「推し」としてのアイドル—ファン文化の進化とアイドルの役割の変化
君山洋太朗
「推し」としてのアイドル
要旨
本稿では、日本のアイドル文化における「推し」という概念の発展と、それに伴うファンとアイドルの関係性の変化について考察する。1980年代の「憧れの存在」としてのアイドルから、現代の「推しの対象」としてのアイドルへの変遷を分析し、メディア環境の変化、特にSNSの普及がこの関係性にもたらした影響を検討する。アイドルとファンの関係は「消費」から「共存」へと変化しており、この現象が日本のポップカルチャーとエンターテイメント産業にもたらす意義を探求する。
1. 序論
1.1 研究背景
日本のポップカルチャーにおいて、アイドルは常に中心的な存在であり続けてきた。しかし、その位置づけと役割は時代とともに大きく変化している。1980年代から1990年代にかけて、アイドルは主にテレビや雑誌を通じて一方的に見られる「憧れの存在」であった。ファンはアイドルを遠くから崇拝し、コンサートやイベントで彼らを見ることがファン活動の中心だった。
これに対し現代では、アイドルは「推しの対象」となっている。「推し」という言葉は、「推薦する」「推す」という動詞から派生し、自分が特に応援するアイドルや芸能人を指す言葉として定着した。この概念の変化は単なる呼称の変化ではなく、アイドルとファンの関係性の本質的な変容を示している。
1.2 研究目的
本研究の目的は、アイドルファン文化の進化を通して、アイドルの社会的役割の変遷を分析することである。特に以下の点に焦点を当てる:
1. アイドルとファンの関係性がどのように変化してきたか
2. 「推し文化」の形成過程とその特徴
3. メディア環境の変化がアイドルの役割にもたらした影響
4. 現代におけるアイドルの多様化とその意義
これらの分析を通じて、日本のアイドル文化が持つ独自性と普遍性を明らかにし、エンターテイメント産業における新たな関係性のモデルを提示することを目指す。
2. アイドルとファンの関係性の変化
2.1 1980年代:テレビを通じた一方的な憧れ
1980年代は「アイドル黄金期」と呼ばれ、松田聖子、中森明菜、小泉今日子などのアイドルが一世を風靡した。この時代のアイドルは、テレビ番組や雑誌を通じて視聴者に「見られる存在」として位置づけられていた。ファンはアイドルを遠くから憧れる対象として消費し、直接的なコミュニケーションの機会は極めて限られていた。
中村(2018)は、この時代のアイドルとファンの関係を「幻想的一方通行型」と名付け、アイドルが持つ「手の届かない存在」としての価値が重要だったと指摘している。アイドルとファンの間には明確な境界線があり、その距離感こそがアイドルの魅力を形成する要素の一つだった。
テレビメディアがアイドルの露出を厳格にコントロールし、「作られた完璧なイメージ」が維持されていた時代であり、ファンはそのイメージを消費していた。アイドルの私生活は徹底的に隠され、「素」の部分を見せることは極めて少なかった。
2.2 2000年代:AKB48の「会いに行けるアイドル」概念の誕生
2005年にAKB48が「会いに行けるアイドル」というコンセプトで誕生したことは、アイドルとファンの関係性に革命的な変化をもたらした。秋元康プロデューサーはアイドルとファンの距離を縮め、直接的な交流を促進するモデルを確立した。専用劇場での定期公演、握手会、総選挙など、ファンがアイドルと直接触れ合える機会が格段に増加した。
佐藤(2016)は、この変化をアイドルの「消費モデル」から「参加モデル」への移行と分析している。ファンは単にアイドルのコンテンツを消費するだけでなく、握手会や投票を通じてアイドルの成長や成功に直接関与できるようになった。
特に「AKB48選抜総選挙」は、ファンがアイドルのキャリアに直接影響を与える画期的なシステムとして機能した。CDを購入することで得られる投票権を行使し、好きなメンバーを上位に押し上げる活動は、「推す」という行為の具体的な形となった。
2.3 2010年代以降:SNS時代の双方向的コミュニケーション
2010年代半ば以降、スマートフォンの普及とSNSの発展により、アイドルとファンのコミュニケーションはさらに直接的かつ双方向的になった。TwitterやInstagram、YouTubeなどのプラットフォームを通じて、アイドルは自らの言葉や映像で日常をファンに発信するようになった。
高橋(2020)の調査によれば、現代のアイドルファンの78%が「アイドルのSNSをほぼ毎日チェックする」と回答しており、SNSが「推し」との関係構築において中心的な役割を果たしていることがわかる。
従来のマスメディアを介した一方通行のコミュニケーションから、SNSを通じたリアルタイムの双方向コミュニケーションへの移行は、アイドルとファンの心理的距離を大きく縮めた。アイドルはファンのコメントに直接反応し、時にはファンの意見を取り入れて活動内容を決定することもある。
3. 「推し文化」の形成
3.1 ファンがアイドルを「育てる」存在に
現代の「推し文化」の特徴の一つは、ファンがアイドルを「育てる」意識を持つようになったことである。伝統的なファン文化では、すでに完成されたスターを崇拝することが中心だったが、現代のファンは自分の「推し」の成長過程に積極的に関わり、その成功を自分のことのように喜ぶ傾向が強い。
渡辺(2019)は、「推し」とファンの関係を「疑似的養育関係」と表現し、ファンがアイドルの成長を見守り、支援することで得られる満足感を重視していると指摘する。特に地下アイドルやインディーズアイドルのファンは、メジャーデビュー前の段階から応援し、その成長を見届けることに喜びを見出す傾向がある。
この「育成感覚」は、従来のファン心理とは質的に異なるものであり、単なる消費者としてではなく、アイドルの成功のパートナーとしての自己認識をファンにもたらしている。
3.2 クラウドファンディングや投票型イベントの影響
クラウドファンディングやファン投票システムの普及は、ファンがアイドルの活動に直接投資し、その方向性に影響を与えることを可能にした。近年では、CDや音楽配信の売上だけでなく、ファンからの直接的な資金調達がアイドルの活動を支える重要な要素となっている。
例えば、2018年に行われた「=LOVE」のミュージックビデオ制作プロジェクトでは、目標金額の300%以上の支援が集まり、ファンの直接的な貢献がコンテンツ制作の原動力となった。島崎(2021)の研究では、このような直接的な金銭的貢献が「推し」への帰属意識と一体感を高めることが示されている。
また、SHOWROOM等の配信プラットフォームでの「投げ銭」システムは、ファンが直接アイドルに金銭的支援を行う新たな形態として定着している。これらのシステムにより、ファンはアイドル活動の「共同投資家」としての側面を持つようになった。
3.3 VTuber・バーチャルアイドルの登場と「推し」の概念の拡大
2016年以降、キズナアイを始めとするVTuber(バーチャルYouTuber)やバーチャルアイドルの登場は、「推し」の概念をさらに拡張した。物理的な実体を持たないバーチャルキャラクターが「推し」の対象となることで、アイドルの定義そのものが変化した。
鈴木(2022)は、VTuberファンへのインタビュー調査から、バーチャルキャラクターへの感情的結びつきが実在のアイドルへの感情と質的に大きな差がないことを見出している。むしろ、バーチャルという特性により、ファンは自由にキャラクターの背景ストーリーや性格を想像し、より強い感情的結びつきを構築できる場合もある。
ホロライブやにじさんじなどのVTuberグループの人気は、「推し」の概念が物理的な実体を必要としなくなったことを示しており、アイドルとファンの関係性がさらに多様化・複雑化している証左である。
4. アイドルの役割の変化
4.1 個人発信の強化(YouTube・TikTok・インスタライブ)
従来のアイドルはグループや事務所の一員として、統制されたイメージで活動することが一般的だった。しかし現代では、YouTubeやTikTok、Instagramのライブ配信など、個人での発信機会が飛躍的に増加している。
佐々木(2021)の分析によれば、2020年以降、メジャーアイドルグループのメンバーの90%以上が個人のSNSアカウントを持ち、70%以上が定期的に個人コンテンツを発信していることがわかる。この傾向は、アイドルの役割が「グループの一部」から「個人クリエイター」へと拡張していることを示している。
例えば、乃木坂46のメンバーである山崎怜奈は、自身のYouTubeチャンネルで文学や哲学に関する深い考察を発信し、従来のアイドル像を超えた活動を展開している。このような個人発信の強化は、アイドルがより多面的な自己表現を行う場を獲得したことを意味している。
4.2 ファンとの関係性が「消費」から「共存」へ
従来のエンターテイメント産業では、アイドルが「商品」としてファンに消費されるという構造が一般的だった。しかし現代では、アイドルとファンが互いに影響し合い、共に成長する「共存」の関係性が形成されつつある。
中島(2020)は、この変化を「消費型エンターテイメント」から「共創型エンターテイメント」への移行と表現し、ファンがアイドルの創造過程に積極的に関与することで、従来のプロデューサー・アイドル・ファンという階層構造が平坦化していると指摘している。
特にSNSを通じたアイドルからのフィードバックや、ファンの意見を取り入れたコンテンツ制作は、この「共存」関係を強化する要素となっている。ファンミーティングでの企画提案や、楽曲制作への参加など、ファンの創造的貢献の機会も増加している。
4.3 アイドルの多様化(年齢・性別・ジャンルの拡張)
従来のアイドル像は、10代後半から20代前半の若い女性が中心だったが、現代では年齢、性別、ジャンルを超えた多様化が進んでいる。
年齢の面では、「わたしこれからなにをしようかな会」(平均年齢60歳以上の女性グループ)や「おぎゃっと25」(赤ちゃんをモチーフにしたグループ)など、従来のアイドル年齢の枠を超えた活動が注目を集めている。
性別の面では、男性アイドルの「推し」文化も大きく発展し、特にSTARTO ENTERTAINMENT(旧ジャニーズ事務所)所属のグループやK-POPグループを中心に、女性ファンによる熱狂的な応援が一般化している。また、ジェンダーの多様性を表現するアイドルグループも登場している。
ジャンルの面では、アイドルとアーティスト、タレント、モデルなどの境界が曖昧になり、一人のパフォーマーがマルチな活動を展開することが一般的になっている。YOASOBI、あいみょん、藤井風など、従来の「アイドル」のカテゴリーに入らないアーティストも「推し」の対象となっている。
5. 現代における「推し」文化の心理的・社会的意義
5.1 「推し」がもたらす心理的効果
「推し」を持つことは、単なる娯楽以上の心理的効果をファンにもたらしている。山田(2022)の研究では、「推し」の存在が「目標設定や自己肯定感の向上に寄与する」という結果が示されている。「推し」の頑張りや成長に触発されて自分も頑張るという「推し効果」は、現代のファン心理の重要な側面となっている。
また、「推し活動」がコミュニティ形成の基盤となり、同じ「推し」を持つファン同士の絆が社会的サポートネットワークとして機能するケースも増えている。ファン同士のつながりが実生活にも波及し、「推し友」という概念が一般化している。
5.2 デジタル時代のアイデンティティと「推し」
デジタル社会において、「推し」の選択と応援活動は個人のアイデンティティ表現の一形態となっている。SNSのプロフィールに「推し」を明記したり、「推し」関連のコンテンツを共有したりすることで、自分自身の価値観や嗜好を表明する行為は広く見られる。
高山(2021)は、Z世代(1990年代後半から2010年代前半に生まれた世代)において、「推し」の選択が自己表現の重要な手段になっていると分析している。「どのアイドルを推すか」という選択は、単なる趣味の問題ではなく、自分がどのような価値観を持ち、何を大切にしているかを示すシグナルとなっている。
5.3 「推し経済」の発展と産業構造の変化
「推し文化」の発展は、エンターテイメント産業の収益構造にも大きな変化をもたらしている。従来のCD販売やコンサートチケット収入に加え、デジタルコンテンツ、グッズ販売、クラウドファンディング、投げ銭など、「推し」を応援するための経済活動は多様化している。
経済産業省(2021)の推計によれば、「推し活動」に関連する市場規模は年間約8,000億円に達し、その内訳はデジタルコンテンツ(30%)、物販(35%)、ライブ・イベント(25%)、その他(10%)となっている。特に注目すべきは、「推し」への月間支出額が年々増加傾向にあり、ファンの経済活動が産業の重要な原動力となっていることである。
6. 結論:アイドル文化の未来と「推し」の行方
6.1 アイドルとファンの関係性の今後
本研究で分析したように、アイドルとファンの関係性は「一方的な憧れ」から「双方向的な共創」へと大きく変化してきた。この変化は単なるテクノロジーの進化によるものではなく、ファン自身の意識変化と、産業構造の転換が複合的に作用した結果である。
今後も、アイドルとファンの距離は物理的にも心理的にもさらに縮まり、両者の境界はより曖昧になっていくことが予想される。一方で、「距離感」そのものがコンテンツとなる新たな形態のアイドル像も登場する可能性がある。重要なのは、この関係性が一方向に進化するのではなく、多様な形態が共存する状態へと向かっていることである。
6.2 テクノロジーの進化と「推し」の概念拡張
AIやメタバースなどの新技術の発展は、「推し」の概念をさらに拡張する可能性がある。バーチャルアイドルの進化、完全にAIが生成するアイドルの登場、あるいはファン自身がアバターを通じてアイドルになるという逆転現象も起こりうる。
これらの技術革新は、「誰がアイドルで誰がファンか」という二項対立を超えた、新たなエンターテイメントの形態を生み出す可能性を秘めている。しかし同時に、「人間らしさ」や「成長する姿」への共感という、アイドル文化の本質的な部分は維持されるだろう。
6.3 グローバル化する「推し文化」と日本のアイドル産業
「推し文化」はすでに日本国内にとどまらず、K-POP、中国のアイドル産業、さらには欧米のファンダムへも影響を与えている。特に、SNSを通じた国境を越えたファンコミュニティの形成は、「推し文化」のグローバル化を加速させている。
日本発祥の「推し」という概念とその実践方法は、グローバルなエンターテイメント産業に新たな視点をもたらしている。今後も、日本のアイドル文化と海外のファン文化が相互に影響し合い、より多様で豊かな「推し文化」が形成されていくことが期待される。
6.4 最終考察
アイドルとファンの関係性は、単なる「提供者と消費者」の枠組みを超え、互いに影響し合い、共に成長する「共創関係」へと進化している。「推し」という概念は、この新たな関係性を端的に表す言葉として定着した。
この変化は、現代社会における人間関係の変容や、テクノロジーがもたらすコミュニケーションの変化とも連動している。アイドル文化の変遷を分析することは、現代社会における人々のつながり方や、エンターテイメントの意味そのものを問い直す契機となる。
今後も「推し文化」は進化を続け、アイドルとファンの関係性はさらに多様な形態を生み出していくだろう。そこには、新たな社会的価値や文化的意義が見出される可能性がある。「推し」という言葉が示す新たな関係性の在り方は、エンターテイメント産業を超えて、現代社会の人間関係の一つのモデルを提示しているのかもしれない。
「推し」としてのアイドル—ファン文化の進化とアイドルの役割の変化 君山洋太朗 @mnrva
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