穂関優翔の結末

2016

黒い瞳の女神

 楽指市にあるマンションの七階に、穂関優翔が暮らす部屋がある。

 火倉大介による襲撃、および顔面にかけられた劇薬で負った傷の治療の為に入院していた優翔は、退院と同時に浜ヶ崎京香との生活を始めた。楽指市が賑わっていた頃に優翔の父が建てた若い夫婦向けマンションの一室だ。家計は、優翔が指揮者時代に稼いだ金と、二人の母校である桜紙成音楽大学で講師をしている京香の給料で賄った。

 優翔は昔の仲間のつてで、演奏会のプログラムに載せる解説や新譜の評論、そして一般向けのクラシック紹介記事などを書く仕事を得た。書籍にまとめたものも何冊か出版されている。優翔の書く文章は分かりやすくてユーモアがあり音楽の楽しさを教えてくれると評判になり、徐々にだが人気を獲得していった。

 両手がほとんど動かせない不自由な体でパソコンのキーボードを打つのは決して楽ではなかったが、社会との接点を持てているという実感は毎日を充実したものにしていた。

 やがて子供が生まれた。颯翔そうと玲香れいかと名づけた。一歳違いの兄妹けいまいは、音楽、特にクラシックに強い興味を示した。スピーカーに真剣な表情を向ける我が子を見るのが、夫婦にとって一番の楽しみになった。

 だが、三歳と二歳になった子供たちと手を繋いで歩いていた京香の所へ暴走車が突っ込んで来て、三人を撥ね飛ばした。即死だった。しかも運転していたのは優翔の伯父の音羽直也だった。スマホのゲームにレアなモンスターが出てそちらに気を取られていた、と直也は供述した。

 かけがえのない家族をすべて失った上に、音楽の素晴らしさを教えてくれた恩人が人殺しになってしまった。また一人ぼっちになった優翔は悲嘆に暮れた。いや、そんな生やさしいものではない。優翔はすべての音楽活動を停止した。そればかりか、生命を維持する為の最低限の行動すらとらなくなった。ただベッドで横になり、ぼんやりと天井を見つめている。

 絶望を通り過ぎた諦めは、生温かくて優しくて、心地よかった。僕はここでこのまま死を待つのか。京香や子供たちの笑い声に包まれて暮らした、この部屋で、このまま……。

 おじゃまします、という声と共に、何もなかったはずの空間に人の形をした光が浮かび上がった。

「おや、珍しいお客さんだ」優翔はしわがれた声を絞り出した。「ご用件はなんですか、女神さま」

 優雅なウェーブのかかった水色の長い髪を揺らし、紅い瞳に柔らかな光を湛えた女神アトリプスがベッドの傍に静かに立った。布団にくるまれたまま動かない優翔を見下ろしている。

「用がなければ会いに来ちゃいけないの? けっこう長い付き合いなのに」

「今度こそ、僕にはもう選ぶべき未来がない。ヴェーレなんとかは無意味だ」

 女神アトリプスは寂しそうな目で優翔を見つめながら、再び光に包まれた。入れ替わりに人間の女が現われた。鮮やかな深紅のフレアドレスに身を包んでいる。髪は艶やかに黒いセミロングだ。しっとりと濡れた瞳は……黒い。碧かったはずなのに。唇には微かな笑みが浮かんでいた。

「君は……絵莉朱じゃないか。絵莉朱・フォーゲル=守択。トラウムシュタット指揮者コンクール最終選考の翌朝に姿を消して以来だな。それ以外にも、何度か姿を見かけたような気がするが」

「よく覚えててくれたね、お兄ちゃん。でも、それは私の本名じゃないの」

「お兄ちゃん? 僕に妹はいない」

「親友の妹である事に気づかずに、あの夜、あなたは私と」

 優翔は眉を寄せて絵莉朱を凝視した。でも、誰なのか分からない。

「しょうがないわね」女は小さく笑いながら自分を指さした。「陽葵です。大介お兄ちゃんに纏わり付いていたでしょ? 小さい頃、よく一緒に遊んだじゃない、優翔お兄ちゃん」

 陽葵? 優翔は記憶を探った。グレイ大介の妹だ、と気づいた。グレイ大介と一緒にいるところを最後に見たのは、たしか陽葵が十歳の時だ。楽指平野を見下ろす、小高い丘の上で。

 指揮者コンクールは、それから十年が経過していた。陽葵は二十歳になっていたはずだ。女が最もダイナミックに変貌を遂げる、十代という輝かしい季節を越えて再会したという事になる。それなりの化粧をして身なりを整えていれば、気づかない可能性は高い。

 優翔の二つ下だから、現在、三十か三十一だ。だが、ゲルヒェヴェーツェンでの出会いのときから少しの衰えも見せないばかりか、さらに女としての魅力を増しているように思えた。

「ちょっと待て。君はさっき、アトリプスだった。今の姿はマスカラーデによるものじゃないのか」

「そうじゃない。これが、本来の私」

「まったく話が見えないんだが」

「ついさっきまで私はアトリプスだった。でも、今はもう、違う」

「ナゾナゾはやめてくれないか」

 陽葵はゆっくりと頷いて、昔話のように語り始めた。

「黒渡川の北の端、つまり、楽指平野に流れ込むあたりに洞窟があるのは知ってるでしょ? ある時、優翔お兄ちゃんと勝高お兄ちゃん、そして大介お兄ちゃんが、禁じられているのに強引に柵を外して中に入った。お兄ちゃんたちが六歳の時だった」

「ああ、覚えてるよ。ずいぶん奥深い洞窟だった。危うく迷うところだった」

「その時、もう一人いたのを覚えてる?」

「……たしか陽葵ちゃんが大介にくっついて来てたと思うけど。四歳だったよね?」

「そう。でも私はお兄ちゃんたちからはぐれた」

「思い出したよ。僕らはめちゃくちゃ焦った。禁を破って洞窟に侵入した上に幼い女の子を迷子にさせてしまったんだからね。必死に探したけど見つけられなかった。懐中電灯が暗くなってきて仕方なく洞窟を出た。最悪の結末を覚悟した。だから大人の手を借りるしかないと思って、一番近かったグレイ大介の家に走って行った。そんな僕らを、他でもない陽葵ちゃんが出迎えた時は、ほっとした」

「洞窟内で一人になってしまった私は、大介お兄ちゃんから渡されていた小さなペンライトだけを頼りに闇雲に歩き回った。じっとしているのが怖かったから。やがて電池が尽きて闇に飲み込まれようとした時、祠を見つけた」

「あの奥にそんなものがあったのか」

「何かを封じ込めるかのように、お札のようなものが観音開きの扉の中央に貼りつけてあった。かなり茶色く変色していたけど、そこには朱色の文字で紅瞳流不死、と書かれていた」

「漢字なのに読めたのか。四歳だろ? しかも暗闇で」

「読んだと言うより、心にすーっと染みてきた。不思議な感じがした。私は、封印のお札を摘まんで剥がした。なぜそんな事をしようと思ったのかは覚えていないけど」

「罰当たりな事をするね」

「そうね。実際、罰が当たったのかもしれない」陽葵は自嘲的に呟いた。「白木の扉を開くと、鏡餅のように石が積み上げてあった。それが紅瞳流不死の御神体だった。私は何かに引き寄せられるように左手を伸ばして、石にそっと触れた」

「いよいよ罰当たりだ」

「その瞬間、私の中に紅瞳流不死の魂、とでも言えばいいのかな、が入って来るのを感じた。私は紅瞳流不死の力を得た。それと同時に、遠い遠い記憶の断片と知識を授かった。私は紅瞳流不死という名の女神の真実を知った」

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