書き下ろし~ミセス・パーフェクト~

Youlife

ミセス・パーフェクト

 夕闇に包まれ始めた、東京・神保町じんぼうちょう界隈。

 出版社に勤める二柳あおいは、終業時間を迎るやいなやコートを羽織り、いそいそと帰る支度をしていた。


「チーフ、お先に!」


 あおいの背後から、部下たちの声が聞こえた。


「ちょっと、明日の資料、私にやらせないでよ。あんたたちが任されていたんでしょ?」

「そうですけど、今日はちょっと用事あるんで。明日やりますから」

「明日じゃ、間に合わないわよ……今日は約束があるのに、もう!」


 今どきの若い社員はプライベート優先で、仕事を背負い込もうという気概が見られなかった。「ちゃんとやってから帰って」と一喝すると、「どうしてすぐやらなくちゃいけないんですか?」とか「やりかたが悪いから、いつまでも終わらないんですよ」と反論してくる。それでも説得しようとすると、彼らは「ここはブラック企業だ」と言って、躊躇なく辞めていく。

 人手が足りなくなるのを防ぐため、結局あおいが彼らがやりたがらない分もこなしているのだ。


 会議資料の概要だけを作り終えると、あおいは椅子の背後の窓に向かって大きく背伸びをした。

 ビルの外を見ると、西の空は既に群青に染まっていた。真下には、これから飲み会に行くと思しき学生達と仕事を終えた人達が歩道を埋め尽くすように歩いているのが見えた。

 あおいは窓の桟に腕を載せて、「仕事が半端だけど、そろそろいかないと……」とつぶやいた。一方、スマートフォンがポケットの中で何度も強く振動していた。

 あおいはしばらく経ってからようやくスマートフォンを取り出した。画面には、メッセージの到着を知らせるアイコンが出ていた。メッセージの送り主は夫である隆介だった。


「今日は遅くなるの? 文美音が、『ママはまた家事サボるつもり?』って毒づいてくるんだよね」


 たった一行だけど、心に刺さるメッセージだった。

 あおいは営業部に所属し、日中は取引先の書店に出かけ、夜は会議資料をまとめ、定時で帰れたことはほとんど無かった。

 隆介や文美音にいつも家事を任せっきりで、申し訳ない気持ちで一杯だった。


「今日はね、友達と出かけるのよ。仕事があるから明日朝には帰っちゃうんだって。だからゴメン、今日だけは本当に堪忍して。文美音にもよろしく言っておいてね」


 あおいはスマートフォンを閉じると、早足でオフィスを出てエレベーターに乗り込んだ。

 外に出ると、時折冷たい風が通りを吹き抜けていた。道行く人達は、コートやダウンジャケットを着込み、風を避けながら通りを歩き続けていた。

 地下鉄三田線に乗り、一つ先の水道橋すいどうばし駅で下車すると、大勢の客が一斉に階段を上がっていった。

 地上に出ると、あおいはミーツポートや東京ドームホテルの前を急ぎ足で歩いていった。道中、若い人達の明るく弾むような声が聞こえてくるものの、見た限りではあおいと同じくらいの年代の男女が多かった。 目の前に大きく白い東京ドームの屋根が見えた所で、スマートフォンが激しく振動した。


「もしもし……え、もう着いたの? 約束よりまだ早いじゃない? 予定時間より早く着くのは当然じゃないかって? もう、そういうきちんしたところは本当に昔から尊敬しちゃうな。とにかく、近くまで来てるからもうちょっと待って!」


 あおいは人混みを搔き分けて早足で駆け出した。


「えーと、黄色いビル、黄色いビルは……あそこだ!」


 あおいは真正面に見えた黄色い壁面のビルを指さした。

 しかしそこには、待ち合わせと思しき大勢の人たちが入り口を取り囲んでおり、誰が誰だか一見しただけで見分けがつかなかった。

 その時突然、真後ろから誰かが近づき、両手を広げてあおいの視界を遮った。


「だーれだ?」


 聞き覚えのある声……あおいは苦笑いしながら、迷うことなく答えた。


美智奈みちなでしょ?」

「せーいかーい! 声だけで分かったんだ? さすがは大親友!」


 視界が広がると、目の前には茶褐色の長い髪をなびかせる藤村美智奈ふじむらみちなの姿があった。


「久しぶりだね、あおい。三年前にせっかく転勤で仙台に帰ってきたと思ったのに、すぐ東京にもどっちゃうんだもん。寂しかったよ、ホント」

「アハハハ、そうだね。久しぶりに実家に戻れて美智奈にも会えたのに、すぐに本社に帰って来いだなんて、本当に勝手気ままだなんだよね、うちの会社って」


 美智奈はあおいが小学生の頃からの親友で、今は仙台市内で学習塾を経営している。

 今日は彼女が昔からのファンだというミュージシャンのライブがあるため、再会がてらあおいも一緒に観ることになった。

 トレンチコートの下にタートルネックのセーターとデニムのロングパンツを着こなす彼女は、同じ歳と思えない程スタイルが良く、羨望の眼差しを向けた。


「相変わらずカッコいいね、美智奈は」

「え? そうかなあ? 私から見たらあおいもカッコいいよ。高価そうな服を着て、都会のキャリアウーマンという感じでさ。私なんか地方住みでしかも自営業だし、おしゃれなんか全然気にしなくなっちゃったよ」


 美智奈は謙遜していたが、着ている服がどんなにチープでも着こなしは完璧に見えた。


「あと十分で開演だよ。早く行かないと間に合わなくなるよ」


 美智奈はサラサラの長い髪をなびかせ、早足で颯爽と歩き始めた。

 彼女は高校時代、美人なうえ運動も勉強もソツなくこなす「ミス・パーフェクト」と言われていた。今の彼女も、歳を重ねたとは言えその頃と雰囲気はほとんど変わっていなかった。


 二人はチケットを手に階段を昇り、ようやくたどり着いた座席は、スタンド席とは言えステージを真横から見下ろすかのような場所にあった。


「すごい、ちょうど真横にステージがあるみたい。ここからバックネットを越えて飛び降りたら、そのままステージにたどり着けそうだね」

「ちょっと、きついジョークはやめてよっ」


 二人はコートを脱ぐと、美智奈から渡されたツアーグッズの応援タオルを首に掛け、ライブが始まる時をずっと待ち続けた。

 美智奈の横顔は凛としていて、俳優の深津絵里のようなきりっとした目と眉毛が、同性であるあおいから見ても胸が高鳴るほど、惹き寄せられるものがあった。


「ねえ、美智奈」

「え? どうしたの、急に」

「私にとってはあこがれだよ、昔も今も……」


 美智奈はあおいの言葉を聞き、いまいち合点が行かないような様子で顔をしかめていたが、その時急に客電が落ち、体中に響き渡るほど激しいドラムの音が響き渡ると、場内が一斉にどよめいた。


「ほら、始まったよあおい! あっ、二人がステージに出てきたよ! すごーい! こんな近い所にいるなんて、夢みたい!」


 美智奈は口に手をあて、興奮気味に語り出した。

 ステージ上には、細身で長身のボーカリストとサングラスをかけたギタリストが片手を振りながら登場し、場内のボルテージは最高潮に達していた。

 美智奈は、高校時代からこのユニットのファンである。二人が場内に向かって手を振ると、普段はクールな彼女から想像がつかないほど激しく、隣に立つあおいは思わず耳に手を当ててしまった。


「すごい、この席、アリーナじゃないけれど最高じゃない!?」


 美智奈は歌に合わせて口ずさみ、飛び跳ね、タオルを振り回した。

 ステージ上の二人はともに御年六十歳を過ぎているが、ボーカリストは激しくシャウトしながらステージを縦横無尽に駆け巡り、ギタリストはボーカリストを引き立てながら円熟味のあるいぶし銀の演奏を続けていた。

 二人のデビュー当時の若かった頃を知るあおいは、三十数年経っても変わらないエネルギッシュさにずっと圧倒されっぱなしだった。


 二時間近くに及ぶライブが終わると、美智奈は額の汗を何度もタオルで拭いながら、ライブの余韻に浸っていた。あおいは客席に飛んできた銀テープを手にしながら、美智奈の横顔を見つめていた。


「美智奈、ずーっと楽しそうだったね」

「え? あおいは楽しくなかったの?」

「そ、そう言う意味じゃないけど」

「あの二人、私にとってずっとあこがれなんだ」

「美智奈、高校の頃にはもうファンだったものね。あの頃はまだそれほど知名度が高くなかったけど」

「あれからもう三十五年経つんだよ? すごくない? もう六十歳過ぎて気力も体力も落ちてるはずなのに、こうやってステージに立ち続けていくのって尊敬しちゃう。ステージを見るたびに、私もまだまだやれる、頑張れるって思うもんね」


 美智奈は早口で捲し立てるかのように話していた。


「さ、帰ろうか。あおい、明日も仕事なんでしょ? 私も明日の夜は授業があるから、朝早い便の新幹線で帰るつもりだよ」

「う、うん」


 二人は客席を立ち、通路に出ると、後ろからくる観客に押されるかのように外へと出ていった。水道橋駅の構内にたどり着くと、美智奈はしばらく身動きしないまま、自動改札の前で立ち尽くしていた。


「どうしたの?」

「帰ろうと思ったけど、このままお別れするのはちょっと名残惜しいかな、と思って」

「私もそう思った」

「じゃあ、ちょっと何か食べてから帰る?」

「うん」


 二人は頷きあうと、地下鉄に乗って一駅戻り、あおいの会社がある神保町へ向かった。

 最近あおいがお気に入りのカレー屋「ボンディ」で、二人はビーフカレーを食べながらグラスワインを傾け合った。


「美味しいね、ここ。ルーが適度に甘みがあって。それに、付け合わせにじゃがいも丸ごと一つ使うなんてすごい」

「神保町はカレー屋さんが多いけど、今のところ、ここが一番のお気に入りかな」


 二人ともライブの後でお腹が空いていたせいか、しばらくの間は黙々と食べ続けていた。やがて先に食べ終えた美智奈が、グラスワインを手にしながら口を開いた。


「そういえばさ、ライブ始まる前に、『私にあこがれてる』って言わなかった?」


 美智奈の言葉を聞き、あおいはスプーンを動かす手を止めた。


「うん……言ったよ」

「そうか」

「だって、高校時代のあだ名が『ミス・パーフェクト』なんだもん。今も昔と全然変わらないし」


 あおいがそう言って笑うと、美智奈は表情をしかめながらグラスワインを口に少しずつ流し込み、ふうと音を立てて気持ちを落ち着かせていた。


「それは、私にとっても同じだよ。あおいには、私に無いものが沢山あるから」

「え? 『ミス・パーフェクト』が、こんな出来損ないの私に憧れてるの?」

「うん。あおいは色々挫折経験があるから、多少のトラブルでも動じないでしょ? そして何といっても、文美音ちゃんのママとして仕事と家のことを両立させているし。そういうあおいのたくましさが、私から見てすごくカッコいいと思うんだけど」

「それって、別にあこがれられるようなものじゃないけど」


 あおいは美智奈の言葉にどこか納得のいかない様子で、グラスワインに口を付けていた。

 その時、店員が申し訳なさそうな表情でテーブルに近づいてきた。


「あの、そろそろ閉店なので……」

「あら、ごめんなさいね。じゃあ、そろそろお別れかな?」

「うん」

「今度また逢おうよ。近々、横浜で友達の朱里しゅりがまたライブやるんだって。その時は、またこっちに来ようと思うの」

「朱里、すごいよね。五十歳過ぎてもライブハウスで歌い続けてるし」

雪枝ゆきえも誘おうかな。子育て終わって、自由に人生を楽しんでるみたいだし」

「いいなあ……私はあと数年先かな」


 二人は席を立つと、精算を済ませ、階段を下りていった。

 店のすぐ近くに、地下鉄神保町駅へと向かう入り口があった。

 腕時計の針は十時を差し、靖国通りを歩く人の数もまばらになっていた。


「じゃあね。私は一泊して明日朝には仙台に帰るから。あおいはちゃんと帰って、娘さんの傍にいてあげて」

「うん……ホントはもっといっぱい話したいことがあるけどさ」

「がんばってね、仕事も家庭も大事にしている『ミセス・パーフェクト』さん」

「え?」


 美智奈は片目を閉じてウインクすると、手を振りながら颯爽と地下鉄の駅へと続く階段を下りていった。

 あおいは歩道を吹き抜ける風にあおられながら、その場に呆然と立ち尽くしていた。


「『ミセス・パーフェクト』か……」


 あおいは鼻でフフッと音を立てて笑うと、ポケットからスマートフォンを取り出した。


「もしもし……あ、文美音、まだ起きてたの? ごめん、今日も遅くなっちゃって。今すぐ帰るね。うん、帰ったら洗濯するし、明日のお弁当の準備もするから。文美音も早く寝るんだよ」


 あおいはスマートフォンを仕舞うと「パーフェクトの名に恥じないように、早く帰らなくちゃ」とつぶやき、白い息を吐きながら街灯の灯る靖国通りを足早に歩き始めた。

(了)

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