庶民の財布と生活感覚に合わせるなら、もっと細かく分けて売る必要があった。
3.布の分割販売方法
李蘭は、庶民が手を伸ばしやすい長さとして、「丈」を単位に分けることにした。
a.長さ単位での販売
布を丈単位(約3メートル)でカットして販売する。これにより、客は必要な量を柔軟に選べるようになる。
- 1丈(約3メートル)
- 綿布:1丈を100文で販売
- 麻布:1丈を80文で販売
-
この条件で1丈(3メートル)単位に分割販売したとき、1匹(45メートル)分の販売価格は、3,050文である。……注①
総販売額は、3,050文×100匹=305,000文=305両となる。
仕入れ価格が200両なので、儲けは105両である。
さらに、丈をまとめた「お得な束売り」も考えられた。
- 複数丈のパック
- 5丈(約15メートル):綿布→450文(通常価格500文)
- 10丈(約30メートル):綿布→800文(通常価格1,000文)
これなら、まとまった量を必要とする客にも喜ばれる。
◇ ◇ ◇
b.部分販売とパッケージ販売
李蘭は、布を単に切り売りするだけでなく、異なる種類を組み合わせた「用途別のセット」を用意することも考えた。
例えば、家庭用の実用的な組み合わせである。
- 家庭用セット
- 綿布5丈(約15メートル)+麻布3丈(約9メートル)
=500文+240文=740文
日常の衣類や簡単な寝具を整えるのにちょうどよい量である。
祭礼のために特別な布を求める者もいる。そんな者には、華やかな仕立てに向いた苧麻布を前面に出した組み合わせがよい。
- 祭り用セット
-
=450文+300文=750文
布を「用途ごとに組み合わせて売る」という発想は、人々の生活の場面ひとつひとつを描き出す作業でもあった。
◇ ◇ ◇
c.製品化と加工販売
布そのものだけでなく、ある程度まで形を整えてから売るやり方もある。
裁縫の得意でない者や忙しい者にとっては、「すぐ使える形」であることが何よりありがたい。
- 簡易衣類
- スカーフ、帽子、袋などの小物を製作し、完成品として販売する。
例:スカーフ1枚=50文、袋1個=70文
- 織物キット
- 自分で縫える者のために、必要な布と簡単な縫い方を書いた紙を添えたキットを用意する。
例:簡単なテーブルクロスキット=300文
- 染色サービス
- あらかじめ染色した布を用意し、さらに追加料金で特定の色に染め直す。
例:染色追加=100文
布を触ったときのさらりとした感触、染めたあとのわずかな薬品の匂い、乾きかけの布に残る湿り気。その一つ一つが、商品になっていく過程である。
d.カスタマイズ販売
顧客の事情はそれぞれであり、「少しだけ長さを変えたい」「特定の色にしたい」といった細かな願いがある。そこに応えることが、長い付き合いを生む。
- オーダーメイド長さ
- 顧客が希望する長さに応じて布をカットする。
例:特定の長さ(4丈=約12メートル)でのカット
- 色や模様の選択
- 染色や簡単な刺繍など、要望に応じて加工を施す。
例:特定の色に染める=100文追加
- 用途別提案
- 衣服、家庭用品、祭事用品など、用途に合わせて適切な布を提案する。
e.中間業者との協力
さらに、裁縫師や小さな工房と手を組み、布を加工・仕立てしてもらうことで、完成品として売る道もある。
- 提携裁縫師
- 特定の裁縫師に衣服の仕立てを依頼し、その衣服を店頭で並べる。
- 工房との契約
- 月ごとに一定量の布を提供し、工房側が完成品を作る。
- 販売ネットワークの拡大
- 提携した工房が他地域でも販売活動を行うことで、布の評判も広く伝わる。
これらはすべて、李蘭が帳場で算盤を弾きながら、同時に頭の中で描いていた「商いの旅路」である。
◇ ◇ ◇
市場は朝から湯気と声で満ちていた。
蒸し饅頭のせいろから立ち上る湯気、鉄鍋で油が跳ねる音、焼き魚の香ばしい匂い、香草の青い匂い。人々の声が幾重にも重なり、遠くで叩かれる太鼓や、呼び込みの掛け声が、町全体をひとつの大きな生き物のように揺らしていた。
その中で、李蘭の店先には、反物が丈単位で美しく並べられた。綿布は柔らかな乳白色、麻布は淡い亜麻色、苧麻布は涼しげな灰青色である。布の端が風に揺れるたび、織り目が光を受けて細かな影をつくり、客たちの目を引いた。
彼女は、市場での布の販売方法を改めて整えた。前述の通り、庶民が1匹単位で布を買うのは現実的ではない。そこで李蘭は、布を丈単位にカットして売る方針を、はっきりと店の柱に刻み込むような思いで決めた。
「綿布は1丈で100文、麻布は1丈で80文、
帳場の横で、彼女は護衛たちと店の手伝いにそう告げた。
護衛たちは今や、単なる剣の腕だけでなく、荷運びから客あしらいまでこなす心強い協力者である。
こうして、李蘭の店は、必要な長さに応じて布を選べる店として評判になっていった。小さな家族から大家族まで、それぞれの生活に合わせて布を買うことができたのである。
◇ ◇ ◇
李蘭は、顧客の多様な事情に応えるため、さらに細かな工夫を重ねた。
綿布1匹を5等分し、それぞれを20匹分ずつ分割して販売する。麻布や苧麻布についても同様に小分けを用意し、棚ごとに「少量」「中量」「大口」と札を立ててわかりやすく並べた。
季節や用途に応じたパッケージも考案した。
夏には、触れるとひんやりした感触のある麻布を中心に、通気性の良い布を組み合わせた「夏支度」の束を用意した。
冬には、綿布を多めに組み合わせ、保温性の高い寝具や上着に向いた「冬支度」の束を前面に出した。
店先には、季節に合わせて布の色を変えた見本が吊るされ、風に揺れながら「この先の季節の気配」を客の目に訴えかけていた。
◇ ◇ ◇
布の売り方をさらに多様化するため、李蘭は簡易な製品化にも踏み出した。
麻布で仕立てた小さな袋は、手に取るとざらりとした素朴な感触があり、穀物や乾物を入れるのにちょうどよかった。綿布で作られたスカーフは、首に巻くと柔らかく肌になじみ、冬の冷たい風を和らげてくれる。苧麻布で作った帽子は軽く、夏の日差しを遮るのに役立った。
「これなら、裁縫の技術がない人でも簡単に使える」
店先で新しく並べた小物を眺めながら、李蘭は満足そうに微笑んだ。
完成品としての布は、通りを行き交う人々の目を引き、思いつきのような「ちょっとした買い物」を増やしてくれた。
◇ ◇ ◇
ある日、近くの村から来た女性が、祭りの支度のために店を訪れた。
顔は冬の風に焼けて少し赤く、しかし瞳は華やかな色を思い浮かべているのか、きらきらとしていた。
「お願い、祭り用に赤い麻布を3丈カットしてもらえませんか?」
女性は、店先に並んだ布地の前で、遠慮がちだがはっきりとした声で頼んだ。
李蘭は、穏やかな笑みとともにうなずいた。
「もちろんです。お好みの色に染め直すことも可能です」
彼女は、奥から染色用の大釜や染料の入った壺の様子を思い浮かべる。
湯気が立ちのぼる染め場には、薬草や鉱物の混じった独特の匂いが漂っている。赤く染まりつつある布を棒で持ち上げれば、湯気とともに色のきらめきが滴り落ちるのである。
顧客の細かな願いに応えることで、店の評判はさらに高まった。
◇ ◇ ◇
別の日には、地元の村人たちが次々に店へやってきた。
「この丈の綿布で私の新しい上着を作りたいの」
若い女性が、柔らかな綿布を胸元にあてて、鏡代わりの磨かれた金属板をのぞき込みながら言った。
「かしこまりました。こちらの1丈(約3メートル)の綿布は100文です」
李蘭は、柔らかな声でそう答え、布を丁寧に畳んで渡した。綿の布からはわずかに糸の匂いが立ちのぼり、指先にはふんわりとした感触が残った。
また、ある日には、農家の夫婦が店を訪れた。
「私たちは15丈のテーブルクロスが必要です。お幾らですか?」
手には、土のついた指先で何度も数え直したらしい銅銭袋が握られていた。
「承知しました。15丈なら1,200文になります。品質には自信がありますので、ぜひお試しください」
李蘭は微笑みながら答え、広い食卓を覆うに足る布を選んで見せた。
彼女の言葉には、布そのものだけでなく、それを囲む食事の風景まで見えているような確信があった。
◇ ◇ ◇
やがて、地元の裁縫師たちも、この店の布に目をつけ始めた。
「あなたの布は素晴らしいわ。ぜひ私たちの工房で使わせてください」
近くの裁縫師がそう申し出たとき、李蘭は静かにうなずいた。
布の供給と、完成品の衣服の仕立て。
役割を分けて協力すれば、互いの強みが引き立つ。
李蘭は、一定量の布を工房に納め、その代わりに工房で仕立てられた衣服を、店先にも並べることにした。店先の竿には、色とりどりの上衣やスカート、子供服が並び、布の質と縫い目の丁寧さが、通りを行き交う人々の目を奪った。
◇ ◇ ◇
こうして、丈単位の小売、用途別のセット販売、簡易な製品化、染色やカスタマイズの受注、裁縫師や工房との提携と、李蘭はあの手この手を使って布を世に送り出していった。
結果として、綿布100匹、麻布100匹、
総売り上げは400両にも昇り、儲けは200両である。
大運河を渡ってきた布の山は、いまや揚州の人々の衣となり、寝具となり、祭りの衣装となり、生活の中に溶け込んでいった。
そのひとつひとつに、李蘭の計算と工夫、そして「生き延びる」という静かな決意が、目に見えない糸のように織り込まれていたのである。
後書き
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