一人称で無個性化するということ
奈良ひさぎ
一人称で無個性化するということ
思い返せば、私は自分のことを昔から「私」と呼んでいたわけではなかった。世の成人男性と同じように、「僕」と名乗っていた。それがいつの間にか、「私」になっていた。フォーマルな場だけではない。なんでもない、例えば学生時代からの気の置けない友人相手にも、「私」という一人称を用いている。
ではそれがいったいいつからなのかというと、おそらく就活の時期だ。就活とは会社に入り社会人になるためには必ず通過するイベントで、かなりフォーマルな部類と言えるだろう。そこでは、男女関係なく一人称を「私」にすることが求められる。「俺」「僕」で通用する会社があるのかどうかはさすがに実験したことがないので分からないが、一般的な感性を持ち合わせている人間であれば、「僕」はまだしも「俺」はまずいだろう、という結論に行き着く。
そして、世の男性のほとんどは普段の一人称が「僕」「俺」あたりであろうから、就活が終わると束縛から解放され、「私」とは呼ばなくなる。後輩を見ていてもそうだ。上司に話をする時など、かしこまるべき場面ではきちんと「私」と名乗っているものの、同僚や同期と接する時には「僕」「俺」になっている。だが、私はそうではない。一人称「私」が癖になって抜けず、どれだけカジュアルにしようと努めても「自分」と名乗るようになってしまった。日常生活で目立って困ることはないが、どこか自分がなくなってしまったような感覚に最近陥っている。
自分がなくなってしまうというのは恐ろしい。生きた証を残せずに死んでしまうかもしれない、と考えてしまうからだ。私たちは人生ひとつをかけて自己の確立を目指すのであって、途中から自分に向いている役回りを自覚することはあれど、最初から「縁の下の力持ちでいいや」「どこにでもいるモブで人生を終えていいや」と考える人はそうはいないだろう。世界に何十億人といるうちの一人として、一度は自分の人生を全うしようと思うはずだ。
一人称、つまり代名詞の一つは、生きた証とまではいかなくとも、立派な個性の一つだ。同じ「僕」「俺」でも、声質やイントネーションの数だけ違って聞こえる。だからこれを失ってしまうのは、個性を大きく損なうことを意味する。
しかし、「僕」「俺」にそれほど個性があると言うなら、「私」も同様だろうと反論されるかもしれない。男性の一人称が「私」だと確かにフォーマルだろうが、女性の一人称はカジュアルな場面でも「私」が多く、これまでの話からすればそこに個性があって然るべきである。とすれば、私は「私」という一人称に侵食されることによって、個性のほかにもう一つくらい失ってしまったものがあるのではないか、と考える。そうでなければ、自分が自分でない別の何者かになってしまう、あるいはなってしまったのではないかという「ぼんやりとした不安」に苛まれていることの説明がつかない。
実はこの問いに対する答えは出ている。私は「私」と名乗ることによって、「これまでの私自身」を失っているのだ。これまでトライしようとも思わなかったことに挑戦し、過去の自分を部分的に否定することを繰り返す。そうして、自分から別の何者かになろうとしている。
人間は一度生まれてから死ぬまで、その人自身である事実を変えられない。犯罪を犯して逃亡生活の最中に整形し顔を変えて、全く別の人間として生きる、といったケースはあるにはあるが、そんなことは極めてまれだ。一度田中太郎として生まれれば、死ぬまで田中太郎だ。だが新しいことに挑戦し、過去の自分を否定すれば、田中太郎バージョン2くらいにはなれる。それは人生を充実させるがゆえにとても楽しいことなのだが、大昔のバージョン1であった自分がだんだん薄れてゆくという事実に目をつぶっている。そしてその事実に気づいてしまった途端に、不安になってしまう。いずれ新しくなった自分こそ本当の自分だと、過去の自分を否定するたびに思うことができれば過去も未来も好意的に受け止められるようになるのだろうが、今は遷移状態にあるのかもしれない。
私は他の大多数の人と同じように、いわゆる黒歴史を持っている。思い出すだけで恥ずかしい、というあれだ。それが「くよくよしないために、過去はいちいち振り返らない」というスタンスにもつながっている。過去の自分を否定し、一度否定したらもう振り返らない。メンタルの安定化のためにも大切なことだ。だから私は「生まれ変わる」ために、これからも新しいことに挑戦し続け、自分の人生を充実させ続ける。やりたいことを好きなようにやるのが、きっと自分が一番喜ぶ手法のはずだから。
一人称で無個性化するということ 奈良ひさぎ @RyotoNara
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