初めての毒牙

「それにしても、同じトイレに同じ時間に入ってるなんて、凄い偶然ですね。千人以上の学生が在籍してるのに」

「これはもう、運命と言わざるを得ないであろうな」

 ――我が名はアトリプス 時の代理人にして運命を司る女神なり

 突然、頭の中にアトリプスに初めて会った時の言葉が閃いた。

 一瞬、目の前の京香はアトリプスがマスカラーデした姿ではないかと疑った。だが、そうではないとはっきり分かった。何の根拠もないのに、優翔にとっては間違いのない事実だった。

「苦労してはいるけど、男子にとって都合のいい面もあるんじゃないの?」

「ありませんよ」

「そうかな。需要と供給のバランスのせいなのか、よっぽど不潔とかでなければ男子はみんな彼女がいるよ? 優翔くんなんて男前だし優秀だから、なおさらモテるんだろうね」

「そうでもないですよ」

「そうなの?」京香は急に優翔から目を逸らした。「恋人……とかいるんでしょ?」

「いません」優翔は曇りのない笑顔で宣言した。「どうせなら、京香さんが彼女になって下さいよ」

 優翔は驚いた。なぜ自分はそんな事を言ったのだろう。誘うのはいつも女の子の方から。それが日常だった。それなのに、冗談めかしたとはいえ自分からアプローチするなんて。

「……いいよ」俯いたまま、京香はかすれた声で返事をした。「ていうか、それ本気なの? からかってない?」

「証拠が欲しいんですか」

 優翔は京香の髪をそっと撫でた。日当たりのよい所に座っているせいだろうか、手のひらに感じる京香はとても温かくて、陽だまりのような匂いがした。優しく引き寄せた。瞼を閉じて体の力を抜いた京香に、そっと唇を触れさせた。京香は熱い息を吐いて身を預けてきた。腕の中に、京香のたしかな重さを感じた。

「ねえ優翔くん。初めてだ、って言ったら、重いかな」

「何が初めてなんですか」

 拗ねたように唇の片方の端だけを歪めて、京香は優翔から体を離した。

「もう。私のファースト……言わせないで」

 桜大のプリンス、穂関優翔が、オーバースト浜ヶ崎京香の毒牙にかかった。そんな噂が学内を駆け巡った。

 物陰で涙する女子が大量発生した、というのはかなり誇張されているとしても、確実に変化は現われた。良い方に。

 優翔に対してなんとなくぎこちない態度を取っていた女子学生たちが、以前よりもフレンドリーに接してくれるようになったのだ。グッドルッキングで成績優秀な優翔の存在を変に意識してしまって、距離感を測りかねていたようだ。美し過ぎる女は敬遠される。あの感じだろうか。京香との関係が構築された事で一種の安心感が生まれたのかもしれない。

 それ以降、優翔の学生生活は、より充実した有意義なものとなった。だが、一つだけ気になる事があった。ときおり、何者かの視線を感じたのだ。女性から熱い視線を向けられるのはいつもの事だ。けれども、どちらかと言えば冷たい感触が、粘り着くように背中を撫でた。

 そうこうしているうちに優翔は大学四年生の夏を向かえた。四年に一度開催される、トラウムシュタット国際指揮者コンクールの季節がやってきた。

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