布団

壱原 一

 

母がお産のため入院し、父の出張が重なった。ちょうど学校が休みの自分は父母の友人夫妻の元へ1泊2日で預けられた。


家は車で2時間弱の山の麓に建っていた。


賃貸暮らしの自分にとって物珍しい古風な戸建て。広い前庭の横手に小ぢんまりした畑があって、奥に鶏達と山羊が居る。


早々に興味を引かれた自分は、己を置き去る父との別れに笑顔満面で手を振って、父の顔に呆れ気味の安堵と若干の寂しさを浮かべさせ、些か恐縮したものである。


人の良さそうな笑みを絶やさぬ、母と同世代の女性の世話で、鶏を抱き、山羊に野菜くずをやった。


続いて裏手へ導かれ、池に鯉と鴨を見て、傍の小屋で犬を撫でた上、茶の間に落ち着いたところで猫に膝へ乗られ懐かれた。


帰宅した此れもまた人の良さそうな、父と同世代の男性を交えた3人で、慣れないながらも美味しい余所の家の味を堪能し、大きな風呂に感嘆したのち寝床へ就かせてもらった。


寝床は茶の間の隣の7畳の座敷に敷かれた布団だった。


布団の足元に立って見て枕側が床の間と押入れ、右側が廊下へ出る襖、左側が池に面した広縁へ出る障子、足側が茶の間へ続く襖で、座敷の中央に布団が配してある。


自分が仰向けに寝床へ収まると、女性が天井照明の引き紐を持ち、「小さい電気のこそうか」と訊ねてくれる。


知らぬ家と動物達に興奮しきりの自分は、大きくなった気のままに「電気なくて大丈夫です」と答え、微かな月明かりのみが差し込む座敷の中央で独り、お休みなさいを交わして寝間へ去る女性を見送ったのだった。


女性は仰向けの自分の左側の廊下へ出て、くるりと振り返り向き直った。


「掛け布団を頭まで被らないでね」と言い置いて襖を閉めた。


*


右側の広縁の向こうで庭木が風に鳴っている。池の水面を鯉の尾が打ちたぷんと音が立った。


犬は静かにしている。表の鶏達や山羊の声もしない。猫は主人達と寝ているだろうか。一緒に寝られたら嬉しかった。


目を閉じ、耳を澄まして、あれこれ思いを巡らせていると、不意にかくんと顎が引けて、その衝撃に瞼が開いた。


自分でも気付かない内にうつらうつら微睡んでいて、いま目が覚めてしまったと分かった。


辺りはまだ暗い。池の景色に思いを馳せて右側へ寝返りを打ち、体の正面を右に向けて横臥する。


幾らか身動ぎして寝姿勢を整えたところで、背を向けた、廊下へ出る襖の方から、揺蕩うようにやんわりと空気が動くのを感じた。


*


隙間風のような一方へ流れる風向きとは違う。


布団から襖までの間に、相応の大きさの物があって、それが恣意的に動いて空気が動いた塩梅だった。


すぐさま振り返らなかったのは、外の微音が聞こえるくらい静かな夜の屋内に、歩く音も開け閉めする音も聞こえなかったからだ。


相応の大きさの恣意的に動く物が、何の前触れもなく唐突に此処へ降って湧いたように思える。


怪訝に体を静止させ、背後に意識を集中し、様子を見に来た夫妻どちらかか、或いは猫かと窺うと同時、ざっ、ざし、ざっ、ざと畳を掻く、小さく硬めな音がした。


音源は分かれて4つあり、人にしては奥行きが長く、猫にしては重く大き過ぎる。


俄に当て嵌まったのは山羊だ。けれど山羊が此処に居る筈がない。


よしんば山羊だったとしても、突如いま此処に居る山羊は怖い。


一体、其処に何が居るのか、振り返って直面する機を完全に逸してしまい、独りでに歯を食縛り、両手を握り締めた背後の、もし本当に山羊だったら丁度あたま辺りの中空で、ひっそり、くふぅ…と音が鳴った。


太く籠もった、成人の、溜め息と鼻息の半ばした、含み笑いの音だった。


夫妻でも猫でも、山羊ですらないと覚って、女性が言い置いて去った「被らないでね」を思い出した時には、もう裾を掴み潜り込んで中で小さく丸まっていた。


たとえ思い出せたって、頭を出したままでなんて、どうやっても居られなかったろう。


其処に怖い悪い厭な人が居る。砦は布団しかない。布団が取り払われた時、自分は辛く、酷い目に遭って、父母にもきょうだいにも会えず死んでしまう。


どっと心臓が暴れ出し、熱くなって汗腺が開く。


震え始める布団の中で、ざしっ、ざっと近付く音を聞き、まず、横臥した頭の斜め上、次に後頭部の斜め上、間を置かず丸めた爪先の斜め下、そして逃げ腰の斜め下へと、


まるで山羊の蹄の様な、硬く小さく重めの点が、上から踏み付ける風に、ふかり、ふかりと着地する、柔らかい振動を感じ取る。


それらがぐりぐり布団をにじり、突っ張らせて、中を低くする。上空を覆う胴体が、体勢を落とし、降下して来るのが分かる。


頭の中は「お父さん」で一杯だった。


お父さんお父さん助けて。上に居る奴を追い払って。今すぐ自分を迎えに来て。此処から出してお父さん。


握り締めた布団の上辺を、山羊が鼻先で探る具合に、くにくにつつく感触がして必死に力を入れる。


筋肉が固く締まって痺れ、呼吸が浅くなって、ひっひと細く鳴り出した直後、突く感触が離れて、もそもそもそと滑らかに足元の布団が蠢いた。


はっと視線を向けた先で、暗く蒸した布団の中に、割り開かれた隙間から、微かな月明かりが差す。


真っ白になった頭の芯に、鋭い耳鳴りの線が通る。


爛々と照り輝くような、知らない大人の喜ぶ顔がぐねぐね左右に振れながら、延々と首を伸ばして威勢よく這い入ってきた。


*


小さく丸まっていた所為で、頭を抱き受ける態になった。


含み笑いの振動が、空気に混じった体臭が、脂っぽい皮膚のぬめりが五感になすり付けられて、余りの嫌悪に硬直し、ぐうっと息と声を詰まらせて、両手足をばたつかせ距離を取る。


掛け布団の四隅は留められていて、後頭部が右斜め上でつかえる。


堪え難い癇癪かんしゃくに任せて力尽くで踏ん張って押し退け、がむしゃらに藻掻きに藻掻いて、背から殻を破るように布団を出た。


即座に体を翻し、襖に駆け込んで取り付く。


開けて廊下へ逃げようと左右の引き手へそれぞれ指を掛け思い切り広げたのに、ビッと指が滑って外れ襖は全く動かなかった。


すぐに叩いて、体当たりもしたが、襖はびくともせず、家の中も外もこそ・・ともしない。


声が出ずに荒れる呼吸の、一瞬の息継ぎの合間に、後ろの寝床で物の動く、静かで穏やかな音が、そのまま息が止まるほど、明瞭に聞かれた位だった。


さっき見たけれど受け入れられない長く太く重たげな物が、ごそごそごそと蠢いて布団から出る音がする。


もう二度と見たくない。背中を向けても居たくない。


ぜえぜえ息を切らし、涙と洟と涎と、絶え絶えの嗚咽と共に、振り返ってしまった後の失禁は、知らぬ間に腹を食い破られて中身が出ているかと錯覚するほど自覚なく漏れて熱かった。


視界にまず布団が入り、四隅に突っ立つ棒を辿り、徐々に上の本体へ至る。


力が抜けて襖に凭れ、ずるずる座り込んで凝視する。


黄ばんだ白い毛がへたった、妙に四肢の細長い、山羊めいた造作をしていた。


ごわごわぶよぶよした質感の、ゴムかシリコンに似た見た目の長く太い首を生やし、先端に付いた大人の頭を天井付近までもたげさせ、ゆらりゆらりと揺らめきつつ影になって此方を見下ろしていた。


*


漏れた体液が冷えて痒くなり、辺りが少しずつ明けてゆく。


雀や鴉の声が聞こえ、表で鶏達が鳴き、寝間から起き出した女性がさらりと襖を開けるまで、早くお家に帰りたいと、それだけを考えて放心し、天井付近の大人の頭を見上げていたように思う。


一方、同場面の記憶で、ぐっすり眠った寝床から、鶏の声により起床してもいる。


布団を畳み、座敷の隅の荷物から着替えを取って済ませ、起こしに来てくれた女性におはようございますと挨拶し、行儀が良いね、お利口さんだと、茶の間に集った男性共々から褒めてもらったように思う。


常識的に妥当なのは、当然、後者の記憶だ。


実際、美味しい朝食を頂いた後、動物達と楽しく接し、昼過ぎに迎えに来た父親と、お世話になりました、お邪魔しました、何のお構いもしませんで、またお出でねと、朗らかに挨拶を交わして辞去した覚えがある。


後日、母が無事うんだ下のきょうだいと帰宅して以降、何度か夜驚症らしき様態を呈し、小児科へ連れて行かれたものの、きょうだいが加わった事への一時的不安定と言った具合で、それも時期に治まって、現在まで何ら問題ない。


あの家を再び訪れたり、夫妻に会ったり、話に聞いたりする機会もなく、ややもすると、悪夢や妄想の類かと首を傾げる心地になる。


それでも父母に質してみるなど、究明しようとしないのは、今も脳裏に鮮明な、去り際の女性の姿の所為だ。


車のエンジンを掛ける父の隣で、助手席の窓から顔を出し、さようならと手を振る自分に、手を振り返す男性の斜め後ろで、女性は前掛けの裾を両手に、目元の際まで持ち上げていた。


弓なりの眉をひょいと上げ、両目も同じ形に歪め、さながら両手で掛け布団を頭まで被る動作を示し、「だから“これするな”って言ったでしょう」と、内緒で笑うかのようだった。


あの姿が思い浮かぶ度、非常識な方の記憶が蘇る。


夜に寝床へ入って掛け布団を体に掛けた後、留められ、覆われ、入られると予想できるのに、突如くるかも知れないから、頭まで被らずに居られなくなる。


なので、自分は、きっと、今後一生、これら記憶の並存を突き詰めず放置すると思う。


子供の記憶なんて曖昧だし、あんなもの実際いる訳ない。


家の中を隈なく見た訳でもないから、案外、全部隠蔽で、本当は夫妻以外に誰か居たのかもしれない。



終.

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布団 壱原 一 @Hajime1HARA

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