忘れられた顔

 優翔が入院している病室に勝高が見舞いに来た。

 隣に立っている若い女性に持ってきた花束を渡して、活けてくれ、と告げた。勝高は権堂正宗の公設第一秘書だ。連れの女はおそらく事務所の後輩だろう。深く頭を下げて出ていった。二人きりになった。

「さっき、拘置所にいるグレイ大介と面会してきた」

 勝高は静かな声で優翔に語りかけた。

「元気そうだったか」

 電動ベッドで上半身を軽く起こした状態の優翔が尋ねた。

「お前を殺そうとした男だぞ?」

「あいつは僕を殺そうとなんかしてないさ」

「バカを言うな、そのせいでお前は……」

 布団に隠された優翔の体を意識したのか、勝高は言葉を飲み込んだ。

 ナイフで刺された右腕は神経を切断されて肘から先が動かない。倒れて肩を強打した左腕からは感覚が失われていた。そこに腕が存在するかどうかすら感じ取る事ができない状態だ。いずれも回復の見込みはない。

「指揮者は、あらゆる手段を用いて演奏者に意図を伝達する」

「なんの話だ」

「まあ聞けよ、ジーク勝高。指揮棒はもちろん、顔の向きや眉の動き、視線の移動、そしてちょっした体の傾きにだって意味がある。息を吸い込む事で発音のタイミングを示すのは僕らの間では常識だ。演奏を注意深く聴いてみれば分かるけど、ここぞ、という所で指揮者が息を吸う音が聞える事がよくある。利用できるものは何でも使ってオーケストラと対話するんだ。だから分かる。グレイ大介の動きは僕の急所を狙ってはいなかった」

 得意分野に関する優翔の饒舌は健在だ。

「俺には理解不能だな」

 勝高は息を吐いて首を振った。

グレイ大介が本気じゃなかったと言う根拠はもう一つある」

「何だ」

「あいつのパワーは知ってるだろ? 中学の時、子犬を轢きそうになった軽トラックに横から体当たりしたのは覚えてるか」

「ああ。車輪が片側浮いて横転しかかってたな。既に停車していたから、意味の無い行為だったけど」

「大人になった今なら、あんなもんじゃないぞ。あの巨体で全力で突進されたら、僕は子犬のようにふっ飛んだに違いない」

「言われてみればそうだな。お前は飛ばされはしたが数メートルだ。たぶん、俺でもやれる。でも、なんでそんな中途半端な事になったんだ? 襲撃するからには必殺の気合いで事に臨むはずなのに」

 優翔はゆっくりと頷いた。

「なあジーク勝高。あの時、女の叫び声が聞えたのを覚えているか?」

「大介さん、だめ、か」

「そうだ。その瞬間、グレイ大介の動きに迷いが見えた。おそらくそれが原因の一つだろうな」

 勝高はなぜか目を伏せた。

「なるほど。無関係ではなさそうに思える」

「ところで。なんで見舞いに来てくれたんだ。僕はお前の手の中で踊らされる駒なんだろ?」

 優翔はとぼけたように眉を上げた。

「楽指市を新しい町に転生させて莫大な利権を手に入れる。その為の起爆剤として俺が選んだのが、イェーガー優翔、お前だ。世界的に実力を認められ、今最も注目されている新進気鋭の若きマイスター。音楽ファンはもちろん、見た目の良さから若い女性からも絶大な人気を誇る。なおかつ楽指市の出身だ。LRKの集客マシンとしてお前ほどの適任者は他にいない」

「たしかにそうだな。その用途に、僕はみごとに合致している」

「族の襲撃から生き残った悲劇のヒーローが故郷の町にできた新しいホールのオープニングの演奏をやり遂げた。そんなストーリーで世間の耳目を集めるつもりだったんだ」

「ちょっと待て。それだと、僕が襲撃されるのを、お前は知っていた事になるぞ」

「ああ、知っていたさ。ある筋から事前に情報を得ていた。だが誤算が生じた。お前がグレイ大介に駆け寄ったせいで警備のタイミングが想定から大きくずれた。その結果、お前は……。もう、指揮者は続けられないんだろう?」

「責任を感じているのか」

「あいかわらず甘いやつだな、イェーガー優翔。俺がそんな理由で動くと思うか? 楽指市で金儲けをする為に、なんとかお前を利用する手段はないかと探りに来ただけだ」

ジーク勝高」優翔は口元に笑みを浮かべながら勝高の目を覗き込んだ。「僕はお前を幼稚園の頃から知ってる」

「だから何だ」

 二人はしばし見つめあった。

「……グレイ大介の様子を教えてくれよ」

 優翔が問うと、勝高は肩の力を抜いて話し始めた。

グレイ大介の奴、何を話しかけても、まるで大仏にでもなったみたいに動かないんだ。アクリル板の向こうでパイプ椅子に座ったまま身じろぎもしない。でも、リサの事は心配いらない、と言ったら、僅かに視線を揺らした。あいつが反応したのはそれだけだった」

「リサ? 誰だ、それは」

「お前が襲われた時に叫んだ女だよ」

「何者なんだ」

グレイ大介の年の離れた妹、とでもとしておこうか。実の妹の陽葵とは別の人物だ。ちょっと事情があって、守ってやらなくてはならない」

「僕が襲われた時のように警察を使ってか? 政治家秘書のお前にそんな力が?」

「あるんだよ。俺が秘書として仕えている権堂正宗は警察に顔が利く」

「政治家が警察を手下のように動かす事なんかできるのか?」

「裏側の事情だ。細かいところは気にするな」勝高は少し躊躇する様子を見せてから顔を上げた。「……ついでだから教えてやる。権堂は外交筋でも太いパイプを持っている」

「それって、まさか……」

 APHが突然、契約を白紙撤回してきたのは権堂が裏で動いたという事か。優翔をLRKの音楽監督に就任させる為に。

 勝高は窓に歩み寄って外を眺めた。早くも白いものの混じり始めた髪を風が揺らした。

イェーガー優翔。俺はこのあと逮捕される」

 独り言のように勝高は呟いた。

「楽指市の転生計画にまつわる不正の件だな。ニュースで見たよ。権堂も捕まるのか?」

「いや、俺だけだ」

「なぜだ、お前が主犯じゃないんだろ?」

「警察や世間が求めるのは犯人だ。真犯人じゃない」

 やむを得ない事情があるようだ。優翔は話題を変えた。

「なあジーク勝高、なんで楽指市にコンサートホールを作ろうと思ったんだ?」

「金儲けに決まってるじゃないか」

「いや、それだけだとは思えないんだが」

 窓の外を見ていた勝高が俯いた。

「……もう一度、見たかったのかもしれないな。俺たちが子供だった頃のように、あの町に賑わいが溢れるところを」振り返った勝高の目には、温かな光が灯っていた。「覚えてるか、イェーガー優翔。夏祭りの夜を」

「もちろんだ。心躍らせてみんなと笑い合った記憶は、たとえ町が落ちぶれても永遠に生き続けるさ」

「俺とお前。そしてできればグレイ大介の力も合わせて、これから楽指市で生まれて来る子供たちにもそんな思い出を作らせてやりたいな」

 勝高が去ったあと、花瓶を持った女が一人で病室に戻って来た。花は入っていない。優翔は違和感を覚えた。

「災難でしたね」

 優翔を思いやるように優しく微笑みながら、女は語りかけてきた。

「たしかに、もう指揮はできないかもしれない。でも音楽を諦めるつもりはありませんよ。僕にはまだできる事がある」

「早く元気になって下さいね」

「ありがとう」

「そうでないと、あなたが苦しむところを見られないから」

 ふいに、女の顔から表情が消えた。

「……何を言ってるんだ」

 女の顔を改めて見た。甘えん坊を予感させるふっくらとした輪郭が、微かに記憶をくすぐる。

「あなたが卒業したあと、すっかり目が覚めた私たちは様々な可能性を模索した。あらゆる手段で連絡を取りあって仲間を集めた。目的を遂行する為には、どんな事も厭わなかった。女の誇りを捨てた者もいる。その甲斐あって女神の協力を得た。私たちはようやく強力な武器を手に入れたの。戎谷勝高の懐に潜り込んで機会を狙った」

「女神? よく分からないが。僕に恨みがある、という事か?」

「LRKでは、あと一歩のところで熊男に先を越された。なんだかんだでずいぶん時間がかかってしまったけど、ついにその時が来た」

「話してくれ、僕が何をした? 君は誰だ」

「楽指第七中学校の吹奏楽部で一年後輩だった坂月悠麻、と言っても、私の顔なんか覚えてないわよね。そして私たちもあなたの顔を忘れる」

 悠麻が花瓶の中身をぶちまけた事に気づいた時には、既に灼熱の痛みが優翔の顔面を襲っていた。

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