失翼のピアニスト

伊藤沃雪

失翼のピアニスト

 僕は玲奈ちゃんの元カレだ。

 だから、もう何度も書いたり消したり、修正を繰り返しているメッセージを全部消して、送るのを我慢する。

 辛いからって優しい彼女に頼るなんて自分勝手すぎる。「別れてほしい」ってお願いしたのは僕なんだから。

 

 ずっと夢見ていたウィーンのピアノ留学は、想像以上に厳しいものだった。

 化け物みたいな秀才達と競って一日何時間もピアノを弾きまくり、少しでも油断すると下手くそと罵られ。もっと弾けるはずだろうと尻を叩かれ続け、気を落とす暇もない。

 家に戻って倒れるように眠る日々。時々無性に日本や親しい人達が恋しくなって、でも甘えてはいけないと自分を叱咤する。世界一のピアニストになるまでは、後ろを振り向かないと決めたんだ。

 がむしゃらにピアノを学び、お金が無くなってからもアルバイトをして修行を続けた。長年あっちに居たので語学もすっかり身についたけど、それだけだった。

 僕には才能が無かった。十年という歳月を要しても、結局、世界一どころかコンクールの予選もろくに通らなかった。

 身に染みて分かった。彼女が言ってくれていたような天才じゃなかったんだ。

 僕は、凡人だ。

 


 夢破れて、僕は歳をとっただけで無様に日本へと帰国した。

 この先どうするか、仕事があるかなどは一切決めていない。全部が仕切り直しだ。

 出国する前にずっと放置していたSNSアカウントで日本へ帰る旨を書いたが、いいねやリポストは何も付かなかった。十年も経てば、みんなそれぞれ忙しくしているのだろう。

 キャリーケースをガラガラと引きながら、全面ガラスの一劃で懐かしい日本の風景を眺める。十年前、ここで玲奈ちゃんと「さよなら」をしたのを思い出す。 素敵な女性で、僕の演奏をよく褒めてくれたけど、僕は彼女も、彼女の奏でるピアノも愛していた。何物にも縛られず、誇り高い響きがあった。


 そんなことをぼんやり考えていると、声をかけられた。

「おかえり」

 聞き覚えのある声だった。慌てて振り向いた先に、可愛さでなく美しさを備えて、恋焦がれた女性がいた。

「……玲奈ちゃん? な、なんでここに」

「久しぶりだね!」

 玲奈ちゃん……僕の元カノはそう言ってにんまり笑った。その笑い方は小学生の頃からずっと変わってなく、ほっとする。

 とはいえ、十年ぶりに帰国したこのタイミングで運良く出くわすなんて、考えられない。何らかの理由で僕に会いに来たということだろう。


「実は、ちょっと困っててね」

「困ってる?」

「うん。私いま、ピアノ教室の先生をしてるんだ。だけど意外に繁盛しちゃって! もう一人先生が必要なの。大学の友達なんかもちょうど子育てシーズンで、人手が足りなくてさ」

 そこまで話して、玲奈ちゃんはにやりと含み笑いを浮かべた。

「ウィーン帰りの、私の天才ピアニストが居てくれたら、すっごく助かるなあって! どうかな? 元カレくん!」

 僕は呆気にとられて言葉を失った。

 こんな、何もできずにむざむざ逃げ帰った男を、君は今でも天才と呼んでくれる。そして、僕に唯一残されたピアノを、求めてくれている。

「……ありがとう。僕でいいなら、手伝うよ。何でもする。だって君は――」

 僕の大切な人だから。

 君がそう言ってくれるなら、僕は鍵盤を叩いて、もう一度高く翔べる気がするから。


 僕らは窓から離れて、空港内の通路へと戻る。この十年間にあった語り尽くせないほどの出来事を話しながら、笑い合って、二人揃って歩みはじめた。

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失翼のピアニスト 伊藤沃雪 @yousetsu

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