バハマ
あまるん
第1話 カヌーよ語れ
カリブ海の透明な波の合間から樹皮のカヌーが現れた。
「メルセデスよ、行きなさい」
祖母の声に13になったばかりのメルセデスはカヌーに手を掛けた。
祖母が魔術で呼び寄せたカヌーは海の底にいたように湿っている。
婚礼衣装の重さにまごつくメルセデスを祖母は手伝うこともなく、口の中で祈りを呟き続ける。
祖母たちの母語のアラワクの言葉をメルセデスは教えて貰っていない。
「アラワクの言葉を話すと捕まってしまう」からと。
魔術を宿した言葉、波を操りカヌーを呼び星の雨を降らせた。
「いつか大きな島に出る。そこで最初にあったものについて行きなさい」
戸籍には黒人として登録されているが祖母は純血のカリブ海を制したアラワク族だ。
「おばあちゃん、私」
「ここにいてはだめ。純血のもの以外は神の犠牲にはならない」
「おばあちゃん、私のこと忘れないで」
祖母は孫を見ることは無かった。魔法のカヌーが波の合間に流れれば人の世からは感知もできない。
メルセデスは筒に入れられた乳灰色の眠りの酒を飲んだ。
目が覚めても陸地につくまでは決して目を開けてはならない。たくさんの波の上は同じように渡るものたちがいる。
波の合間からは歌声が聞こえた。太鼓の音やたくさんの動物たちの遠吠えも。山の中の隠れ家にいるのと似ている。
メルセデスのことを父が望まなかったのだ。父は娘の気持ちも今日のことも何も知らない。
農園に働きに出ていればいいが、きっと酒を飲んで山の中にでもいるのだろう。漁にも出ず忌々しい病持ちたちにへつらう男になった息子を祖母は気に病んでいた。
目覚めそうになるたびに眠りの酒を飲む。花嫁の衣装は波に濡れては乾きゴワゴワになった。やがて衝撃と共に体の下が揺れるのをやめた。
波打ち際の音が聞こえるとメルセデスは顔を上げた。ずっと夜であるかのように涼しかったが目を開けた途端に暑熱が降りてきた。
甘い果物に似た香りがする。虫の声も鳥の声も何一つ聞こえず、メルセデスはカヌーの縁からそっと顔をあげる。
逞しい男が一人メルセデスの前でしゃがみ込んでいた。
メルセデスが隠れようとすると男の目は笑う。メルセデスと同じように血が混じっていると見えて、どこの部族ともつかない顔立ちをしていた。
「さあおいで」
メルセデスの本能は男を警戒して痛いほどに血が脈うっていた。しかし、男を見ると指ひとつ上げられない。糸でも引かれるように体が持ち上がり、カヌーから降りてしまった。
男は伝統的な腰巻きをつけ頭に大きな鳥の鮮やかな羽と大きな葉と花をつけている。
「変わった匂いがするね。お前を捧げられるか見てみよう」
メルセデスのまわりを男が回るたびに柔らかく冷たい肉に巻かれているのを感じる。
蛇だ、とメルセデスは直感した。
「犠牲にしようというの?」
メルセデスの息が早くなり、締め上げられたように体が脈打つ。
「混ざり物だ。疫病持ちはごめんだがお前は綺麗なところで育てられているね」
メルセデスの父はアラワク族とスペイン人の血が混ざっている。スペイン人の血にはトルコ人の血も混ざっている。母は誇り高きカリブ族だ。メルセデスを産んで呪われたスペイン人に似ているとまた実家に戻ってしまった。
「魔術の匂いがする」
男はいつの間にか体が蛇となり背にある羽根を開いた。生臭い口が開く。
メルセデスの体は冷たい汗が流れているのに心は麻痺して不思議と怖く無かった。締め上げられて骨が砕かれたとしても恍惚としたかもしれない。
男の眼は祖母と似ている。
「お前は毒を持っている」
男は冷たい手で柔らかいメルセデスの肌を這い回り、彼女の唇を撫でるとそう囁いた。
「私はメルセデス。私を捧げて代わりに島を沈めて」
メルセデスは幼い頃から祖母に囁かれ続けた言葉を蛇に伝えた。祖母の目が彼女の脳裏に広がる。
祖母の皺だらけの細い目は光を跳ね返こともない。疫病と暴力をもたらす白い精霊を崇拝するものたちが彼女の純潔を奪ったからだ。
「私の血肉は捧げられないとしても島にはたくさんの純血のものがいるの」
「お前の毒は心臓にあるんだね」
男はメルセデスを離してゆっくりと立ち上がる。
「メルセデス、もう彼らに気づかれる」
カヌーを男は示す。
婚礼衣装を纏ったメルセデスは男の言葉に痛みを感じた。裏切りへの憤りがナイフで心臓を抉られるようだ。熱い涙と共に怒りが湧き上がっていく。
「なぜ私たちを見捨てたの。もう私たちはあの呪われたものたちと混ざり合うか一人残らず食い尽くされるしかないの」
メルセデスの祖母が痛みも恐怖も何もかも飲み込んで、山中で暮らすうちに注ぎ込んできた絶望感。父の無気力な目、そして男たちの目がメルセデスを嘲る視線を注ぐ。
母すらも炎となってメルセデスを燃やす。
「ああ、お前の毒が彼らを目覚めさせた」
男は炎をメルセデスの始祖たちに渡したことを後悔するように言った。
島の一部が揺らぎ黒く重い思念が大地を震わせる。目覚めるだけで思考が発する歌声についていけずにメルセデスは耳を塞いだ。麻痺した心の下のもっと下にある動物としての本能が叫ぶ。
大地が揺るがされ、立っていることもできず、震えだけで波が高くなり島の周りを海が取り囲む。
カヌーがメルセデスを掬った。男は姿を波と重ね、不定形のものとして溶けていく。
島は岩の形を失い巨大な頭になった。
ついにこの時が来た。メルセデスは透明な海に混ざる暗い流れをみてやっと息をついた。
島々を飲み干す聖なる神よ永遠なれ。
男たちの未知に対する全ての憧れは呪われるがいい。
バハマ あまるん @Amarain
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