激辛プリン
顔全体が焼けただれて右目は失明。癒着してしまった顎と首筋は数回の手術でなんとか分離できたものの、動くたびに激しい痛みに襲われた。
傷が癒えるのをじっと待つだけの毎日を優翔は過ごしている。痛みがなくなったからといって、失われた機能はもう戻って来ないけれど。
2012年に世界が滅びるという予言があった。優翔にとっては的中したと言ってもいい状況かもしれない。マヤ暦と優翔はなんの関係もないが。
ノックの音が聞えた。失礼します、の声と共に看護師が病室に入ってきた。
「なにしに来たんだ、コスプレ女神」
「夜の検診の時間です、って……なぜ私だと分かったの?」
「もうパターンは読めた。どうせなら全裸で来いよ。そのぐらいとんでもない方が騙せるぞ」「君が望むなら、今すぐここで全部脱いであげてもいいんだからね」
アトリプスは頬を染めて俯き、上目遣いに優翔を見つめた。
「ツンが既にデレってるじゃないか。意味不明な事はやめろ」
「そんなに邪険にしなくてもいいじゃない。他の看護師とは普通に話すくせに」
「看護師とはな。でも、お前は看護師じゃない。女神だ」
「看護師を女神のようだ、と言う人もいるよ」
「女神を看護師のようだ、とは言わない」
アトリプスは、口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「ちょっと安心したわ」
「何が」
「口は達者なままだから」
「そうでもないさ。皮膚がひきつって以前のように軽やかにとはいかない」
しばし口を閉ざして、アトリプスは優翔を見つめた。
「……寂しそうね」
「一人ぼっちだからな。女たちは僕の見た目や才能に魅力を感じて群がって来た。それだけだ。誰も僕自身を愛してなんかいなかった。だから、みんな去って行った」
「それじゃあ、君は誰かを愛した事があるの?」
包帯の隙間から覗く片目だけになった視線を、優翔はアトリプスに向けた。
「僕が? そんな必要はない。女はいくらでも寄って来た」
「そうじゃなくて。心から誰かを愛おしいと感じた事はないの?」
優翔は俯いたまま、絞り出すように言葉を発した。
「あるさ。でも、自分のときめきに気づいた時にはもう、手の届かない所に行ってしまったあとだった。お前は知ってるじゃないか」
「音羽莉子ね。そして君自身は気づいていないかもしれないけど、お母さんが亡くなった時にずっと傍にいてくれた伯母さんに対しても、恋とは違うけど安らぎを感じていた」
「そして、二人とも不審な死を遂げた。今さらそんな話をしてなんになる」
「過去は変えられない。でも、未来は選べる」
「女神さまお得意のやつだな。だけど僕はもう、こんな姿になってしまった。指揮もできない。誰にも相手にされないさ。何を選べと言うんだ」
「やっぱり君は分かってない」アトリプスは、一つ息をついた。「女が見た目や能力だけで男を選ぶわけないでしょ?」
「他に何がある」
「ハイスペックな男女だけがパートナーを得られるのなら、人類はとっくに絶滅してる」
「モテない男と女が妥協して結びつく、と言いたいのか」
「人間の魅力は、単純な数値の高低で表せるものではないでしょ? 感じ合うものがあるから、一緒にいたいと願うんじゃないかな」
感じ合う……。
「自分で分かってるでしょ。さあ選びなさい、穂関優翔」
――ヴェーレ・ダイネ・ツークンフト――
運命を告げる合図のごとく、ドアをノックする音が三回、聞こえた。
細く開かれたドアの隙間から、静かだけれど迷いのない覚悟を感じさせる声が病室に響いた。
優翔くん、入るよ。
浜ヶ崎京香は優翔を見つめながら、ゆっくりとした足取りでベッドに近づいて来た。慣れた様子でパイプ椅子を広げて腰を下ろす。いつの間にかアトリプスは姿を消していた。
具合はどう?
京香は毎日、見舞いに来る。優翔の傍に座り、なんの話をするでもなく、しばらくすると帰っていく。それがこの病室でのあたりまえの風景になっていた。だが、優翔が京香に声をかける事はない。それでも京香はその翌日も、またその翌日も、ただ優翔の近くにいる為だけに通って来る。
今も優翔は、京香の方に視線を向ける事すらしない。でも。
「もうすぐ退院できます」
辛うじて視力の残っている左目だけで天井を見つめたまま、優翔は呟くように言った。
京香は目を見開いた。退院できる事に対して驚いたのではない。自分に向けて優翔から言葉が発せられたからだ。
「優翔くん……」
優翔はようやく、ほとんどの部分を包帯で隠された顔を京香の方に向けた。
「京香さん、なんで見舞いに来てくれるんですか。みんな僕の事なんかとっくに忘れてしまったのに」
換気の為に少しだけ開かれた窓の向こうから、夜に活動するのが得意な鳥の声が遠く聞えてきた。森を越えた先には、二人が学んだ桜紙成音楽大学のキャンパスが広がっている。
「あの日」京香は噛みしめるようにゆっくりと語り始めた。「男子トイレで遭遇した日から、私たちは付き合い始めた。それなのに、それだから? 優翔くんが他の女の子と楽しそうに笑っているところを見るたびに心が激しく悲鳴を上げた。でも、恋愛経験が多ければ多いほど、きっと優翔くんの音楽は豊かなものになる。そう考えて、じっと堪えた」
「僕はその事に気づいていた。だけど、自分の欲望を優先した」
「優翔くんが一人ぼっちになった今なら。今なら君を独占できる。そんなずるい考えがなかったとは言わない。だけど。私の気持ちはあの日あの時から何も変わってはいない。それもまた事実なの。だから私は、ただ優翔くんに会いたくてここに通った。迷惑かもしれないけど、少しの間だけ傍にいさせて欲しい」
「僕はこんな状態なのに?」
「君が優れた指揮者で見た目がイケてるからじゃない。優翔くんが優翔くんである限り、私は……」
京香は言葉が続かなくて、唇を噛んだ。
優翔は京香が落ち着くのを静かに待った。
「私の母が死んだ時、なにも言わないでずっと傍にいてくれたよね。君は女遊びの激しい、いい加減な男に見えるけど……」
「その通りですよ」
「本当はとても誠実で優しい人だと私は知っている」
ずっと耐え忍んでいた思いが溢れ出したかのように、京香は語り続けた。
「君は覚えていないかもしれないけど。なにかの話の流れで、ゾロモフの激辛プレミアム生焼けプリンいちご味が好きだ、って言ったら、優翔くん、私の誕生日に買って来てくれた。開店から五分もしないうちに売り切れる事もある人気商品だから、入手は簡単ではなかったはずなのに」
「プリン一つで恋に落ちた、とでも? 食いしん坊ですか」
「大事なのはそこじゃない。私の言った事をちゃんと覚えていてくれた。そう思うと、心が熱くなった。だから……」
「たったそれだけの事で」
「そう、たったそれだけ。優翔くんにとっては、他のたくさんの女の子にしていたのと同様の、男の欲求を満たす為のただの営業活動だったのかもしれない」
「たぶん、そうですよ」
優翔は天井を見つめて自虐的に呟いた。
「でも私は……涙が出るほど幸せな気分になれた」その時の感情を思い出すかのように、京香は胸に手を当てて目を閉じた。瞼の隙間から一筋の涙が滲み出て頬を流れ、優翔の寝ている布団に小さな染みを広げた。「私ね、気が強いと思われてるじゃない?」
「そうですね」
「こら、少しは否定しなさいよ」
「すみません」
「いいの」京香は少しだけ笑った。「だからね、自分で何でもできる女だと思われて、男の子に何かしてもらった事がなかった。それなのに君は、私の好きなものを覚えていてくれた。女として見てくれた。それで、十分だった」
「チョロい人ですね」
「そう、チョロいの。チョロイン、とか言うんだっけ? 君の事が忘れられなくなっちゃった。そんな時に男子トイレで君を見かけた。気づけば誘い出していた」
「あの日、あの場所で、僕は自分から付き合って下さいと言った。それなのに他の女の子たちといっぱい遊んだし、指揮者コンクールで優勝した頃からは、忙しさにかまけて京香さんを放置した。そして、このざまです」
「その
「僕はあなたに何もしてあげられそうにありませんよ」
「なにかしてもらいたいわけじゃないの」京香は口元に笑みを浮かべて首を振った。「いつか話してくれたよね。亡くなった従姉の莉子さんの事が、今も心のどこかにこびりついて消えそうにない、と。私では莉子さんの代わりは務まらない。務めるつもりもない。私はただ私として、あなたの傍にいたい。それだけよ」
窓の外に冷たい風が吹いている。激しい雨の日もあった。そんな中、京香はどんな思いで優翔のもとに通い続けたのだろう。
「京香さん」優翔は京香の方に顔を向けた。「僕が自宅に帰ってからも会いに来てくれますか」
優翔はぐるぐる巻きの包帯の隙間から、祈るような目で京香を見つめた。
「優翔くんが迷惑でないなら。いいえ、たとえ嫌がられても私は会いに行く」
包帯の下に隠された、動かないはずの優翔の頬が微かに笑いの形になろうとした。
「あなたこそが女神かもしれない」
「なによ、それ」
「待っています。あなたが来てくれるのを」
京香は優翔を見つめ返しながら、一つ息をついた。
「いつになったらその敬語をやめてくれるのだ、少年」
「……たった今からだよ、京香」
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