ホワイトバンク

上雲楽

だいがわり

 お父さんは白くて、声帯が除去されている。ちかごろのお父さんはくたくただった毛並みや、白内障になりかけだった目をやめて、朗々と自分の尻尾を追いかけて遊べる。オーディションのおかげだった。高速道路に乗るたび、雷や花火が鳴っているときと同じようにからだを震わわせていたのをやめて尻尾をケージの中で追いかける。本来ならSwitchなんかをねだる年ごろだったが、白内障は進行していたし、おおむねスマホで攻略wikiを眺めて満足している。

 夜の眠っている間にともえやかおるによって都市から都市へお父さんは移動して、昼の間に子どもたちに頭を撫でさせる。お父さんはお父さんのお父さんは思い出せないけど、オーディション前のお父さんは知っていた。そのことを夢に見るのかもしれない、目を閉じながら遠吠えもどきをして、交信を試みて、声帯が除去されている。暦と場所にちなんだ服を着て、座る指示に従い、ビーフジャーキーを与えられる。高速道路でちかちか光って遠ざかっていく電灯を目で追い続けるよりは、列をなした汗臭い子どもが近づいてくる方が、気楽ではあった。列の終わりがビーフジャーキーであることはわかったし、ゴーゴーと車が振動する音は眠らなければ延々と続きそうだったし、音で眠れない。

 いつかのお父さんは高速道路に乗るのが好きで、引っ張らなくてもケージに入って、尻尾を振っていた。でも高速道路に乗ったら震えていた。カーブすると、金属のケージにビニール傘がカンッと当たって、逆方向のカーブでビニール傘が遠ざかり、再びどこかでカンッと当たる。ビニール傘を手で押さえようとケージから手を伸ばして、押さえているうちにどうしてビニール傘がほしいのか忘れて手放す。もっと、Switchでポケモンをするような楽しいことだけを考えたかった。お父さんの眠りを記録してポケモンを集めるゲームもしたかった。高速道路の振動で、正確に眠りの状態が記録できるとは思えなかった。お父さんはお父さんになるかもしれないものを見たくなくて、よく寝たふりをしていたが、ともえやかおるには演技だとわかられていた。

 ともえは経費でビーフジャーキーを買って、これをつまみにしてビールでも飲んでみたかったが、テレビのビールのCMを見てくすくす笑った。 ともえがテレビのCMでお父さんを見かけたのはずっと前で、いつも帰ってきたらともえの部屋のベッドに寝転がって、Switchを起動させたいとうとうとしているうちに、ひかるがお風呂に入るか食事をするか聞く。お風呂にテレビはなくって、普段のともえは、食事中、テレビでU-NEXTで昔のアニメを見ていた。マイメロが原案だった。U-NEXTはエラーか何かで人数待ちと表示されて、動画を見られなかったから、バラエティにしたら、お笑い芸人が老けていた。ひかるは、ずっとこの人たちテレビに出ているね、とお味噌汁をよそいながら叫んで、キッチンから食器を運ぶ手伝いをする。キッチンとダイニングの間のカウンターには百均で買った鉢植えを飾ってあるから、直接カウンターから手渡しできなかった。またいつCMが流れてお父さんが出てくるか待っていたが、CM前にご飯とお味噌汁と生姜焼きときんぴらを食べ終わったから、お風呂に入って寝た。ひかるは寝る前には、いつも不安定な明日のともえの予定をチェックしたがるものだった。それを言われるのをともえは見越して、寝る前はリビングのソファーでうとうとすることにしている。明晰夢の中で、何度か、ともえの部屋に戻ることを先取りして、流しっぱなしのテレビがCMに切り替わるたびに十五分くらいしか経っていないことに気がつく。ひかるは、ちゃんと自分の部屋で寝なよと言っていたと思う、いつかともえはともえの部屋で目覚めている。テレビは若いアイドルの女の子が、興味なさそうにVTRを見て、すごとか、へーとか、えーとか言っていた。アイドルと一緒に座っているお笑い芸人の女の人は、もっと長く、VTRのことを話していたが、あとでその番組がやっている時間帯を確認したら、ともえはとっくに眠っていた。

 どちらかと言えばお父さんを見たかったが、きっとともえが見る番組のスポンサーじゃなかったし、ともえもひかるも全然テレビは見ない。

 ともえはスマホのアラームが鳴る前に二度寝もできないから起き上がって、ひかるを起こさないように二枚のトーストをかじり、インスタントコーヒーでサプリメントを飲み、テレビのニュースを見て、ニュースを通じて毎日テレビを見ていたことに気がついた。通勤の電車でネットニュースを見ていたから、テレビニュースを見ていることを忘れていた。飛び込み防止の柵に沿って歩きスマホして、よく人とぶつかり謝っている。車には注意して、家から高架下に到着するまでは歩きスマホを控えている。それなのに、たまにひかるから歩きスマホを注意されて、ともえは何か全体的に見られているな、とわかった。だから、歩きスマホをして本当に危険なときはひかるがLINEしてくるだろうと信じている。家から高架下まで歩く間にSpotifyでニューリリースのアルバムを探していたら、車のクラクションがイヤホン越しに聞こえた。役立たずのノイズキャンセリングだった。ともえは健康診断でも聴覚に異常がないし、今のイヤホンは低音が強くて好きだ。またか、と思い出せる頻度で、クラクションを鳴らされている。

 それなりの満員電車の中で、ビーフジャーキーを家に忘れてきたことに気がついて、お父さんはがっかりしたけど、ビーフジャーキーなしで座って撫でられた。かわりに、かおるが骨ガムをその都市のスーパーで買ってきてくれて、歯茎によかった。かおるは笑顔で、帰りの運転をともえに任せて、ともえは速度違反で捕まった。お父さんはパトカーの音に震えていたので、かおるは、

「早くサイレンをとめてください。とても怖がっていて、健康に悪い。あなたに責任がとれますか? 明日もみんな仕事なんです……」

 そうしたら警官はサイレンをとめてくれて、

「事故を起こした方が責任とれないでしょ」

 と叫んで、ともえに紙を渡したが、後部座席に阻まれて運転席と助手席の様子はお父さんから見えない。

「次で免許停止じゃない。どうして?」

 とかおるが運転を変わって、怒った。ともえは車のオーディオにスマホをつなげて古いシティ・ポップを流して、鼻歌まじりに、

「早く帰った方が、お父さんも助かるよ。高速道路が怖いみたい」

「こちらも怖いよ……。ともえさんの代わりはたくさんいても、またお父さんが変わることになったら、すごく怒られるでしょうね」

「違いなんてみんなわかる?」

「うん」

 それっきり、ともえとかおるは黙って、オーディオからキラキラしたダンスナンバーを女の人が高らかに歌っていた。お父さんはそれにも震えていた。そのままお父さんは定められた小屋までかおるにリードで引っ張られて、毛布の上に座って二分くらいはまだ震えていた。小屋の換気扇は常に回しているのに、日中他の都市へ出かけている間はエアコンをつけていないせいか、毎日帰ってきたころにはほこりっぽくなっているように感じて、くしゃみしたい。震えがおさまったら、さくらが呼ばれて、お父さんは体温を測られたり爪を切られたりしてから、お椀に盛られた固形物を食べることを許可された。かおるはさくらに業務日報を手渡して、早くうちもペーパーレスにならないかなあ、と愚痴った。さくらは、でも変える権限ないからね、と苦笑いして、手渡された日報に視線を落とし、同時にずり下がった眼鏡をくいっとかけなおして、一箇所の誤字を指摘したあと、かおるの帰宅を許可した。さくらはいつも一箇所は改善点をあげるから、かおるはそのうちイライラするかもしれなかった。お父さんが食べ終わって、顔をあげると、さくらがずっとお父さんを見ていたことがわかった。さくらは今回はお父さんの大便を一目見ただけで、そのままビニール袋に捨てた。さくらは空調やモニターの最終確認を惰性で終わらせて、おやすみ、とお父さんの頭を撫でて、小屋の明かりを消し、鍵をかけて出て行った。電子ロックされる鍵の大きな音に、いつもびっくりしていた。これでようやく撫でられることからお父さんは解放されて、あとは眠ることしかできなかった。毛布の脇に置きっぱなしのお気に入りのぬいぐるみには、思い入れはなかった。むしろ、違うお父さんの臭いがまだ残っていて、早く処分してほしかったが、破り割いて自己主張するほどでもないとはいえ、いつも気持ちが悪い。そうしてうとうとしているうちに、すぐ電子ロックが解除され、それは明け方だったり夕方だったり真夜中だったりしたが、再び小屋から連れ出され、車のケージの中でうとうとする。さくらの与える食事の影響かもしれないが、お父さんは少しうとうとしたら、熟睡に至った過程を忘れて、知らない場所にいた。

 知らない子どもが、叫び声をあげて、手を叩くから、これからしばらく座って尻尾をふる義務を知る。マイクで女の人(知っている人の場合もあれば知らない人の場合もある)が子どもの叫びを打ち消すように甲高い声を出し、あるいは甲高い声に呼応して子どもが叫び、イオンモールのステージの裏からお父さんは引っ張ってこられる。イオンモールの一階のステーキハウスからにんにくの香ばしい臭いがして、身の危険を感じる。整理券を持たされた子どもが母親に抱えられてお父さんの前に列をなして、一部泣き叫ぶ子どもがいる。お父さんはどのような相手にもじっと座るだけだった。おやつを手渡そうとする子どももいたが、今回の女の人――まといさんとともえに呼ばれている――が断る。まといはお父さんを撫でることもせず、子どもたちの列を終わらせて、ともえに頭を下げると、さっさと衣装を脱いで、車で帰ろうと思った。日給は悪くないけど、不定期だし、子どもはうるさいし、もう他のアルバイトを探そうかな、とまといは思って半年経つ。衣装はあまりクリーニングしていないのか、倉庫臭い。まといはついでにイオンモールで動きやすいスニーカーを買いたかったが、今の靴もまだ履けるから我慢した。でも、そのまま帰るのはもったいない気がして、ゴンチャでタピオカミルクティーを買って、また太るなあとインスタグラムに投稿した。五分後に大学の友だちがいいねしてくれた。友だちには憲法Ⅲのノートを貸したし、この前のランチで割り勘して、千円渡せばいいことにしてあげたから、義理がある。でも、友だちは親からたくさん仕送りしてもらっているらしくて、みかんとかじゃがいもとかおすそわけしてもらっているから、総合的には、まといの方が友達からいろいろもらっていた。一人暮らしだから、じゃがいもは嬉しかった。タピオカミルクティーを飲みながら国道に沿って帰っていると、渋滞していた。車のテレビをつけて、速報を期待したが、お笑い芸人がバス旅して田舎の蕎麦を食べていた。事故でも事件でも渋滞が変わるわけではないが……。CMになって、お父さんが映った。

「今だけおトクな家族割!」

 とお父さんが言っていた。半年くらいはこのCMだから、映っているのはまだ老いぼれたお父さんのはずだが、CG加工されて、毛並みや眼球は若々しく見えた。でも、まといは、骨格が今のお父さんと別だって確信していた。そろそろCMも切り替わるはずだが、別にひと月に一度はお父さんと会っているから、いまさらCMで見たい気もしなかった。友だちは、お父さんの写真撮ってよ、と言ったが、規約違反だし、CMで見ればいいのに、と断った。

 今晩放送のバラエティのCMが流れて、うんざりしてまといはテレビを消して、スマホでこの地域のニュースを見ようとしたら、渋滞が動いて、やめた。

 帰って手を洗っていたら、まことから、家に来ていいかLINEが来た。アルバイト終わりで面倒だったが、

「ついでにマック買ってきて」

 と送ったら、サムズアップのスタンプが返ってきた。まといのからだはまだ衣装のかび臭さが残っていて、服を洗濯機に入れて、シャワーを浴びた。

 まことがビッグマックを食べながら、ほむらさんがさっき事故って亡くなったんだって、と言った。知らないと言うべきか迷っていると、小学校から大学までずっと同じだったんでしょう、かなしいよね、と謝った。まといはそうだね、と受け流して、コーヒーを吸いながらスマホで近辺の事故のニュースを見ていた。国道で二十代の女性が信号無視して車同士が衝突して死亡、相手の四十代男性も重症という一時間前更新のニュースを見つけて、これだな、と思った。まことは気を遣って、黙って、ビッグマックを頬張って、知らない人のためにお悔やみムードになって面倒臭かった。ほむらさんなんて聞いたことがないし、たぶんまことの他の知り合いの情報とごっちゃになっているんだろう。そう伝えるのも面倒で、テレビの音量を上げて、沈黙をごまかそうと思った。お笑い芸人が罰ゲームで電流を浴びていて、笑いそうになったが、知らない人へのお悔やみムードでも笑うのは不謹慎かな、と我慢したら余計に笑えて、フヒ……と鼻を鳴らしたら、まことは一瞬ポテトを食べる手を止めた。

 ほむらさんは居眠りだった。信号待ちしている間にうとうとして、ブレーキから足が離れて、ちょっとずつ車が前進していた。事故相手の男の人も、翌日には亡くなった。ほむらさんの家族は家族会議をして、お詫びに男の人の代わりになるよう、父親を差し出した。男の人の家族も、ほむらさんのかわりに男の人の子どもを差し出した。すぐに父親も子どもも、以前の好物や仕事や友達を思い出せて、支障はなかった。でも、家族全体から二人分減っているのは事実なので、そのうち公募することにした。まことは、ほむらさんの家族から誘われて、家族候補だったが、若すぎるから辞退した。若いと長続きするのに、とほむらさんの家族は残念そうで申し訳なかった。そういうことが以前あったので、またほむらさんが居眠り運転で亡くなった知らせをまことが受けたとき、やっぱりなあ、と思った。まといに頼まれて、国道沿いのマクドナルドに寄っている最中に電話で知らされて、返す言葉を考えていたら、家族がマイナス四になる気持ちがわかる? と言われて、事故相手がまた同じ人なんて、すごいめぐりあわせだと思った。もしくは、事故が繰り返されて、同じくほむらさんが亡くなったなら、事故相手も、もう一度同じ人に違いないと電話の主は思ったのかもしれない。家族候補はとっくに辞退していたのに、どうしようもないことで連絡されて、着信拒否しておけばよかったと思った。いつもなら、LINE以外の着信は、詐欺かセールスかだから応じないのに、見覚えはない名前だけど連絡先登録してある、という理由で、電話に応じなければよかった。それをまといに愚痴ろうと思ったのに、まといはほむらさんの話をしたくない様子で、気まずくて、ビッグマックから箱にこぼれたキャベツを指でかき集めている。

「でも、かわいそう」

 と、まといがテレビに顔を向けながら言った。お笑い芸人が罰ゲームで電流を浴びてMCに怒っていて、痛そうだったが、浴びる瞬間を見逃していた。「『でも』とは何?」と聞くと、けんかになりそうだからやめた。まといは、何か見る? と聞きながらU-NEXTに切り替えて、ホーム画面でドラマとかアニメとかサジェストされた作品をザッピングしていた。映画を見ると、この家に二時間近く拘束されてしまうのが、まことは怖かった。まといはぼーっと星評価を眺めて、ちいかわを流した。ちいかわたち生活よりは、今のアルバイトの方が命がけじゃなくて、ちょうどいいや、と思った。

 翌日は別の女の人のまつこが別の都市の、大きい公園でお父さんの前に子どもたちを整列させていた。まつこはベテランだから、どう声をかけたら子どもの注意をひけるかよくわかっていた。意識的、無意識的にコントロールされたマイク越しの周波数で、子どもはたいてい、自己主張のための意味の解さない奇声から、まつこへの返事へと変化するけど、その日は小雨が降っていたから、そちらに子どもたちは夢中だった。まつこは今日は無理そうだなあ、と思いながら、

「それじゃあみんなで呼んでみましょう。お父さん!」

 と、二度繰り返した。母親たちが

「お父さん」

 と、ボソボソ返事した。お父さんは公園のステージは濡れるからいやだったし、どうせ濡れるなら水浴びしたかった。水鉄砲で子どもをびしょびしょにしたら楽しそうだった。そうしてかおるがお父さんを引っ張ってきて、まつこに、

「雷の予報なので、巻いてください。最悪、なでなでするくだりはなくしていいです。プロモーション優先で」

 と、耳打ちして、まつこは早く帰れそうでラッキーと思った。早く帰る口実ができたので、お父さんは雷が怖い、と断って、撫でさせることをキャンセルしたら、いまさらになって子どもががっかりしだした。地団駄を踏んでイヤイヤしているのをまつこはあしらって、さっさと台本を若干早口で読み終わって、衣装を脱いで帰った。そのころには、本格的に大雨になってきたから、かおるが、さすがですね、とほめた。女の人はタオルを貸されて、これも倉庫臭くて気持ち悪かったが、儀礼も含めてざっと拭いた。傘を忘れたとまつこが雑談すると、ともえが車から古いビニール傘を渡した。お父さんはビニール傘を奪われるのがいやだったのに、かわいい水色のレインコートを着せられて、まつこに興味ないそぶりでスマホをいじって、映画スター気取りだった。まとめサイトで、今放送しているアニメの評判を見ていた。それで、アニメを見た気になっていた。まつこは予定よりも一時間くらい早く帰れたから、余った時間で角煮を作ることにした。煮込んでいる間にシャワーを浴びて、また煮込む間にテレビでドラマの再放送を見ていたら、退屈で眠ってしまったらしく、角煮は煮詰まってしまった。でも、食べるには十分だった。若干の焦げ臭さをまつこの子どもは感じとったが、もし指摘すれば、嫌なら食べるなと言われて、当てつけにお菓子を食べて、余計に怒って外出禁止なんかになることはわかった。折りたたみ傘をランドセルに入れっぱなしでよかったと言ったら、プリントも折りたたみ傘も入れっぱなしはやめなさい、と言われた。それで思い出して、明日の図工で牛乳パックをもってくるように書かれたプリントを渡すと、やっぱり外出禁止になって、まつこは三分の一くらい残っていた牛乳パックを一気に飲み干して、もう一本スーパーで買ってくるから待っていなさい、と指示した。下手に謝ると刺激するのはわかっているから、小声で返事して反省のそぶりを見せた。子どもは小学校の友だちにお父さんを知っていると自慢したかったが、実際にお父さんと会ったことはなかった。せめて、お父さんの写真を撮ってほしいとねだったが、仕事のルールでだめだし、CMで見ているからいいでしょう、と言われた。もし写真を撮ってもらって、自慢しても、クラスメイトから、でもCMで見ているから、と返事されて、おしまいになりそうだった。お父さんの写真より、子どもが捕まえることができた伝説のポケモンの方が羨ましがられたし、それで子どもは満足していた。お父さんは友だちとポケモンを交換して、進化させたり図鑑を埋めたりしたかった。攻略wikiで、データベースは見ている。お父さんはいつもスマホで写真を撮られる。ちかごろはフラッシュがなければ黙認されていた。さくらはインスタグラムをだらだらスワイプして、お父さんの写真がアップロードされているのを探して、権利者として通報する。趣味だった。それで、ときどき写真が削除されると、さくらは憂さ晴らしできた。さくらは夜おそくなってから寝る前、ベッドで一時間くらいインスタグラムを見て、通報を繰り返している。お父さんのおっかけをしているアカウントのフォロワーから、芋づる式に、お父さんの写真を探している。上司は、宣伝効果もあるから、といって、お父さんの写真を放置するように指示していた。だから余計に根絶やしにしたかった。

 そうして毎晩、さくらはお父さんの健康をチェックしてから、帰宅して通報を繰り返して、オーディション前のお父さんも見かけたりして、懐かしく思った。あのころはさくらも、ハンドクリームを塗らなくてもビニール袋が開けたし、乱視もまだひどくなかった。オーディションのまえあたりから、どんどん月とかテレビのテロップとかぶれて見えて、目を細めるのにも疲れてしまった。テレビのテロップが読めなくなって、バラエティ番組を見るのがつまらなくなって、メガネを新調した。右目の乱視が特にひどくて、新しいメガネは左右でまったく違うレンズが入っていた。新しいメガネで光景が矯正されて、さくらはいままでの生活が歪んでいたんだな、とわかった。分裂する焦点を信じて、歩き方とか臭いとか声とかで区別を行って、ともえをともえさんと呼んで、かおるをかおるさんと呼んでいたが、矯正された目で見たら、だいたい同じ人だから呼び分ける必要もないな、と理解した。都市から帰ってきた、ともえかかおるかそれ以外の人が日報を渡してきて、違う筆跡を確認しつつも、内容はテンプレートに沿っていたから、誰が書いても同じことだった。なのに、いつもテンプレートから逸脱した部分を一箇所は見つけてしまって、メガネが忌まわしい。だけど、メガネを外したら運転して帰れないくらい、悪い。今回、日報を渡してきた人が、早くペーパーレスになってほしいと愚痴って、どこかで聞いたような気がしたが、さくらが思っていたことだったのかもしれない。日報を挟んだクリアファイルはたまる一方で、読み返したことなんか一度もないから、すべて燃えてしまえと思っている。歪んだ人たちが、歪んだ営みを、歪んだ言葉で記録し続けて、どうして、定めてもらえたテンプレートに従えないのかわからない。イレギュラー対応する日なんてめったにないから、小学生の絵日記のように「今日は何もない素晴らしい一日だった」で終わってしまうことなのに。さくらはインスタグラムに今日の夕食をアップロードして、眠ろうとしたが、スプーンの反射でさくらの顔が映ってしまっていることに気がついて、削除した。せっかく寝るなら、お父さんはポケモンスリープを導入したかったが、誰も聞き届けないことだった。お父さんは目覚めたらまた高速道路に乗るのがわかってしまって、よく眠れないというほどにはおびえず、よだれを垂らしている。モニターが反応して、お父さんが眠ったことが、さくらの仕事用のスマホに通知された。とっくにさくらはうとうとしていたから、仕事が私生活に入り込んでいていい気はしない。まだ六時間以上眠れた。熟睡のためにぬるま湯での半身浴やホットミルクが馬鹿らしく感じた。毎晩夢を見て、疲れがとれないけど、薬やサプリメントに頼ることでもなかった。一度、目覚めると、冷蔵庫の駆動する音がイライラさせてきて、眠れない、と思っているうちにアラームが鳴って、けっきょく眠っていたらしい。冷蔵庫の音が気になるという夢だったのかもしれない。メガネをかけないまま、ルーティンでテレビをつけて、読めないから聞き流していた。朝食を食べるのが面倒だった。仕事用のスマホに通知が来ていて、お父さんも目覚めたらしい。以前はずっと寝ていたのに、元気らしい。あるいは興奮させすぎているらしいから、食べ物に調整が必要かもしれない。ストレスはかわいそうだから。

 さくらのインスタグラムを経由して休日を知って、わかなが久しぶりに連絡してきた。お父さんの話はさくらはしたくなかったが、いっしょに映画に行こうと誘われた。その日は水曜日だったから、少し映画が安く見られた。わかなは遅れて大学院に入って、アルバイトしかしていないから、時間の融通がきいた。待ち合わせとランチを兼ねて入ったサイゼリヤで、わかなはもっと簡単で稼げるバイトないかなあ、とコンソメスープを飲みながら言った。さくらは、詐欺の末端にならないように気をつけなよ、と嫌味をいいそうになった。わかなは、

「空気の抵抗を学んでも、アルバイトではまるで役に立たないよ。まったく、プールの監視員は楽ではあるけれど、自分が泳ぐわけではないし、水の抵抗は専門外でしょう。他のプールの監視員は、肩とか太ももとか筋肉が強くて、私、中学時代に市で二番目に弱い水泳部だったから、コンプレックスを刺激されているかもしれない。それで、他の人は、若い。就職活動も、私の研究の話をする以外ないけれど、JALやJAXAに入るわけではなさそうだから、自分探しの旅をした方がいい?」

 さくらは、わかなが面接でニコニコしていれば、だいたい行けるところに行けるだろうと思っていた。

「アジアのどこかとか?」

 と話を続けた。

「パスポートをとるために地元に帰る二度手間なら、地元で自分を探した方がいいかもしれない。幸い、日本はアジアだし。アジア名物を食べて、アジアの名所を観光して、実家でホテル代も節約できる。前、実家に帰って、母方の親戚が集まって、お城を見に行ったとき、おみやげ屋さんで、知らない同い年くらい人が、『わかなさんのお母さんですか』って私の母親に話しかけたらしい。呼び出されて、挨拶して、たぶんお互い知らない顔だったから会釈した。これも自分探しの一環だったのかな。それで、小学生のころと中学生のころの思い出を思い出そうとしても、教室で、休み時間に、ノートを切って将棋をやっていたことしか人との記憶がない。相手が誰だったのか忘れてしまった……。教室では私が一番将棋が強かった。棒銀を知っていたから」

「その人、ほむらさん?」

 とさくらは聞いた。

「そうかも。なんで?」

「私もよくうろ覚えの人がいて、その名前を思い出せないんだけど、いくつか名前を言うと、そうかもって思ってしまうから、もし、わかなも同じように、知らない名前に反応して、そうかもって思うなら、同志だなって。私たち、いつ知り合ったっけ?」

「思い出せないくらい昔だから、今、はじめてあったわけではないよね?」

 遅れて、サイゼリアに、よしかが到着して、さくらとわかなに手を振った。さくらとわかなは曖昧に笑った。よしかはわかなの横に座って、

「よく来るから番号覚えたんだ」

 と言って、メニューを見ず、注文した。わかなは、誰? と言えず、すごいね、と言っていた。さくらは、

「注文してから料理がくるまでの持て余した時間って、映画の待ち時間だとしても、もったいない気がしない?」

 よしかはにやにやして、

「それって、デートの約束をして、当日着る服を考えている段階ですでにデートがはじまっているようなものだね。それか、一度どこかで聴いた音楽が、脳内でリフレインし続けるから、聴いたあとも聴き続けるとか」

「私、聴き続けてずっとラジオ体操第一、口ずさむ。腕を前から上にあげて大きく背伸びの運動……」

「それって病的」

 とよしかに言われて、わかなはむっとした。さくらは、映画について、劇場のサイトで予約するときに見たポスターしか知らなかった。わかなとよしかもそうだった。だから、よしかは映画の話をして、映画への期待を高めたかったけど、言うことがなくて、思い出話をしていた。わかなはときどき相槌をうっていて、だいたい知り合いだったかもしれない。ほむらさんの話題はなかった。わかなは気をよくして、小刻みにラジオ体操じみた動きをして、コップに腕があたりそうになって、道化だった。さくらは早く帰りたくて、早く映画の時間にならないかな、と思いながらドリアを食べる。よしかは、映画のパンフレットを買いたいから、そろそろサイゼリヤを出たかったが、わかなはだらだらパスタを巻いていた。一口が小さい。

 わかなは昨日の夕食も、調理が面倒臭くて、ペペロンチーノを作ったことを思い出した。研究室で駄弁っていた帰りで、遅くなってしまった。同じ研究室のかえでは、こっそり研究室に発泡酒を持ち込んで、鍋もしたいと言っていた。こっそり誰かが持ち込んだ麻雀牌をじゃらじゃらしながら、四人で(二人の後輩の名前は忘れてしまった)たこパする約束をした。たこパに必要な道具を誰ももっていないことはすぐにわかって、お金を出し合ってたこ焼きのためのホットプレートを買うのは馬鹿らしく、お好み焼きをフライパンで作るか、考えて、けっきょく麻雀で負けたわかなが罰ゲームで人数分のたこ焼きをおごったら、たこパの話は忘れられて、たこパの話がなくなったから、あとで点数計算が間違っていることに気がついたわかなは、それも許した。かえでは、研究室のPCからSpotifyに接続して、ヒットチャートのプレイリストを流していた。PCの性能のわりに、スピーカーの質はたいしてよくない。それで流行りのJ-POPをクラブミュージックにして、ダンスするほど四人は陽気ではなかったが、かえでは酔っていて、半音ずれたハミングをした。かえでは、

「このメンバーで卒業旅行するとしたら……卒業するのは私とわかなだけど、いや、私もわかなも卒業できないかもしれないけど、そうしたら奨学金がたいへん。みんなは実家暮らしだっけ? 仕送りとアルバイトだと卒業旅行で海外は難しいかもね」

「家族割はしてる?」

 と後輩が聞いた。かえでは斜めに首を傾げた。

「全体的に経済的ですよ。いくつか家族を紹介しましょうか? その家族からの仕送りも得られるかもしれない」

 わかなも、家族割が前の家族とトレードオフだと思っていたから、悪くないかもな、と思った。今の時給千二百円はあまりよくないし、一時間おきに、おぼれ死んでいる人がいないかチェックするのは、案外キリキリしていた。別の監視員は、何度かおぼれ死にを見過ごしてしまって、とても怒られたらしい。かえではスマホをスワイプして、家族割の対象を探してみた。お父さんのCMをしているところなら、よく名前を聞くし、知らない怪しいサイトより安全だろうなと思った。

 CMでよく見るわりに、サイトは簡素なつくりで、ちょっとかえでは疑った。かえでは、まあ、そのうちにね、と言って、スマホをしまって、酒を飲んでごまかそうとした。かえでが酒に強いのは三人とも知っていたから、なにかうしろめたいことがあるのかな、と邪推していた。サイトのバナーで、お父さんの写真に吹き出しで、

「今だけおトクな家族割!」

 と書いてあった。その下に検索条件の指定や、人気の家族の集合写真がある。

 かえでは、これまでの家族の顔を思い出そうとしたが、うろ覚えだった。酒で頭がうまく働かないのかもしれない。奨学金、修士論文、卒業旅行、たこパ……。頭にあるのはそればかりだった。J-POPがエモーショナルに、男女のかかわりを知ったようなことを歌っていて、頭痛がするような気がした。

 後輩が、嘔吐しているかえでの背中をさすっている間に、わかなは研究室から抜け出して、駅に向かっていた。横着して横断歩道じゃないところで道路を横切ろうとしたら、プリウスにひかれそうになった。微妙にぶつかって、へこんだりしたら弁償を要求されるかもしれないとひやっとしたら、プリウスは走り去って助かった。駅のある方向の二百メートルくらい先の横断歩道でプリウスが止まって、その横に追いついたら気まずいから、プリウスが見えなくなるまで道路の端っこで立ち止まっていた。電灯のせいか小虫が二匹くらい、わかなの顔にまとわりついて、うっとうしくて、けっきょく駅へ歩きはじめて、プリウスの横に追いついてしまった。横断歩道で信号が変わるのを待っていたら、プリウスの助手席に座っていた人が、暗くて顔はよく見えないけど、わかなをじっと見ているのがわかった。話しかけられたらいやだなあ、と思っていた。でも、信号が変わったら、そのままわかなもプリウスも直進して、離ればなれになった。電車に乗ったら、わかなから、かえでのせいで、酒と吐瀉物の臭いがするかもしれないから、迷惑かもしれないが、リセッシュとかを持ち歩いてはいない。臭いケアは、フリスクだけだった。わかなは飲んでいないからフリスクを噛む必要はなかったが、二粒手のひらに出してしまって、マスクを下げて口に含んだ。電車で眠ってしまって、さくらからLINEの返事が来て、終着地前に目覚めた。誘ったけど、映画に行くのは面倒だった。さくらも映画は面倒だったけど、U-NEXTのポイントがたまっていて、使わないと消えてしまう。さくらは業務上、交換して、もう連絡することのないLINEの友だちをさっぱり消してしまいたかったけど、プライベートで会った友だちとの区別がつかないからできない。連絡先の交換は、すべて仕事用のスマホと使いわけたかったが、スマホが支給されるようになったのはここ数年からだった。なおさら、数年以上前の知らない人を消したかったが、年始のあいさつはくることはあった。この前も、急に、

「お久しぶりです。本日のイベントですが、悪天候のため、お父さんとの触れ合いは省略しました。担当者の方々の指示です。念の為ご報告しました。今後ともよろしくお願いします」

 と連絡が来ていて、誰? と思った。前の日報で、似たような報告は受けていたから、それのことだとはわかった。楽天やヤマトの通知に紛れて、返事しそびれて、余計に面倒になって、既読はつけていない。さくらはかおるに確認のLINEを送った。仕事用のスマホで。かおるは面倒だったけど、未読無視すると余計に面倒だったから、日報で報告した通りです、と返事した。かおるは徹夜するつもりでカラオケに来ていたけど、さくらから連絡されて、やる気がなくなった。でも、フリータイムの料金はもう支払ってしまったから、六時間、知っている歌を思いつく限り歌った。好きな曲のピッチがずれていたが、キーを調整するのも手間で、声さえ出せればよかった。時間いっぱい歌って声がかれて、朝食をこれから用意するのも面倒で、マクドナルドか吉野家に行こうとしたが、のどに油が必要だな、と思って、ファミリーマートでファミチキを買おうとしたが、早朝だからか、レジ横になかった。仕方がないから、明太子と昆布のおにぎりを買った。帰宅するまで、大通りに沿って歩いて、まだ鼻歌を歌っていた。途中三人、これから動きはじめる電車に乗るために歩いているであろう人とすれ違って、鼻歌を中断した。アパートの鍵はしめわすれていた。まだ薄暗いから電気をつけて、服を洗濯機に突っ込んで、シャワーをあびて、鼻歌を継続して、エアコンをつけて、下着のままおにぎりを冷蔵庫の麦茶で流し込んでいた。ぱりぱりしたのりが、ふとももの上に落ちて、汚い。LINEを確認したら、めぐみから、

「起きてる?」

「今どこ?」

「寝てる?」

「寝た?」

「無視してる?」

「話し合おう」

「寝てるね。ごめん」

「アパートあいていたけど今どこ?」

「寝てないよね」

「話し合おう」

 と深夜に連絡がきていた。さくらを未読無視する口実のために、スマホの電源を切らなければよかったなあ、と思った。さくらからはさすがに、何も連絡はきていなかった。めぐみも、用件くらい書いてくれたらよかったのに、何が言いたいのかわからなかった。これからかおるは寝るつもりだったから、返信して、まためぐみから連絡されまくって、眠りを妨げられることがいやだったから、また電源を切ろうと思ったが、既読無視したうえに、電話でもされて「電源が入ってない」と通知されたら余計にうっとうしそうだったから、そのままにして、部屋着にしている高校時代のジャージに着替えた。なかなか神経が昂って眠れなかったから、耳栓かわりにイヤホンをして、Spotifyで、アンビエントを流した。さんざん自分の声を聴いたから、ボーカルは聞きたくなかった。アルバムが終わる前にはうとうとできて、バイブ状態にしてあるスマホが何度か振動した気がしたが、眠たくて、手に取る気持ちではなかった。しばらくしたら、キムチの匂いがしてきて、目覚めていた。イヤホンは外れていて、ぼんやり目をあけると、めぐみがキッチンで何か炒めていた。めぐみは振り返らず、

「アパートの鍵は気をつけてって言っていたでしょう」

 と呟いた。かおるは、まだ布団にくるまりながら、

「仕事は?」

 と聞いた。

「今日は休みだからどこかにでかけようってずっと言っていたでしょう。今日は休みだから、早起きして、電車で遠いところに行って、観光したいねって言っていたのは、誰?」

「レンタカーのつもりだった……」

「仕事じゃなくても車に乗りたかったの?」

 めぐみがくすくす笑った。スマホを確認したら、お昼はとっくに過ぎていた。確かに寝起きでレンタカーに乗ることはおそろしい考えで、遠出して、疲れて、レンタカーに乗るのもおそろしい考えだった。本当だったら、今朝すれ違った人たちと同じ行動をしていたのが、かおるだった。始発で電車に乗って、温泉にでも行って、ラウンジで昼寝していたはずだった。ラウンジで寝るはずだった時間は、アパートにあてられた。めぐみは、創味シャンタンがないと騒いでいた。冷蔵庫を三、四回開け閉めして、でもいいやって叫んだ。ご飯はとっくに炊かれていて、わかめとたまごのスープと、キムチと豚小間を炒めたものと、白米を出された。おにぎりがまだお腹に残っていて、そんなに食べたくないとは言えなかった。おいしいと言うことしかできなかった。めぐみはうん、と返事して、

「コンビニおにぎりみたいな、インスタントな食生活はやめてって言ったよね。とても健康に悪い。それにゴミ箱、アイスバーばっかりで糖尿病になる」

「それで、美術館に行くのはどう? 絵が、期間限定なんだよ」

「休日が、運動不足解消のためなんだよ……」

「仕事が、ほとんど車内で申し訳なく思っている。でも、高速道路って景色があまり変わらないから、ランニングマシーンみたいで……」

「だから、今日は休みだから、早起きして、電車で遠いところに行って、観光したいねって言っていたのは、誰?」

 めぐみは二杯目のご飯をおかわりしていた。めぐみはまといから、かおるの様子を見るように頼まれていたけど、変わりなく元気そうで、無駄に心配したな、と思った。まといは急に自動車運転をおびえだして、めぐみに、お父さんたちに絶対居眠りしないようにさせなさい、と注意してきた。しつこいから、様子を見てくると言ってしまった。少なくとも、かおるの変化はわからなかったが、苦手なキムチを食べている。まといがほむらのかわりになったから、めぐみがまたかわりにイベントをしないといけないかもしれなかった。勤務はしばらくしていないけど、在籍は残っていた。そのうち、かおるから連絡がくるかもしれないが、かおるはキムチをおいしいと食べている。ご機嫌とりの嘘つきめ、とめぐみは思ったが、それを怒るのは理不尽かもしれない。かおるはめぐみが不機嫌を隠しているのがわかって、これが積み重なって数日とか数週間とかたって、やつあたりに発展するだろうとわかったが、今は食事するしかなかった。かおるはがんばって、全部食べきった。おなかいっぱいで、出かける気はなくなったし、眠たくなってきた。この場で眠ってしまえば、めぐみがかおるのスマホの指紋認証を突破して、勝手にデータを見そうな気がした。誰の差し金か、めぐみの考えかわからないけど、たぶん監視しに来ている。めぐみを帰らせる口実も思いつかなくて、いっそめぐみをここで寝かしつけようと思って、U-NEXTで、なるべくつまらなそうなサメ映画を選んだ。演技もCGもガタガタで、一時間半、かおるもめぐみもくすくす笑っていた。めぐみは愛想笑いしながら、予算の差はあるけど、お父さんのCGとは出来が違うな、と思って、

「やっぱりお父さんを作るのには、お金かけている?」

 かおるはサメをじっと見ながら、

「生き物だからね」

「見せかけなのにね」

 かおるは少しいらっとしたが、顔に出さず、広告戦略が大事だから、と説明した。めぐみはかおるが寝ている間に、かおるの指で指紋認証を試したが、エラーでスマホの中は見ることができなかった。親指以外を登録しているのかもしれないと、いまさら思った。かおるがまた昼寝するのを待って、また失敗して、スマホに警告されたらあとでたいへんそうだから、横目でかおるがスマホをいじるのを見ていた。ホーム画面の空欄のカテゴリにマッチングアプリがいくつか入っていて、追求するべきか迷った。

 かおるは、マッチングアプリで会ったまつおに、いまいち違和感をおぼえて、めぐみと付き合っていることにしていた。そうしたら、まつおも既婚者だと言って、問題ないと言われて、逃げられなくなった。マッチングアプリで交換した顔と、雰囲気が違う気がした。まつおと居酒屋で拘束されて、互いに距離感を探っていた。このままでは、かおるはまつおと一晩寝ることになりそうだった。めぐみの話をして、明確に拒否したつもりになっていた。まつおは、

「うちの家族も、タブレットの顔認証を眠っている間に突破してくるから、パターン認証にしましたよ。パスワードは長いと面倒だし、数字だと指紋のあとで突破されるかもしれませんから。見られて困ることはありませんが、この年で、攻略wikiを見て、ゲームをした気になっているのは、恥ずかしいでしょう。もう、ゲームする気力がなくて、子どものころはゲームを買ってもらえなくて、古本屋で攻略本を立ち読みして、学生時代は受験勉強でゲームする暇などなかった……」

「ポケモンスリープはしてますか? 仕事柄、睡眠記録をチェックしているものですから、それがゲームだったら楽しいかもしれない」

「いろいろな手段で報酬系を刺激できますねえ!」

 まつおがテーブルの下で、足を微妙に絡めてきた。かおるはそのままの姿勢でふくらはぎを固めていた。まつおは、

「生活すべてがゲームだととらえて楽しいものだと言い聞かせるのって、邦画に出てくる金髪の劇場型天才犯罪者みたいじゃないですか? ゲームと称してビルとか車とか爆破する予告をずっといくつも見ていた気がします」

 かおるは、そうですね、と言って、事実見た気がしたが、具体例を言えず、それ以上会話を続けられなかった。邦画あるあるでも言えばいいのかもしれないが、最近は映画館に行ってなかった。まつおは週に一度は映画館に行っていて、楽しい映画の話をしたかったから、ぼんやりした揶揄をしなければよかったと思った。直近に見たのは、古い実験映画のリバイバル上映だったから、その話は盛り上がらなそうで、

「この前の金曜ロードショー見ました? またジブリでしたね」

「見たことはあるんですけど、見たことあったので見てないんですよね」

 まつおもそうだったので、頷いて会話が途切れる。具体的なシーンを話そうと思ったが、いつ見たのかも思い出せず、印象だけが残って、ぼんやりしていた。たぶんはじめて見たのも金曜ロードショーだったから、放送時期を調べたら、いつ見たのかはわかりそうだったが、知っても、映画自体を思い出せそうになかった。でも、とかおるは言った。

「金曜ロードショーで、ハリー・ポッターは見たことあります。どのエピソードを見たのかは思い出せませんが……。役者も、青年だったり、少年だったり、いろいろです。だから、いくつかのエピソードを見たのは確実だと思います。魔法で、何かと戦っていた」

「わかります、アベンジャーズもいくつか見ましたけど、役者の若さで時系列を把握していました。でも、違うみたいですね」

「よく、役者の顔の区別がつきますね」

 まつおは、でも映画スターは全員ゴム仮面をつけているから、顔の区別など無意味ですけどね、とは言えなかった。真実を教えたら、かおるもおびえてしまうかもしれない。まつおは、顔の区別をしなくていいから、顔のない幽霊が出てくる映画が好きだった。幽霊が怖い顔をしていると、ゴム仮面が、と興ざめしてしまった。もし幽霊と遭遇するなら、顔が見えないとうれしいし、そうしたら、まちなかにもありふれているゴム仮面と区別がついて、幽霊だと確信できるからうれしいだろうな、と思った。でも、わかりやすくのっぺらぼうを見かけたら、やっぱり、ゴム仮面が、と思いそうだった。かおるの首すじを見て、ゴム仮面をつけているのか調べようとしたが、襟をつめているし、ゴム仮面はたいてい、ドーランでも塗っているのか、わからないように擬態している。かおるは、じろじろ見られて、値踏みされているな、と思った。LINEは断れず交換してしまったし、やっぱり今晩寝ることになるんだろうと諦めていた。財布だけは、万が一抜かれないように監視しようと決意していた。こういうときこそ、めぐみから連絡がきたら、この場から逃げる言い訳になるのに、何も通知はなかった。

 めぐみはまといをやめたほむらと、もう一度仕事の引き継ぎをするために、さくらに連絡していたが、なかなか連絡がつかなかった。めぐみは、別に、ほむらになっても、アルバイトは続ければいいのに、と思っていたが、何かちょうどいい機会だと思ったのかもしれない。それより、めぐみは、またお父さんとふれあわせる仕事をしなければならないことに、うんざりしそうだった。かおるたちに指示されて、子どもの奇声を管理する仕事は終わりだと思っていた。お父さんはどの女の人とあうことになっても、ビーフジャーキーさえもらえればよかったが、ビーフジャーキーを与えるのは、ともえやかおるの仕事だった。めぐみはさくらとの連絡はまだつかないし、ほむらに文句を言うのはすじちがいな気がした。さくらはまといのLINEアカウントから、ほむらです、と電話がきて、手続きが必要だった。もう一度履歴書を送ってもらい、寝る前だったので暗い部屋のまま、メガネをかけず、ざっと履歴書を見たら、まといの顔で、経歴は何度か事故死してほむらだった。振り込み口座はかわらずまといの使っていたもので、ほむらになっただけならそれでいいやと放置することにした。めぐみから、まといがいなくなったことの引き継ぎについてLINEがきたが、翌日返事することにして未読無視した。めぐみがどうしてまといがほむらになったのか知っているのかは気になったが、プライベートに干渉したくない。

 ほむらはブランクはあったけど、まといだったころの思い出で、滞りなく仕事ができた。お父さんは知っている顔だったから、尻尾を振って伏せていた。ほむらとしては、久しぶりになる倉庫臭い衣装も、懐かしく思うことなく、こうして洗濯されないまま使い回されるんだなあ、と思い続けることができた。家族割を受けたまま、ほむらはほむらの家族から、いままでのアパートに住むことを許され、緊張しながら車で帰宅する。眠気の少ないからだでよかったと思った。アパートに最近はまことはこなくなっている。ほむらと婚姻して、間接的にほむらの家族になりかねないのが怖いのだと、ほむらはわかっていた。食後も眠くならないから、仕事の終わりにイオンモールでクレープを食べることだってできた。なごりで、インスタグラムに投稿したら、大学の友だちから、

「このまえは民法のノートありがとう。おごるから、ランチ行く?」

 とDMがきた。ほむらは、キャビアとフォアグラを要求したら、大学近くのラーメン屋さんに決定した。その話をまことにしたら、富江みたい、と言ってくれてうれしかった。まことは、まといがアルバイトにうんざりしているのは知っていたけど、家族割を受けるとは考えていなかった。まだ、ほむらの家族は、マイナス四を補充するために、まことを狙っている。若いって罪だなあ、と陳腐な自己憐憫をした。まことは、どうにかほむらとの関係を整理したかったが、そもそもどのような関係なのか思い出せなかった。何度も、食べ物を運んだのは、まことが出前館のドライバーをしていたからなのは確実だった。またほむらから、牛丼テイクアウトしてきて、とLINEがきて、まことは従っていた。ほむらのアパートには、すでに知らない人がいた。どうも、めぐみです、とあいさつされて、まことは会釈した。ほむらはアパートにいない様子で、めぐみが、ほむらさんのかわりにきました、早く牛丼を食べましょうと、言うので、二人前の牛丼を食べてしまった。たぶん、仕事関係の人なんだろう。めぐみは、牛丼を食べて横になったまことに、アルバイトに興味ないか聞いた。まことは目を閉じたまま動かなかった。

「簡単な仕事ですよ。CMの家族割のお父さんは知っていますか。それのプロモーションイベントのスタッフです。日給はいいし、いろいろ手当もありますよ。私もやっていて、しばらくやっていなくて、これから、また再開するつもりなんですけど、そのかわりをよかったらやりませんか。知り合いの方が安心して、次をまかせられますから」

 知り合い、と言われて、まことは目を開けた。めぐみはほほえんで、

「本当はベテランスタッフが重宝されて、引き継ぎするんですけど、数に限りがありますから」

 めぐみは、スマホを操作した。ほむらと同じiPhoneを使っていた。まことのスマホに通知がきて、LINEで、知らない友だちを紹介された。めぐみは、そのさくらさんに連絡してくれたら、引き継ぎは完了する、と伝えた。まことは、はあ、と気の抜けた返事をしていた。たぶん、この事態も、ほむらの(あるいはその家族の)差し金なんだろうな、と勝手に理解していた。考えさせてほしい、と言うと、めぐみは、すぐに立ち去った。千円札だけ、テーブルの上においていって、気前がよかった。めぐみは、さくらに、かおるのかわりが見つかったかもしれません、とLINEを送った。これで、さくらがまことをどう判断しても、かおるの指示にしたがうめぐみの構図は避けられそうだと、ほくそえんでいた。さくらは、めぐみからのLINEを見て、かおるをかえる必要はいまのところないし、めぐみはやめたいならやめると言えばいいのに、と思った。

 めぐみはかおるのアパートで、冷蔵庫をあけて、回鍋肉をつくっていた。また鍵はあけっぱなしだった。そのうちかおるが帰ってきて、疲れていた。めぐみは、かおるにお風呂に入るようにすすめて、かおるはそうした。お風呂は若干熱すぎたけど、黙って少しだけ湯船につかった。今日は雨だったから、めぐみが気をきかせたのかもしれない。雷も鳴っていて、お父さんが震えていたし、子どももばらばらと帰っていったので、早くには終わったけど、撤去作業なんかが手間になって、けっきょく普段よりも疲れていた。まつおから、仕事中にもLINEがきていた。

「仕事中ですか?」

「今どこですか?」

「忙しいですか?」

「久しぶりです」

「無視してます?」

「会いませんか?」

「忙しいですよね、すみません」

「いつ会えます?」

「またアパートに行きますね」

「鍵あいていましたよ」

「いったん帰ります」

 LINEでまつおをブロックすれば解決しそうだったが、二回アパートに招いてしまったから、逆上されるかもしれなかった。二回とも、まつおは寝るでもなく帰っていって、何をしたいのかいまいちわからなかった。

 かおるは、いいかげん、鍵をしめるくせをつけなくちゃいけないとは思っている。仕事中も、車の鍵をよくかけ忘れるから、あおり運転をされたとき、危ないよ、とともえから注意されていた。でも、あおり運転されるくらい、だらだら走っていた方が、ともえみたいに荒い運転するよりましだと思っていた。ともえは、雨の日は、余計にスピードを出しがちだから怖かった。速度制限より二十キロくらい早くアクセルを踏む。ともえは濡れた日は早く帰りたかったが、帰っても別にすることはなかった。一日三話くらい、マイメロのアニメを見ていて、もう何周かしている。ひかるは、よく飽きずに見続けているね、と呆れていたが、他に見たいものを考えるのは面倒だった。U-NEXTを解約するのも面倒で放置して、U-NEXTに入っているからには、何か見ないといけなかった。ひかるは何か映画でも見たらいいのに、と思って、たまにテレビのドラマの再放送を見るかわりに、U-NEXTの新着作品を流してみて、昼寝していた。昼寝が積み重なって、夜、寝にくかった。眠れないまま数時間、ベッドの上でゴロゴロしていると、たいてい、ともえが夜中にキッチンに行く音が聞こえる。たぶん、アイスを食べている。ひかるは、新しい作品は眠ってしまうから、古い作品を見ることにして、カリガリ博士を見た。モノクロで、人の区別がつかなかった。よく話がわからなくて、Wikipediaで調べたら、眠り男と人形が入れかわっているシーンがあったらしくて、じゃあ、よくわからないのも、もっともだったな、と納得した。

 ともえが帰ってきて、食卓にカレーを並べながら、映画の話をしたかったが、ともえはマイメロをじっと見ていた。マイメロがおねがいをして、人を酷使して、ご褒美にキャンディを与えていた。それって、現状に共感しているの? とひかるは言いたくなったが、はいでもいいえでも、会話が終わりそうだった。ひかるは、Wikipediaに書いてあった、映画のあらすじを説明した。ともえは、へーと言った。二人とも、黙ってしまったので、ひかるは、でも、人の区別できなかった、と言ったら、ともえは、かおるから聞いたけど、ゴム仮面だからだろうね、と言った。ひかるは、古い映画でどのくらい特殊メイクの技術があるのかわからないから、へーと言った。また黙って、二人とも同じくらいにカレーを食べ終わった。おかわりは残していたけど、あまり食べる気にはならなかった。残りは次の日のともえとひかるの朝食になって、まだ残って、ひかるの昼食になった。それでもけっこう量が多くて、食べきったらおなかいっぱいになって、眠い。また何か映画を見なければならないと思った。うつらうつらしながら、義務意識だけ強まって、気持ち悪い夢を見て、また夜寝るのがたいへんそうで、うんざりした。

 ひかるが眠れなくてベッドでごそごそ動いているのが、別の部屋でもともえにはわかって、眠れなかった。夜中に何度もともえはトイレに行って、玄米茶を飲んでいた。そうやってしているうちに日光が見えるようになって、仕事に行かなければならなかった。ひかるを無視するように、スマホのアラームが鳴る前に二度寝もできないから起き上がって、ひかるを起こさないように二枚のトーストをかじり、インスタントコーヒーでサプリメントを飲み、テレビのニュースを見ている。かおるからゴム仮面が真実だと聞いてから、テレビを見ていても、だいたいそうかな、と思うようになっていた。でも仮に、ゴム仮面をみんなつけていたとしても、どうでもいいことだった。お父さんはともかく、ともえには芸能界は関係のないことだった。かおるも、ゴム仮面はどうでもよさそうだったし、真実がどうであっても、携帯電話の通信プロトコルをしらなくてもスマホを現に使えているからいいや、という程度の認識だった。Spotifyで、サジェストされた曲を聴きながら、トーストの皿とマグカップを洗った。誰かからもらって、好きじゃない図柄のマグカップは茶渋がしみついていて、取りかえたかったが、まだ使えるから、ずっと放置している。おしゃれな食器に囲まれて暮らしたい気持ちは特になかった。仕事に出かける直前に、ひかるが部屋から出てきて、今日は夕食いるか聞いてきた。ともえは、わからない、と言って、出て行った。

 お父さんをともえが小屋から出そうとしたが、電子ロックの指紋認証が反応が悪くて、エラーになってしまった。操作を受け付けるまで数分待って、また指紋を受けつけるようになったけど、またエラーがいやで、仕方がなく、暗証番号で入力しようとしたが、忘れてしまった。かおるに電話したが、かおるはでない。さくらは有給だから、たぶんスマホの電源を切っている。さくらのかわりに、早く、お父さんにご飯をあげないといけなかった。かおるを待っている間、退屈にスマホをいじっていたら、知らないプリウスが小屋に横づけしたが、静かでともえは気がつかなかった。知らない人が指紋認証を解除して、ようやく人がいることに気がついた。指紋は登録してあるし、誰? とは言えなかったが、さくらのかわりにきたよしかだと自己紹介された。さくらに連絡していないはずだったけど、よしかはメガネだったので、ともえはその紹介で納得した。よしかは慣れたふうに、お父さんの観測データを出力しにいった。ともえは固形物を準備して、お父さんにあげて、お父さんはよろこんでいた。有給だからって、さくらの仕事をともえがやるのはいやだったが、お父さんの食事以外はよしかに押しつければいいやと気楽だった。

 そろそろ移動の時間になったけど、かおるはきていない。よしかに聞いても、何も知らないと言われた。仕方がないから、一人でお父さんを引っ張って、ケージに入れて、運転することにした。バックミラーごしに、よしかが見送っていた。よしかはともえが見えなくなったのを確認してから、スマホで小屋の様子を撮影しだした。全体的に清潔で、空調も過ごしやすかったが、少しほこりっぽい。固形物も適量で、栄養バランスも規定からの逸脱はなさそうだった。そうなると、よしかは報告することがなくなってしまって、ちょっと困ってしまった。別に、さくらの職務怠慢をとがめて、さくらの立ち位置になりたいわけでもなかったので、特に問題なし、とレポートを書くことにした。もし、さくらにミスがあったら、かわりにわかなに仕事を紹介できたかもしれなかったから、そこは申し訳なかったかもしれない。今回のことは、さくらにも、ましてやわかなにも報告することではないので、そのまま小屋の電子ロックをかけた。ともえから、かおるがきたら連絡してください、と出かける前に言われたが、お互いの連絡先を知らないことに気がついてなかった。ともえはなかなか連絡がこなくてやきもきしていたが、どうせ寝坊だろうと決めつけていた。

 その日のイベントが終わってからも、かおるとは連絡がつかなくてイライラしていた。行きも帰りも、長い時間、ともえが運転することになってしまって、ともえもお父さんもいやだった。休み明けに、さくらに文句を言おうと考えていた。さくらに渡す予定の日報をよしかが受け取って、一読したらそのまま帰されて、違和感があった。よしかは、ともえひとりでも仕事に問題はなさそうだと判断して、それはさくらに報告することにした。報告を受け取ったさくらは風邪気味で、若干もうろうとしながら、かおるにLINEしていたが、既読はつかない。数日待って、既読がつかなかったら、めぐみがすすめた通り、まことをかわりにするのも手だった。あまり、かおるが無断で欠勤するとは思えなかったから、事故死しているのかもしれないが、どちらにしてもかわりは必要だった。まことを利用するなら、若いのはいいけど、あたらしくいろいろおぼえてもらわないといけないから、面倒臭い。それより、まつこあたりのベテランを、かおるのかわりにした方が早そうだったが、たぶん忙しくなるからと辞退される。でも、まつこはそろそろ育児が落ち着いてきたし、安定した仕事を見つけたかった。子どもは、じゅうぶん言葉もはっきりして、鍵をもたせてあるし、GPSも身に着けさせている。退屈だけど、なかなか昼寝できない日は、じっと、小学校から移動しないGPSを眺めたりしていた。休み時間に、校庭に出ると、それくらいはわかった。校庭で動き回るGPSを見たら、まつこも、運動して、ダイエットしたいとは思って、プールに通ったことがある。一度おぼれ死んで、それ以来、怖くて通っていないけど、やろうと思い立ったときにやらないと、ずっとやる機会はない。立ち上がって、水着をしまっている場所を探そうと思って、麦茶を飲んで、どうして立ち上がったのか忘れて、トイレに行って、昼寝した。うるさくなって目をあけたら、子どもは帰ってきていて、タブレットでYouTubeでゲームの実況を見ていた。寝ている間に、指紋認証を解除されたらしい。子どもはへらへら笑っていて、まつこが起きたことに気がつかなかった。まつこは、勝手に解除したこととか、宿題をやったかどうかとか、帰ったらあいさつしなさいとか、怒鳴り、ひっぱたきたいことがいくつかあった。泣いたらうっとうしいから、黙ってタブレットを消して、威圧した。子どもは無言で、自分の部屋に走っていった。子どもがYouTubeを見ているのは珍しいことだった。たいてい、Switchを二時間ちかくさわり続けて、一日一時間の約束でしょうと言って、毎日取り上げていた。何時間眠っていたんだろうとスマホを確認したら、GPSはちかくの公園をさしていた。まつこは部屋まで足を忍ばせて、扉をあけた。後ろ姿で、机で真面目に宿題をやっていて、安心した。まつこは、夕食の準備をすることにしたが、何人前必要なのかわからず、二キロぶんの冷凍の鶏もも肉を解凍して、からあげをたくさん作ることにした。夕食までには、GPSは家に位置しているだろうと思っていた。電子レンジで、解凍するのに三十分くらいかかって、また、眠たくなってしまった。昼寝しても夜も眠って、それでも疲れがとれない気がして、寝具が悪いのかもしれない。でも、枕が変わると眠れないと考えながら、ソファーでは昼寝している。解凍中、味噌汁もたくさん作れてしまって、退屈でテレビをつけたら、お笑い芸人が、このへんの路線旅をしていた。まつこの住む最寄り駅は飛ばされて、紹介されなくて、がっかりした。特快がとまるところしか紹介されていない様子だった。お笑い芸人が、油そばをおいしい、おいしいと食べて、油そばなんてどこも同じ味でしょう、と興ざめして、チャンネルを変えたが、グルメ、グルメ、クイズ、ニュース、グルメ……。音がなくなるのはさみしいので、大盛りのグルメをスポーツ選手とか大食いタレントとかが食べている番組にした。別に、これもおいしくなさそうで、ぼんやりながめていて、お箸の持ち方とか、ご飯粒の残し方とか見ていた。テレビを見ていたら、これから、二キロのからあげをあげることに、すでにうんざりしてきた。小麦粉がなければ、作らない口実ができたが、たっぷりあった。

 宿題を終えたらしく、部屋からでてきた子どもが、夜、何? と言うので、からあげと言う。子どもが、やったあああ! とでんぐり返しした。壁にぶつかって、黙ればいいのにと思った。キャベツの千切りも用意しようとして、スライサーを出して、子どもにお手伝いして、と言ったら、素直に従った。GPSをまたチェックしたら、線路上を高速で移動していたから、電車に乗っているらしい。でも、お金はもたせてないから、どうせどこにも行けないし、どこかに行っても、目の前の子どもの方が総合的に手がかからなくて気楽だな、と思った。油をあたためている最中、さくらからLINEがきて、かおるを知っていますか、と聞かれた。知っています、と返事すると、五人くらい顔写真が送られてきて、どれですか、と聞かれたので、正直に、わかりません、と返事した。ベテランのまつこでも、かおるがわからなくて、さくらはすこし困っていた。スタッフの連絡網で、ちょっとした手配書を作るつもりだったが、かおるの履歴書はとっくにどこかにいったし、雇用契約書には顔写真がなかった。それに、まつこがわからないなら、顔写真を配っても無意味だった。さくらはもう、かおるを探すのは諦めて、まことを使うのが一番かもしれないと思っていた。めぐみの推薦だから、何か思惑があるのかもしれないけど、どうでもよかった。さくらはため息をついて、まこととあう予定を作ろうと思ったが、めぐみを経由しないと、連絡先がわからなかった。めぐみに、まずかおるを知っているか、LINEすると、既読無視された。めぐみはLINEを無視して、シャワーを浴びていた。風呂場を出ると、スマホに未読が増えていて面倒だったが、まことさんに連絡しておきますと、書いて送ると、すぐにさくらからそうするように返事が来た。

 めぐみはまことに連絡するつもりはなかったが、とりあえず返事はしておいた。めぐみがかおるの部屋から持ち出したスマホを解除する方法を、しばらく、考えていた。かおるの親指を通話中に何度も観察して、シリコンの型をとることも考えた。でも、親指だけじゃなさそうだったし、顔認証もかかっているようだった。イベントの日に、こっそりともえの顔を遠くから映しても、やはり反応しなかった。めぐみは、かおるのスマホを手に入れてからかおるがどこにいるのか、知らない人から何度か確認されて、知りません、と答え続けていた。かおるのスマホにかおるはどこにいるのか聞くのはナンセンスで、ときどきくすくす笑っていた。かおるの部屋でアイスを食べながら、テレビでドラマを見ていた。めぐみはドラマに集中しながらも、そろそろかおるのクレジットカードや銀行口座が止まってしまうのではないかと不安になっていた。めぐみはかおるのスマホなど、アパートに残されたものから、かおるの身元を確認しようとしたが、なかなか手がかりがなかった。かおるの部屋には写真も手紙もなく、冷蔵庫には賞味期限切れの調味料と飲みかけのペットボトルの麦茶しかなかった。冷凍庫には、コンビニで買ったアイスがいくつかと、半分に切ったパンが冷凍してあった。かおるはいつでも帰れるように、荷物だけ置いていったのかもしれない。めぐみがドラマを見終わったころには眠くなって、そのままかおるのベッドで眠ってしまった。さくらから何度も連絡がきてうっとうしかったので、まことの連絡先を、勝手に教えた。さくらはまことと連絡がつき、会う約束をした。子どものためのアミューズメント施設の中のカフェで、さくらは大きめのコーヒーを飲みながら待っていた。ところどころ奇声をあげる子どもの声に気を散らしながらも、事前に調べたまことの写真と、まことの名刺だけは確認していた。まことがあと五分くらい遅れていたので、もう一杯注文しようかと迷っていたところ、まことはカフェのドアから入ってきて、さくらに手を振った。頭を少しかきあげながら近づいてきて、まことはまだ少し息が上がっている様子で、ミネラルウォーターを注文した。

 さくらはかおるがいなくなって、業務に支障が出るかもしれないという話をして、まことに仕事の内容を説明した。まことは話を聞きながら、時折うなずいて、それほど難しくなさそうだと思った。まことは納得して、明日からでも始められると答えた。

 別れた後、さくらはすぐにともえに電話をかけた。ともえは仕事から帰って車を運転中で、ハンズフリーで応答した。

「かおるさんのかわりが見つかりました。まことさんという方です。明日から一緒に行動してもらいます」

「その人がかおるですか?」

「おおむねそうですね」

 ともえは安心して、明日の打ち合わせ場所と時間を確認して電話を切った。さくらはそのまま、お父さんの健康状態を確認するために小屋に向かった。小屋に着くと、お父さんは寝ていて、モニターによれば体温や心拍は正常だった。ともえが帰るまで、ひかるは部屋でうとうとしていた。テレビではニュースが流れていて、台風の接近について報道していた。ひかるは時々目を開けては、台風の進路や強さについて確認していた。台風が近づくとイベントが中止になることがあるので、ともえの仕事に影響があるかもしれないと気になっていた。ともえが、明日から新しい人と一緒に仕事をすることになったと知らせてきた。ひかるは大変だね、と思った。どんな人? と聞いたが、知らないと言われて、それはそうかもしれないと納得していた。ともえはぼんやり、かおるの顔を思い出そうとして、説明しようとしたが、あまり覚えていなかった。まことはともえの運転の様子を見ながら、メモを取っていた。地図アプリを見て、目的地までの経路を確認していた。お父さんははじめはケージの中でぐるぐるしていたが、少しずつ落ち着いていった。しばらくすると、ともえのスマホが鳴って、イベント中止の連絡が入った。まことはぼんやりしながら、何かをメモに書き込んだ。ともえは高速道路の出口で降りて、早く帰れてラッキーだったが、まことの教育が先送りになるのは、また面倒だった。よしかはスマホでニュースを見ながら、台風の情報を確認していた。大きな被害は出ないと予想されていたが、交通機関の乱れが心配だった。わかなから連絡があって、明日の約束をキャンセルしたいと言ってきた。よしかは了承して、別の日に変更することにした。よしかは冷蔵庫を開けて、夕食の準備を始めた。冷凍の餃子を見つけて、それを解凍することにした。しばらく、イベントが中止の予定とスタッフ全員に知らされて、ほむらもラッキーと思った。ほむらは大学の図書館で判例を調べていた。試験が近いので、集中して勉強していたが、雨が強くなる一方だったので、本を返却して、傘を持って外に出た。風も強くて傘を持つのが大変だった。駅に向かって歩きながら、ほむらは久しぶりにまことに連絡してみようと思った。スマホを取り出して、LINEを開いた。まことからは最近何も連絡がなかった。ほむらはメッセージを書き始めたが、何を書けばいいのか迷って、結局何も送らなかった。駅に着くと、電車の遅延が表示されていた。ほむらはベンチに座って、電車を待つことにした。

 でも案外、台風はすぐに通り過ぎて、ほむらは予定通りに仕事することになった。ともえは予定より早く目覚めた。窓の音で、風は弱くなっていた。ともえはトーストにベーコンを乗せマヨネーズをかけて焼いて、台風情報をチェックするためにニュースをつけたが、星座占いに気をとられて忘れていた。ともえは占いが終わるまで待って、お父さんは今日、シャワーが必要だなと考えていた。毛並みがくたびれてきた。ともえはひかるを起こさないよう静かに準備をしていると、ひかるが出てきて、今日は休みと言った。ともえは忘れていて申し訳なかったが、本当にありがたかった。ひかるはともえを玄関の外まで見送ると部屋に戻り、リビングのソファーに座って半分あきらめたようにテレビをつけた。まだ朝のワイドショーをやっていて、タレントが料理を作りながら進行していた。ひかるは番組を眺めながら自分も何か作ろうかと思ったが、やる気にならなかった。何もしない一日の計画は、とても楽しく思えていたのに、実際に何もすることがなくなると退屈で仕方がなかった。U-NEXTで昔のアニメでも見ようかと思ったが、ともえが毎日見ているマイメロを自分も見る気にはならなかった。ともえは、好きなアルバムがSpotifyにきて、機嫌がよかった。今日はまことさんは来ないんですか? とよしかが小屋で待っていた。ともえは知らないと言って、ともえはスマホを見るポーズをしていた。さくらからはまことの連絡先をもらっていたが、何度かけても繋がらなかった。しばらく待ってもこないので、ともえはあきらめて、お父さんを車に乗せた。かおるも同じような状況は前にもあって、ともえが寝坊したときにはまつこに助けを求めたこともあった。出発すると、出口で急に横からプリウスが飛び出してきて、ともえはハンドルを切った。お父さんがビクッとして、ケージの中で体をふるわせ、目を閉じて、震えを止めようとしていた。ともえは舌打ちした。イベントがはじまると、いつもより子どもたちが集まっていた。台風で、家にいることに飽きた子どもたちが親に連れられて来ていた。子どもたちは列に並んで、順番にお父さんの元へ行った。お父さんは舞台の上で座り、尻尾を振っていた。数時間して、ともえはお父さんを控室に連れて行き、衣装を脱がせた。お父さんは少し疲れた様子だったが、特に不調はなさそうだった。ともえはお父さんに水を与えた。片付けをしていると、さくらから電話があった。

「ともえさん、お父さんの調子はどうですか?」

「むしろ、すごく調子がいいみたいです」

「でも、お父さんの健康診断の予約は予定通りですから」

 そう宣言されることはともえにはわかりきっていたので、余計な電話をしないでほしかった。

 ともえの知らないところでお父さんの診察が終わり、よしかはデータを受け取った。よしかはお父さんの診察データを見ながら、テーブルに散らばった書類を片づけていた。健康診断結果としては特に問題なく、体重がわずかに増えていて、白内障の進行はまだ見られなかった。よしかはデータをスマホで撮影して保存した。写真を撮る際、フラッシュを焚かないように気をつけた。お父さんは診察台の上で黙って座り、時折尻尾を振っていた。よしかは撮影した写真を確認しながら、やっぱりお父さんはかわいいなと思った。ともえから聞いたところによると、お父さんはここのところ、高速道路では比較的落ち着いて移動できているらしい。よしかはともえにそう聞いて安心していた。お父さんは診察が終わると、指示に従って落ち着いてケージに戻った。よしかはデータをまとめてからさくらに送信した。さくらは風邪がすっかり良くなって、モニターの前で体調チェックのデータを分析していた。お父さんの健康状態は良好で、安心した。さくらはスマホを手に取り、まだまことからの連絡がないことを確認した。めぐみにまたLINEを送った。めぐみはまた知らないと返信した。めぐみは冷蔵庫を開けて、アイスを取り出した。かおるのアパートに残っていた最後のアイスだった。さくらはうんざりして、まつこにも連絡をした。

「明日のイベントですが、まことさんがこれないかもしれないので、もし可能であれば、まつこさんにサポートをお願いしたいのですが、いかがでしょうか?」

 まつこは、まこととは誰? と思ったが、詳細が送られてきたら給料がよかった。まつこはメモをして、子どもの方を見た。子どもは黙々とキャベツを口に入れ、ごはんと一緒に飲み込んでいた。まつこは黙って子どもを見て、翌日の子どもの弁当を準備しなくてはならなかった。いつもより少し手の込んだおかずを入れて、子どもを見送ってから、仕事の準備をした。スマホを確認すると、さくらから再度連絡があり、ともえと待ち合わせる場所と時間が書かれていた。まつこは約束の時間より少し早く到着して、ともえを待っていた。

 ともえはお父さんを車に乗せて、まつこのところに向かっていた。昨日の予定変更で少し疲れていたが、今日はまつこがサポートしてくれるので安心だった。ともえは約束の場所に着くと、まつこを見つけて車を停めた。まつこはともえを見て手を振った。

 ともえはまつこも車に乗せ、都市に向かった。お父さんはケージの中で静かにしていた。まつこはお父さんがぐるぐるケージで歩いているのを見て、少し懐かしい気持ちになった。

 イベントが終わり、ともえとまつこは無言で、高速道路を走った。お父さんはケージの中で落ち着いて座っていた。高速道路の振動に少し体を震わせることもあったが、以前よりも落ち着いていた。車内にはラジオの音楽が流れ、まつこはそれを聴いて暇を持て余していた。まつこで問題ないと、日報を受け取ったよしかは、ようやく安定してきたな、と思った。わかなに連絡して食事をしていた。居酒屋で、生ビールと枝豆を注文していた。

「最近どう?」

 よしかがわかなに聞いた。

「かえでが最近、研究室にきてない」

「誰?」

「ビールを飲む人」

 よしかは、かえでという人のみがわりにされた気がしたが誘ったのはよしかだった。わかなは枝豆をむいていた。わかなは枝豆の皮を指で押し出して、ビールを飲んで、だんだん赤くなってくるよしかに、わかなは仕事があるならほしいよ、と言った。よしかは、お父さんは知っているか聞いた。そのイベントのスタッフに勧誘してみた。わかなはどんな仕事にしても、プールの監視員よりもいいかもなあ、と思った。惰性で続けていて、プールのすぐ横にカフェがあって、おいしいスコーンでエアコンの利いたところで休憩できるのは、楽しみにしていたが、何回か通ったら飽きてしまった。イベントで奇声をあげる子どもと、プールで黙々と泳ぐ子どものどちらがましか想像した。わかなの子どものころ、水泳がへたくそな水泳部で、コーチが彼氏と電話するのに熱中していたことが、どれだけ嫌だったか思い出しそうだった。監視員の立場で、そういう学生時代を復讐していた気もする。でも、仕事でプールの排水口の水垢を掃除することもあって、そのときは中学の時のコーチに監視されて掃除していたときを思い出して、けっきょくいやな気分だった。さくらに、よしかとあっていることは連絡するべきか迷っていた。さくらは出前館で注文したガパオライスを食べながら、スマホでFilmarksを見ていた。さくらはメガネをかけなおして、スマホの画面を見た。大きい文字のタイトルと星五つの評価があった。さくらはU-NEXTのポイントを消費する必要があった。でも、仕事がドタバタしていて、映画を見る暇はなさそうだった。まつこにLINEで、明日も仕事を頼めるか問い合わせた。まつこは予定を確認して、承諾して。カレンダーアプリを開いて予定を入力した。お風呂からあがったばかりで、髪が少し湿っていた。タオルで髪を拭きながら、ベッドに横になった。部屋にはテレビがなく、少し眠りにくそうだったので、読もうと思ってずっと放置している新書を手に取ったが、すぐに眠くなって、本を閉じて電気を消した。さくらはともえにもLINEを送って、ともえも家に帰りついたところだった。玄関の鍵を開けて入ると、ひかるがリビングでテレビを見ていた。テレビではバラエティ番組をやっていた。お笑い芸人が笑いをとりながら、外国人観光客にインタビューして、日本の印象を聞いていた。ひかるはともえに食事は済ませたかと聞いた。ともえは帰りに何か食べてきたと言って、部屋に入った。ベッドに座って、スマホを触っていた。Spotifyで音楽を聴きながら、服を脱いで、シャワーを浴びに行った。浴室でお湯を出して、温度を確認した。熱すぎず、ぬるすぎない温度に調節して、シャワーを浴びた。髪を洗っている間、頭の中では今日聴いていた曲がリフレインしていた。頭を洗い終えると、体を洗った。シャワーを浴び終わって、タオルで体を拭いた。鏡に映った自分の顔を見た。疲れてるな、とつぶやいた。部屋に戻ってさくらに返信しなければならない。明日の予定を確認するメッセージだった。ともえは面倒くさそうに返事を送った。これから寝る準備をしようと思っていたが、なんとなく気が進まなかった。スマホでXを見ながら、時間をつぶしていた。スマホに表示される広告を無視しながら、タイムラインをスクロールしていた。特に目新しい情報はなかった。広告でマヨネーズが切れていることを思い出して、買い物メモに追加した。眠気が来ないまま、明日も早いのに、と思いながらも、ベッドに横になって目を閉じた。部屋の窓から入ってくる光に気づいて、カーテンをしっかり閉めた。すぐに朝になって、朝食はトーストと目玉焼きを作ることにした。パンをトースターに入れ、フライパンで目玉焼きを焼いている間に、テレビをつけた。朝のニュース番組で、アナウンサーが今日の天気を伝えていた。晴れのち曇りとのことだった。目玉焼きが焼けたころに、トーストも出来上がった。ともえはフライパンと皿の間で目玉焼きを移動させるのに少し手間取った。黄身が崩れそうになったが、なんとか形を保ったまま皿に乗せることができた。トーストに塩とこしょうをかけた目玉焼きを乗せて、朝食を食べた。本当はマヨネーズをかけたかった。朝食を食べ終えると、歯を磨いて、服を着替えた。白いシャツと黒いパンツを選んでいて、仕事というより同窓会に行くような格好になって、少しくすくす笑ってしまった。カレーのシミがついたシャツがあることを思い出して、早くクリーニングに出さなきゃと思いつつ、家を出た。

 お父さんは小屋で、朝食を食べていた。さくらが来る時間まで、まだあと一時間ほどあった。お父さんは静かに座って、固形物を食べていた。最近は食欲も安定していて、健康状態も良好だった。お父さんは食べ終わると、小屋の隅にある毛布の上に移動して、スマホを見て横になった。すぐに電子ロックが解除される音がして、お父さんは起き上がった。さくらが小屋に入ってきた。お父さんはさくらを見て、尻尾を振った。さくらはお父さんの健康チェックをするために、小屋の中を動き回った。体温計を取り出して、お父さんの体温を測った。平熱だった。さくらはお父さんの体を触って、毛並みや皮膚の状態を確認した。少し毛並みがくたびれてきていたが、全体的に問題なさそうだった。さくらはお父さんの目を確認して、白内障の進行がないかチェックした。一応特に問題はなかった。さくらは健康チェックの結果をスマホに入力した。お父さんは静かに、さくらの動きを追っていた。さくらが小屋を出て行くと、お父さんはまた毛布の上に戻り、横になった。そのうちともえもきて、さくらは、

「わかなさんと仕事するのはどう?」

 と言った。ともえは、適当に、いいですね、と言った。

 わかなは朝からずっと図書館で勉強していた。研究が遅れていたので、資料を集めてノートを取っていた。少し集中力が切れたので、図書館のカフェに行って、コーヒーを買った。カフェに座って、少し休憩することにした。コーヒーを飲みながら、スマホを取り出した。よしかから連絡が来ていた。

「今度一緒にイベント見に行かない? どんな感じか見てからでも決められるよ」

 わかなはコーヒーを飲み干して、じゃあ今度行ってみると返信した。カップを片付けて、また勉強に戻ることにした。

 お父さんはイベント会場に連れて行かれたのをわかなは見た。小さなショッピングモールの中だった。ショッピングモールの中央広場に簡易的なステージが設置されていた。ともえとまつこはお父さんを控室に入れて、準備を始めた。お父さんは控室の隅でじっとしていた。まつこはお父さんの衣装を取り出して、着せ始めた。お父さんは大人しく従っていた。衣装を着終わると、まつこはお父さんの毛並みを整えた。ともえはマイクとスピーカーの確認をしていた。まつこはお父さんを連れて控室を出た。ステージに上がると、すでに子どもたちが列を作って待っていた。まつこは女の人にマイクを渡して、イベントの開始を告げた。お父さんはステージの上で座り、尻尾を振っていた。子どもたちは順番に前に出て、お父さんの前に座った。女の人は子どもたちに声をかけながら、お父さんを紹介していった。ともえはステージの横で、進行を見守っていた。

 お父さんは控室に戻され、衣装を脱がされた。まつこがお父さんに水を与え、ともえは片付けを始めた。まつこはお父さんの頭を撫でた。お父さんは疲れた様子で、じっとしていた。片付けが終わると、帰って、車の中では、ラジオが流れていた。お父さんはケージの中で落ち着いて座っていた。道中、ともえは運転に集中し、まつこはスマホでメールをチェックしていた。子どもの学校から連絡が来ていないか確認していた。特に連絡はなかった。

 小屋に着くと、さくらが待っていた。ともえはお父さんをケージから出して、小屋に連れて行った。お父さんは小屋に入ると、すぐに毛布の上に横になった。さくらはお父さんの様子を見て、疲れたみたいですねと言った。

「今日はたくさんの子どもがいましたからね。でも、特に問題はなかったです。いつも通りでした」

 ともえが返事した。さくらはうなずいて、ともえは日報を取り出して、さくらに渡した。さくらは日報に目を通して、

「明日のイベントはキャンセルにします。お父さんを休ませてあげてください」

 と言った。

 ともえすこしふしぎに思ったけど、端的に返事した。さくらは小屋の設備をチェックして、小屋を出て行った。ともえとまつこも小屋を出ようとしたとき、お父さんが突然体を起こした。お父さんはじっとともえとまつこを見つめていた。お父さんは尻尾を振り始めた。ともえは元気みたいだねと言って、お父さんの近くに行った。お父さんは立ち上がって、ぐるぐるして、またすぐに毛布の上に戻った。ともえとまつこは小屋を出て、電子ロックをかけた。

 わかなはイベントの帰り道、コンビニに寄って夕食を買った。おにぎりとサラダ、それにカップラーメンを選んだ。レジで会計を済ませて、アパートに向かった。アパートに着くと、ポストを確認した。請求書が何枚か入っていた。わかなはため息をついて、封筒を手に取った。部屋に入って、夕食の準備を始めた。カップラーメンにお湯を入れて、三分待つ間に請求書を開いた。電気代と水道代、それにインターネット料金だった。特に予想外に高い請求はなくて安心した。カップラーメンができあがったので、テーブルに座って食べ始めた。スマホでニュースを見ながら、ラーメンをすすった。よしかに返事しなくてはならなかったが、正直、よくわからなかった。お父さんは知っていたけど、ふれあいの監視は特に今の仕事とかわりない気がした。でも、お父さんの方は、おぼれ死ぬ人がいなくて気楽かもしれない。わかなはYouTubeでお父さんのCMを見なおしてみた。いつものように「今だけおトクな家族割!」と言っている。今日イベントで見たお父さんとは別物だった。

 わかなはけっきょく、給料がいいから仕事を手伝うことになって、小屋の近所をうろつくようになった。さくらとは実際会っていなくて、あとで資料をもらうことになっていた。研究が遅れていることに現実逃避したいところもあって、とりあえず小屋の様子を見ていた。高いガラス張りの屋根があって雨でも安心なことだけがわかった。クラシックな雰囲気の喫茶店が近所にあって、そこにまつこがいつも昼食を買いに行ってるとよしかに聞いていたから、そこにたどり着いた。玉子の上に溶けたチーズがかかったオープンサンドを頼んだ。わかなはじっと窓の外をながめた。お父さんがケージに入って降ろされて、車の後部から電子機材も降ろされていた。なにかのイベントか、とわかなは思って、まつこだと思う人が下ろしたケージに近寄ろうと思ったが、スマホが鳴って、大学の後輩だった。電話で、

「共同研究どうする? もう、時間が、危ない」

 と言われて、テーブルについていた人たちがちらちらこちらを見たから、わかなはあとで、とだけ返事して切った。わかなは指導教授からのメールにも気が滅入って、でも返事するのを尻込みしていた。かわりに、よしかに連絡して「仕事よろしくお願いします」という報告の返信メールだけ送って、休日のやることは済ませたつもりでいた。そろそろ研究室に戻って論文を読まなければいけないと思いながら、喫茶店でスマホで映画を見て時間がすぎていくのを待っていた。何度もいろいろな人から通知がきて、連絡がずっと途絶えないから、夜になって研究室にもどると、かえでがソファーで眠っていて、体調が悪そうだった。PCを起動すると、かえでは起きてきて、わかなに眠れないと愚痴った。わかなはかえでを帰らせた。かえでは次の日も研究室にくるつもりだった。でも、けっきょくこなかった。わかなは居心地が悪くて、さくらに仕事はあるのか聞いた。さくらは、お父さんの体調不良で、イベントはしばらくキャンセルになっていると言っていた。わかなはそれをきくと、小屋に行くと言い出した。さくらは少しやめといた方がいいと言ったが、わかなは気の毒に思った。きっと何か風邪をしているんだろう、とわかなは思った。よしかに連絡して、お父さんは大丈夫そうか、と聞いたが、よしかは、わからないと言って、返信にも時間がかかっていた。会いにいくべきか、じっとしているべきか、かえでに相談したかったが、やはり研究室にこない。でも、かえでに相談しても無駄なことだった。わかなはぼんやりした気持ちのまま電車に乗って、お父さんのイベントをするはずだった地元のショッピングモールにむかった。イベントはないだろうとわかっていたけど、なんとなく行きたかった。この前はクラシックな喫茶店に入っていたけど、今回はファミレスにはいって、バナナジュースを注文した。甘くて濃厚だけど、甘すぎなくて、どうしたらこれで、十時間くらい論文を書き続けられる集中力が持つんだろうとずっと考えていた。そしてそうやって集中力の持ち方を考えている間に集中力が減っていることに気がついて笑えた。プールの監視員としてのアルバイトもあと少しで一区切りつきそうだったけど、またよしかを通して、小屋のお父さんを監視する仕事を得て、水着のかわりに衣装を着て、別の監視の仕事をするのかなあと考えていた。

 さくらは、翌日が心配だったので、徹夜していた。本来なら、さくらもかわりを見つけて家に帰るべきだったが、仕方なかった。いままで徹夜はまだよかったが、最近はこうして仕事が続くとつらい。お父さんはどうしても、今の調子では難しいかもしれないけど、少なくともこの一週間でイベントは、あと十件も入っていた。でも、別のお父さんにオーディションするのは難しいだろうとさくらはひとりごとをいった。お父さんの代わりに、もともと候補にあがっていた別のお父さんの健康状態を確認する手配も同時にしなければいけなかった。さくらは、自分の仕事もほかの人でなんとかならないかとあきらめの気持ちになっていた。残業代すらつかないのに、一晩徹夜するのも割にあわない。別のお父さんが仕事すれば、失敗するかもしれないし、前のお父さんの白内障が悪くなってきていたとはいえ、最近のお父さんには愛着もわいてきていていた。お父さんはいつまでもうごけずに、さくらもお父さんを不安な目でみつめていたし、すでに白内障の初期症状があった。さくらはどうでもよくなって、眠ることにした。起きたらまだ日が高くなくて、お父さんも元気に水を飲んでいた。さくらはひと安心して、今日はさすがにイベントを控えることに決めて、連絡をした。まつこからも連絡があって元気になったようで何よりだと返事した。まつこはお父さんが病気にならない方が自分に仕事がまわってくるので、お父さんの回復は悪い話ではなくて、少しほっとしていた。子どものこともあったし、自分のことばかりを、いつもしているとは言えなかったから。

 さくらはようやく家に帰ってきて、洗濯だけは仕方がなく回して、朝起きていない間に乾かしておこうと思っていた。洗濯物を入れて、音がやかましくなるので、洗面所の扉を閉じて、ソファーでごろりとした。さくらは眠りこけていた。起きたら、洗濯機の音は止まっていて、洗濯物はずっと濡れたままだった。さくらは少し体をこわばらせてソファーから起き上がって、やり直しでもう一度洗濯物を回した。再度、ソファーに横になりかけたが、どうも体が重くて座り込んだ。スマホで時間を確認すると、十二時をすぎていた。テレビをつけたら、ニュースだった。キャスターの話し声が耳障りで、消音にした。字幕を見ながら、鳴らないニュースを眺めていた。火事があったらしい。被害者はいなかったらしい。さくらはぼんやりとニュースを見て、メガネをかけていないのを思い出した。メガネをかけても、あまり文字ははっきりしない。少し度が足りなくなっていた。さくらは朝食をとって、お父さんの小屋に向かった。お父さんは固形物を食べていた。お父さんはスマホで何かを見ているみたいだった。さくらはほっとした。お父さんがさくらを見て、尻尾を振ってくれた。

 若いから長持ちすると思ったけど、そうでもないみたいだった。お父さんはもう毛並みはくたくたに戻って、白内障が進行している。よくあることだった。お父さんはスマホでポケモンのデータベースを見るのをやめて、小屋の隅で丸くなった。白内障は進行して、毛並みもくたくたになって、ともえは少し残念に思った。さくらは眠くて、昨日の洗濯物もまだ畳んでいない。歪んだテレビのテロップを見ながら、一応、お父さんの健康診断の予約をした。

 ともえは日報をさくらに渡して、今度の新しいお父さんはいつ来るのか、と聞いた。さくらは調整中です、と答えた。

 健康診断の結果は見るまでもなくて、早くオーディションをする必要があった。それで、いろんなお父さんの候補が、いろんなところから集められた。お父さんは新しくお父さんになるかもしれないものを見ていた。白くて、まだ声帯が除去されていなかった。

 お父さんは、かつてこういう風に自分が居たことを、とっくに思い出せなくなっていた。でも、別に、子どもたちから解放されるなら、もういいかな、とも思っていた。高速道路に乗らなくてもいいし、眠らなくてもいいし、ずっと、あとは楽しいことだけ考えて、生きることができた。それに、新しいお父さんの候補の顔はもうよく見えなくなっていたから、いちいち寝たふりをする必要だってなかった。

 CMも新しくする必要はあったが、今制作中のCMはそのまま使うことにした。お父さんはまだ、CMで自分を見たことがなくて、ずっと見ることはなさそうだったが、これでよかった。あとのお父さんの心配は、ポケモンの、バージョン違いのどちらをプレイするかということだった。それに、最初に選べる三匹もきがかりだった。

 そうして次のオーディションが進行し、ひとつに決まったお父さんが声帯を除去されて、いろいろな人がうれしく思った。

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