第20話 "俺"が死んだ日 3/4
二日後、昼下がり。影山は駅前の書店に来ていた。春川に合わせて休暇を取ったは良いものの、影山は娯楽に疎かったため、暇を持て余していた。
一日目は普段の週末にそうしているように散歩で時間を潰したが、週明けまでは長い。今後も同じように休みを取ることはあるだろうし、何かしら暇つぶしの手段を見つけた方が良いだろうと考えての行動だ。
「ふうむ・・・」
棚の前に立って影山は思案する。本を買いに来てみたものの、新書、参考書、専門書とコーナーを回っても興味をそそる物が見つからない。そもそも見ている棚が他人からしたらつまらないものばかりだろうが、影山はもう長い事こういった本しか読んでいなかった。
「とすれば小説か、或いは漫画か。久しぶりだな」
頻繁にというほどではないが、学生の頃までは影山も漫画や小説を読んでいた。思い返せば、昔は今よりはまだ他人に近い生活をしていた。
機微に疎いのは元々の気性ではあるが、就職してから悪化したことは否めない。無趣味なこともそれと無関係ではないだろう。今の俺には一番必要なものかもしれないな、と思い影山は漫画コーナーに足を運んだ。
「・・・まいったな」
そこで今度は先程とは違う理由で影山は悩んでしまった。想像していたよりもずっと種類が多い。試し読みを手に取り数ページめくると、これがまた面白く、自分もまだこういったものに興味があるのだなと影山は意外に思う。
しかしどれを買おうか目移りしてしまい、決めきれない。まさか気になったものを片っ端から買うわけにもいかないので困る。誰かに相談するべきか、と考えポケットからスマホを取り出し、一旦店を出た。
「さて、どうしようか」
通話アプリを開いて影山は一度考える。登録されている連絡先は春川だけだ。元々アカウント自体が春川に言われて作ったもので、春川からは時々メッセージが来るがこちらから連絡を取ったことは一度もない。
「掛けても良いものかな」
電話を掛けるのが一番早いだろう。だが、休暇中に上司から掛けるのはどうかとも思う。プライベートの話であっても業務を想起させかねない。ましてこちらの命令で休ませたのだから、なおさら気が引ける。
「・・・日和る方が怒られそうだな」
悩みながら春川の顔を思い浮かべ、影山は苦笑した。彼女なら気にせず掛けろと言いそうだ。意を決して影山は発信ボタンを押した。
「・・・出ないか」
しかし、春川は電話に出ない。休暇中なのだからそういうこともあるだろう、緊急の用事でもないし、しつこく何度も掛けるのはさすがに違う。
「まあ、仕方ない。オススメはあとで聞けばいいか」
影山はそう呟くと、春川にメッセージを送り、先程試し読みした漫画を三韓まで買って店を出た。
――このとき、既読がつかないことに気付いていれば、もっと何かできることがあったのに。
数日後、影山は葬儀場に居た。まるで生気のない表情でのそのそと歩く彼の姿は誰の目から見ても異様だっただろう。春川が死んだ。先日ちょうど影山が電話を掛けた時間の出来事だった。
春川の不調の原因はストーカー被害に遭っていたからだった。そして、彼女は下着を盗みに忍び込んだストーカーに出くわして、錯乱した犯人に殺された。犯人は平日の昼間だから家主は不在だろうと考えていたらしい。
――何故? 何故何故何故? 何故彼女は死んだ?
そんなことが起こって良いはずがない。そんな理不尽が許されて良いはずがない。彼女には何の落ち度もない。何も悪くない。なのにどうして。
いつか相談に来た彼女の友人が泣いている。彼女の家族は神妙な顔で佇んでいる。悲しみに暮れる人々の中で影山はまるで死人のようだった。
――どうして助けられなかったのだろう。
衰弱死だったと聞いている。もしもあのとき、自分が異変に気付いて通報していれば、彼女は助かったかもしれない。何度もしつこくコールしていれば、住人がおかしいと気付いたかもしれない。
――どうしてもっと深入りしなかったのだろう。
事情をちゃんと聞いていれば守ることができたはずだ。もっと別の対策を打てたはずだ。拒絶されたからなんだというのだ、お前は足踏みした挙げ句大切なものを取りこぼした。
――何故、休みなど、取らせてしまったのだろう。
出社させた方が安全だった。家に居なければこんなことは起こらなかった。彼女が休みたがらなかったのも、遠慮なんかじゃなくて身の危険を感じていたからじゃないか。
――俺が彼女を殺した。
何から何まで間違えた。もっと知らなきゃいけなかったのに知ろうとしなかった。分からなきゃいけなかったのに分かろうとしなかった。自分は自分、他人は他人などと都合の良い言葉を並べて、人の心に寄り添おうとしなかった甘えが、この結末を招いた。
果てしない後悔と自責の念が影山の頭を埋め尽くす。春川の両親がやってきて「娘が世話になった」と影山に感謝を告げる。それから何かを話していたが、影山はその内容をよく覚えていない。合わせる顔もない。感謝される資格など、自分にはない。
それから数日後、病院の紹介状とともに影山に休職命令の通達が来た。まるで亡霊のような影山の様子に尋常じゃない、見ていられないと同僚から上への報告があったらしい。
なんと情けない、身勝手なことだろう。責任を果たせてもいないのに患う権利がどこにあるというのか。ああ、本当に罪深い。
「いっそ隔離してくれるなら、罰にもなるかもしれないな」
渡された紹介状を眺めて影山は自分を嗤った。どんな病名がつくのかは知らないが、閉じ込められるぐらいがちょうどいい。隔離病棟が罪人にはお似合いだ。俺を裁いてくれ、俺を罰してくれ、そんな考えを抱いて、影山は病院に乗り込んだ。
だが、影山の思いに反してそこでは誰も彼もが親切だった。誰も自分を責めず、誰も自分を縛らず、誰も自分を見捨てない。影山に与えられたのは罰ではなく献身的な治療だった。
最初、入院が決まったとき影山は安堵した。望み通り牢に繋がれるような気分だったからだ。しかし、ほどなくして求めていた処置とは違うことを察して、失望もした。結局自分の罪が裁かれることはないのだ。もはや拒絶する気力もなく、ただされるがままに治療を受けた。
それから数ヶ月が経過すると、当初の望みとは裏腹に症状は順調に改善していった。後から聞いた話だが、見舞い品も面会希望者も来ていたらしい。症状が悪化する原因にもなりうるからと病院側で断っていたとのことだが、こんな自分に見舞いが来ていたこと自体に影山は驚いた。
さらにまた暫く経って、退院日が来た。様子見で悪化の兆候があればまたすぐに入院になるという条件付きではあったが、予定よりもだいぶ早く治療は進んでいた。最初は投げやりだった影山も、医師や看護師に感謝し、治療を受けて良かったと思うようになっていた。
このまま順調に行けば復職もそう遠くないうちにできるだろうと思ったが、医師はもっと長い目で治療をしようと言う。最低でも休職期間いっぱいは仕事のことはあまり考えないでほしいとのことだった。影山はもどかしかったが渋々了承した。このときはまだ、早く戻って貢献することで罪滅ぼしをしたいと思っていた。
だが、爆弾というものはどこに仕掛けられているかわからないものだ。影山は自宅のデスクの引き出しから”それ”を見つけてしまった。春川からもらった古びたお守りだった。
『そういえば影山さんって誕生日いつなんですか?』
このお守りを受け取ったときのやり取りを思い出す。
『五月十二日ですが、どうしました?』
『えーっ、過ぎちゃってるじゃないですか。なんで教えてくれなかったんですか!』
『はぁ。訊かれなかったので』
あのとき彼女はとても不満そうだった。当時の自分にはそれがなぜだか分からなかったが、今になって思うと、酷い返答をしたものだ。
『もう、そういうところですよ。しょうがない、これ預けておきます』
『お守りですか?』
『それ大事なので、来年の誕生日まで失くさないでくださいね』
『そんな大事なものを何故?』
『影山さんが忘れちゃうからです』
『はぁ、分かりました』
影山には渡された意味が分からなかったが、言われた通り、傷がつかないように春川のお守りを大事にしまっていた。そしてそれを見て、和らいでいた罪の意識もすべて一緒に思い出してしまった。
――俺は何をしている?
どうして忘れていたのだろう。許されようとしていたのだろう。彼女は命を失ったのに、自分だけが救われて良いわけがない。
――罰を受けなければいけない。
虚ろな瞳で影山は包丁を手に取った。誰も自分を罰しないのなら、自分でするしかない。彼女と同じ痛みを、彼女以上の苦しみを、味わわなければいけない。差し出せるものはひとつしかない。
彼女は衰弱死だったと聞いている。なるべく長く続く苦しみが良い。簡単に死んでくれるなよ、と自身に向けて呟いて、影山は自分の腹に包丁を全力で突き立てた。
傷口から赤く熱いものが流れ出す。不思議と痛みはない。まだ死ねないかもしれない。深々と腹に突き刺さった刃を躊躇なく抜くと、もう一箇所、まだ、もう一箇所。力が入らなくなるまで影山はそれを繰り返した。
やがて出血で力が抜け、影山は床に倒れ伏す。意識は遠のき、体温が消えていくのを感じる。痛みは全然足りなかったと思う。けれど、これが精一杯だ。どうか、許して欲しい。
そうして、影山の意識は途絶えた。部屋は一面血に染まり、デスクの上のお守りを赤く濡らしていた。
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