第10話 人生と逆転と 5/5
「ねぇ、あのさ。ひとつ思ったんだけど」
「ん、なんだい?」
仰向けになったまま葵は狐に質問を投げかける。
「さっきのヤツ、全部取られてたらマス目広げても負けじゃない?」
「あ、気付いた?」
狐の態度は相変わらずあっけらかんとしている。葵は重要な指摘だと思ったのだが、そこは想定済みだったようだ。
「ひとつでも残ってれば一気に有利になれるんだけど、全滅するとどうしようもないんだよね。君が思ってたより強かったから、少しだけ残すのには気を使ったよ」
「ふーん」
葵は狐の話を興味深く聞いていた。全滅が想定されているなら、さっきの対局が人生の縮図だというなら、全滅もなにかの比喩なのだろう。
「それで、全滅はどういう意味なの?」
話の続きを促す。人生が逆転できなくなるのは一体どんなときなのだろうか。好奇心と少しの恐怖が押し寄せる。
「困ったな、はぐらかしたいが逃がしてくれなさそうだ」
狐は顎に手を当てて考える素振りをした。葵は言葉を返さない代わりに上体を起こし、狐の目をじっと見つめて回答を待つ。
「死だよ。死んだら終わりだ。どんな手を使っても生き返ることはできない」
「ああ、確かに」
言いづらそうにするわけだと葵は納得した。あれからまだ二日も経たないのだから、そりゃ気にして当然だ。もう飛び降りなどする気は微塵もないが、遠い過去になったわけでもない。
気を使わせてしまっただろうか、少々空気が重くなったように感じる。清々しい気分だったのに気まずくなるのは勿体ない。仕方ない、フォローしてやろう。
「気にしないで。もう死ぬつもりはさらさらないから。だってさ」
言葉を区切って一呼吸置く。それから力強く言った。
「生きてれば何度だって逆転できるんでしょ?」
狐の鼻を指で弾きながら、ニッと笑ってやった。狐は呆気にとられたように黙ったままだ。
「・・・あれ? なんか間違えた?」
狐の反応に不安になり、葵は自信なさげに訊く。作り笑いが下手なのは自覚している、笑顔がぎこちなかっただろうか。励ますのはやっぱり苦手だ。というか、なんであたしはこいつを励ましてるんだっけ?
「うん、そうだね。その通りだ」
葵が頭の中で自問自答していると狐が口を開いた。ふっ、と息が漏れるのが聞こえる。
「なに笑ってんの?」
ぐっとと頭を近づけると珍しく狐は顔を逸らした。間違いない、笑っている。違う、笑われている。
「いやだってさあ、それはちょっとずるいだろ」
「なにが?」
狐は問い詰める葵から距離を取ろうとするが、元々小さな部屋なのに今は物が多くて逃げ場がない。観念したように狐は答える。
「表情がコロコロ変わるもんだからおかしくて。特に眉が上がったり下がったりするのが面白すぎたんだよ。笑ったのは謝る、ごめん」
あ、そういうことか。急に笑うものだから、またからかわれているのかと思ったが、原因はこちらにあったようだ。遊ばれてるわけではないのなら別に怒りはしないが、せっかく勝手に追い詰められてくれてるのに見逃すのもつまらない。
「おまえ、女の顔見て笑ったな! サイテー!」
「許してくれよ、ごめんってば」
葵はできる限り眉間に力を入れてまくし立てたが、どうにもおかしくて少し笑ってしまった。自分でも変な表情になったと思うのだが、狐は変わらずうろたえている。目を逸らしているから葵の顔が見えていないようだ。
「・・・あはははは! いや、無理、こっちが耐えられない!」
「えっ・・・?」
あまりの滑稽さに堪えきれずに葵は声を出して笑った。驚いた様子の狐の反応がさらにおかしさを加速させる。
「怒ってないの?」
「全然? あんたの方が面白いよ」
「それなら、まあ、いいけども」
恐る恐る様子を窺う狐に葵は笑いながら答える。なんだか今日はよく笑う日だ。もし今のが狐の演技で思い通りに笑わされたのだとしても、こういう風になら転がされるのも悪くないと思う。
「はあ、笑いすぎて疲れた」
葵はひとしきり笑うとベッドに腰を掛ける。するとちょうど枕元に置いた手がスマホに触れた。そういえば、と思い立ちスマホを持ち上げる。
「どうしたんだい? 遠い目をして」
画面をいじるでもなく頭上にスマホを掲げていると、狐の声がした。
「仕事辞めちゃったなーって」
学生時代はほとんど遊び道具だったスマホも、この4年半ですっかり仕事の象徴になっていた。出先でも帰ってからも毎日うるさく鳴っていたのに、昨日からはずっと静かで、その様子が生活の変化を告げているようだ。
「後悔してる?」
「してない。ただちょっと不安なだけ。辞められるとすら思ってなかったから」
日々の忙しさに考える余裕すらなかった。人生は変わりうるのだ。つい先日までの当たり前が当たり前じゃなくなって、怒られないし叱られないし怒鳴られないのに、決めなきゃいけないこと、考えなきゃいけないことは増えたように思える。
「これからどうしよう」
手にしたスマホを眺めているようで焦点は合っていない。どこか遠くを見ながら葵はこぼす。
「転職のことかい?」
「それもあるけど、色々」
狐の問いに分かってるくせに、と葵は思った。答えが分かりきってても訊いてくるのは質問じゃない、催促なのだろう。続きを話せと狐は言っているのだ。
「仕事のこと、今はあんまり考えられないかな」
将来の不安とはよく言うが、それが漠然としたものではなく現実として目の前に現れるのは葵にとっては初めての経験だ。明日どうなってるのかも今は想像がつかない。途方に暮れていることを自覚する。
「まあ、落ち着いてから考えればいいよ。時間はたくさんある。なんだったら一生働かない選択肢だってあるんだぜ?」
大胆な提案に葵は視線を狐に合わせる。真剣な口調ではなかったが完全に冗談というわけでもなさそうだ。
「なあに? あんたが養ってくれるの?」
「君が望むならそれでも構わないよ」
葵は冗談めかして言った。狐の様子は変わらない。本当にどちらでもいい、という態度だ。決めるのは君だ、と言われている気がする。
「ヒモは嫌だな」
ふっ、と軽く笑って葵は答える。
「寄りかかるのは嫌。自分のことは自分でやりたい」
「そうか、前向きで良いことだ」
狐の声色が少し変わったように思える。まるでその言葉を待っていた、と言わんばかりだ。
「前向きかあ。そうだね」
葵はぼんやり眺めていたスマホを両手で持つと、素早く操作して電話帳を開く。
「それじゃあ、さようならしなきゃだよね」
そして小さく呟き、元上司の番号を着信拒否にして連絡先を電話帳から削除した。
「これでよし、と」
大したことではないはずだが、一仕事終えたような気分になり、ふうと葵は息を漏らす。そして狐に声を掛ける。
「自分のことは自分でって言ったけどさ、たまには頼っていいかな」
「そりゃもちろん」
狐は大仰に頷いた。時刻は16時過ぎ、窓からは夕日が差し込み、やや暗くなった部屋をほのかに赤く染める。
「それじゃ早速なんだけどさ、このあと手伝ってよ」
葵は立ち上がって大きく伸びをしながら、台所に向かいつつ言う。冷蔵庫を開くとやはり何も入っていなかった。
「あー、そういえば食材は買ってないって言ってなかったね。君が乗り気になったら買いに行こうと思ってたんだ」
部屋の方から狐の声がする。昼からずっと狐の様子を見ているが、冷蔵庫を開ける素振りがなかったので、それはなんとなく分かっていた。
「うん、だから買い出しからね。荷物持ちぐらいはしてくれるでしょ?」
くるりと狐の方を振り返りながら葵は言う。自然と笑顔になった気がした。
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