第21話 "俺"が死んだ日 4/4
暗い、暗い空間に影山は浮かんでいた。身体は動かないが意識ははっきりしている。いや、どうだろうか。先ほどまでの自分の行動を考えれば、恐らくはこれは幻覚だ。今際の際には走馬灯を見るというが、こんな記憶はない。あれはやはり嘘だったのだな、などと影山は呑気に考える。
確実に死ねたはずだ。あれだけ何度も腹を抉ったのだから、万が一にも助かってしまいはしないだろう。夢中だったから、あまり記憶ははっきりしないが。
それにしても、ここはどこだろうか。もしかしたらあの世は本当に存在して、今自分は地獄に落ちる途中なのかもしれない。そうであれば、ようやくこの先に裁きが待っていることになる。さっきも苦しみは少し物足りなかった。より重い罰が待つなら歓迎だ。
『誰が望んだ』
ふと、何かが聞こえた。聞き覚えがない声だ。影山が声の主を探そうとすると、目の前に薄ぼんやりと光る何かが見える。
『為すべきことはなんだ』
徐々に光が形を成していく。影山は声の主に何者だと尋ねようとするが、口が開かない。
『頭を冷やせ』
やがて光は狐の姿になった。意味のわからない光景だ。これが閻魔大王の裁きだとでもいうのだろうか。
『チャンスをやる』
困惑する影山を尻目に狐は言葉を続ける。その声は目の前からしているはずなのに何故か頭の中で重く反響するようだ。
『もう一度、見つめ直せ』
狐の言葉は意味不明だ。真意を問いただそうとしても、相変わらず声は出ない。そして狐の姿がぼやけはじめ、光が強くなり、辺りを真っ白に照らしていった。
目が覚めると、影山は自室にうつ伏せで倒れていた。不可思議な夢を見た。いつから気絶していたのか分からないが、目覚めてしまったということは死ねていない。床を染めているはずの血痕もなく、自殺したことさえ夢の中のできごとだったかのようだ。
しかし、影山はすぐそばに包丁が落ちていることに気付く。確かにさっき自分で自分の腹を刺すのに使った包丁だ。一体どういうことだろうか。自害する寸前で何かの拍子に気絶したのか?
「そんなことはどうでもいいな」
いずれにせよ、死ねていないことだけが事実だ。ならばすることは決まっている。影山は包丁を拾い上げると勢いよく自分の腹にそれを突き立てた。
「・・・?」
先ほどと同じく、痛みがない。だが決定的に違うことがある。血が流れない。あまりの手応えのなさに困惑し、包丁を引き抜く。やはり出血はない。それどころか、刃が抜けると傷口はみるみるうちに塞がってしまった。
「・・・は?」
信じがたい光景に影山は思わず言葉を失う。何が起こったのか理解不能だ。なんだこれは、やはり夢か? いや、夢だとしてもだ。何故か自分は生きている。それだけは間違いない。何故だ、何故死なない?
元々正気ではなかったが、意味不明な現象に余計に錯乱し、影山は何度も何度も包丁を腹に刺すが、何度繰り返しても何事もなかったように傷はすぐに塞がる。死に近づく気配すら感じられない。
遂に影山はしびれを切らして喉元に包丁を突き刺した。だが、これでも手応えはない。確かに刃は深々と刺さっているのに呼吸が苦しくなることさえない。恐る恐る包丁の柄から手を離すと、傷口はまたたく間に塞がって、押し出された包丁が床に落ちた。
「クソ! 何が起きてるんだ!?」
発狂したように叫びながら影山は頭を掻きむしる。すると、何か違和感を覚えた。手に当たる感触がおかしい。不可解な感触を確かめるように頭頂部から顔面へと手を動かす。そして、浴室に駆け込み鏡で自分の顔を確かめた。
「なんだこれ・・・?」
そこに映っていたのは狐頭の怪人の姿だった。先ほど暗闇の中で見た狐の姿がフラッシュバックする。
「は、ははは・・・」
そして影山は力なく笑う。このおかしな現象が現実だと直感的に理解した。狐の呪いだ。
「そうか、これが罰か。罪人は死ぬことも許されないんだな」
自暴自棄になり、床に座り込む。これから何をすれば良いのか、考えると狐の言葉が蘇る。
『為すべきことはなんだ』
分からない。教えてくれと願っても答えは返って来ない。ただ同じ言葉が頭の中をぐるぐると渦巻くだけだ。影山は蹲ったまま、夜を明かした。
それから数日、影山は一睡もせず、何も口にしない生活を続けた。自傷しても何も起きないが、衰弱すれば死ねるかもしれないと思った。しかし、腹は減らず、喉は乾かず、眠気すらもやってこない。身体に変化は起こらず、不自然なほど健康のままで、これもダメだと分かった。
次に外に出てみた。最初は他人に見せられる姿じゃないと思っていたが、逆に通報されてみようと考えたのだった。捕まれば服役ができるかもしれない。死ねないのならせめてその方が良い。だが、どうしたことか、誰もこの顔に反応しなかった。
わけがわからなくなり、交番に駆け込む。どうして誰も俺を通報しない!?と警官に喚き立てたら病院に連れて行かれた。精神がおかしい自覚はあるが、狐頭の不審者にする対応ではないと思った。
そこで、自分以外には狐に見えていないことに気付いた。であればこれ以上暴れるのも野暮だと狐はその場を立ち去った。誰も引き止めないことが不自然なことに気付いたのは後になってからだ。
それからまた時間が経って、両親から連絡があった。退院したのなら偶には帰ってこないか、という心配の連絡だ。もはや狐には響かない心配だが、断っても相手は納得しないだろうと思い、実家に顔を出すことにした。
実家に着いてインターホンを鳴らすが反応がない。予め連絡はしていたから留守なのはおかしい。ドアノブに手を掛けると鍵が開いている。まさかと思い玄関に飛び込んで両親を大声で呼んだ。すると狐の不安とは裏腹にまったく無事な両親が現れた。急に大声で呼ばれて驚いた、という様子だ。
何故急に大声を出したと問われたので、狐は安堵しながらも、インターホンは鳴らした。鍵を掛けないなんて不注意だと両親に伝える。しかし両親は首を傾げながらどちらも否定した。それはおかしい、現に鍵は開いていたと指摘しようとしてドアを振り返ると、掛けた記憶もないのに鍵はしっかり閉まっている。狐もよく分からなくなって呆然とするしかなかった。
些細なことは気にするなと両親に言われるがまま、家に上がり居間に通される。先程の出来事が頭を離れず悶々としていると、両親が湯呑みと急須を持ってきて、狐と同じテーブルに着いた。
なんてことのない会話だった。生活の心配はないか、病気は大丈夫か、いつでも帰って来い、両親は狐の心配を次々と口にする。親なのだからそれも当然のことなのだが、自分に嫌気が差していた狐は鬱陶しくなって、もう放っておいてくれと強い口調で言った。
すると、急に両親の様子が変わり、「そうだな、お前も大人だし、口を挟むのはやめる」と言って、テーブルに並べられた茶菓子を片付けはじめた。怒ったようでも、悲しんだようでも、呆れたようでもない。ただ淡々とそこに自分が居ないかのように、普段の生活に戻る両親に狐は愕然とした。本当に『放っておかれて』しまったのだ。
声を掛ければ反応はある。しかし、必要以上の会話が続かない。目の前の両親はまるで人が変わったようだ。違う、自分が変えてしまったのだ。狐は恐ろしくなり、逃げるように実家を立ち去った。
それから、狐は亡霊のように街をさまよいながら、『為すべきこと』の答えを探した。その途中で分かったこともある。
口座は凍結されていない。幸か不幸か稼ぎは多かった上に、全然使っていなかったため、自由に使えるお金は潤沢にあった。
あらゆるセキュリティが自分に対しては機能しない。鍵の掛かった扉はもちろん、警報も反応しないし、通信上のセキュリティもすり抜けられてしまう。あまりにも危険な特性だと思った。
強い感情を込めて言葉を発するとそれが人心に作用してしまうようだ。両親がおかしくなったのもそのせいだった。狐はどんな人間でもその気になれば意のままに動かせる、その事実が恐ろしくなり、自分を偽る道化を演じるようになった。
そうして、夢の狐が繰り返す言葉の意味を考えた。考え続けて『罪滅ぼしをしろ』と言われているのだと理解した。それが自分の『為すべきこと』なのだと信じ込んだ。
だが、贖罪の術が分からない。死ねないし、捕まらない自分は何をすれば罪に報いることができるのだろうか。
答えが見つからないまま月日が経ったある日、ビルの屋上で月を見上げているとどこからか声が聞こえてきた。
「泣き声?」
確かに誰かが泣く声だった。頭の奥に響くような声はなぜか助けを求めているように感じた。導かれるように声の元へ向かうと、一人の女性が自宅のベランダから飛び降りようとしていた。
「ああ、これが俺の運命か」
葵と出会ったあの日、狐はこれが贖罪だと思ったのだった。
―――――――――
「・・・?」
物思いに耽っていた狐はポケットでスマホが揺れていることに気付いた。自分に連絡を入れてくる相手など、病院の医師ぐらいしか思いつかないが、休診中の時間帯のはずだ。
不審に思ってスマホの画面を確認すると見慣れない番号が表示されている。間違い電話か、迷惑業者か。いや、確かこの番号は・・・。
「どうやって知った?」
その番号は一度見たことがある。必要だから仕方なく、セキュリティを破って覗いたものの中にあった。葵の電話番号だ。
狐は意外な人物からの着信に少し逡巡した後、電話を取った。
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