大佐殿、愛の勝利であります

「それにしても暑いな」

 京香はカットソーの胸元を摘まんで、パタパタと風を入れた。その勢いで、大質量の中身が揺れている。

「夏ですからね」

 目を逸らしながら優翔が言う。

「夏って、射殺できないのかな」

「物騒な事言わないで下さい」

「梅雨はもう過ぎたのに、この国の夏は、どうしてこうも纏わり付くのだ」

 纏わり付く。

 優翔はふいに、アトリプスを思い出した。数年に一度ぐらいの頻度でしか現れないが、毎回、強烈な印象を残していく。なぜ、僕に絡んで来るのだろう。

「ねえ君。今、女の事を考えてたよね」

 京香は妙に勘の鋭いところがあった。たいてい、少しズレているが。

「まあ、女と呼べるかどうか微妙なところなんですけど」

「なるほど、幼なじみか」京香は勝手な解釈をしたようだ。「まだ女と呼ぶには幼過ぎる頃から知っているせいで、そういう対象にはならない系というわけだ」

「そのようなものだと言えなくもないんですが。知り合ったのは僕が六歳の時だし」

「どんな子?」

 京香は目を輝かせて優翔の肩を掴み、身を寄せてきた。その時、心を優しく撫でられるような、むず痒い香りを京香から感じた。優翔は何とも言えない穏やかな気分になった。

「どんなって。女神です」

「女神のように清純で美しく、神々しいのだな」

「いや、ただの露出狂です。見た目は悪くないんですが。あと、変装して人を化かします」

面妖めんような。タヌキの化身か」

「ええ、そんな感じです」

「いつか」

 京香は急にトーンダウンして俯いた。

「え?」

「いつか紹介して欲しいな」

「なぜ?」

「なぜ、と言われても」京香は優翔から体を離して空を見上げた。「君の事を昔からよく知る人に会ってみたい。それだけだよ」

 よく分からないがまあいい。この人を理解する日が来るとは思えない。優翔は歩調を早めた。

「待ってよ、優翔くん」

 後ろから腕を掴まれた。素肌に触れた京香の手のひらは、意外なほどに柔らかくて冷んやりとしていた。なぜだろう、接触される事に何の抵抗も感じない。他の女の子だと煩わしいと思うのに。

「あそこですよね」

 女神の祠、という木の看板が見えた。書体が妙にメルヘンだ。妖精さんが出迎えてくれそうな雰囲気に、軽い目眩を覚えた。だが、木の自然な風合いを活かした美しい外装は悪くない。

 京香は店に入るなり階段を軋ませて二階席に駆け上がった。そして気合いの入った声で一番奥にあるテーブルに向かって叫んだ。

「マイネ・ダーメン! ディ・ツァイト・デス・ズィーゲス・デア・リーベ・イスト・ゲコメン!」 

 すると先に来ていた三人の女子学生たちが、ズィーゲス・デア・リーベ! と応えながら右の手のひらを左胸に当てて立ち上がった。全員で右足のパンプスの踵を木の床で打ち鳴らす。

 淑女諸君! 愛の勝利の時は来たりぬ! って意味かな。だからどうしたというのだ。

「これってなんのサークルなんですか?」

 あっけにとられて優翔が尋ねると、女子学生たちは顔を見合わせた。

「何だっけ」京香は思案顔になった。「ゲルヒェヴェーツェン語会話同好会、だったかな? 一応の建前はあった気がする。そうじゃないと学生自治会から活動許可をもらえないから」

 音大には様々な外国語の授業がある。クラシックの本場であるヨーロッパなどの音楽を学ぶ為に必要だからだ。だが京香たちのサークルは、ただ集まって騒ぐのが実体のようだ。

 女たちは優翔が着席するのも待たずに、おしゃべりという戦場に突入した。我先にと口を開いて混沌たる戦乱になだれ込み、ラインメタルMG3エムゲードライ機関銃を乱射するかのごとく言葉という弾丸を唾と共に吐き出し続けている。弾帯は無限だ。新兵の優翔が参戦する隙はない。

 それはそれで眺めている分には面白かったのだが、話題はどんどんアヤシイ方向へと流れていった。最初は他愛のない恋バナだったのに、だんだんストレートな表現が増えて、ついには女子の口から発せられてはならない領域の、深く危険な毒沼へと足を踏み入れるに至った。

 優翔はかぐわしい湯気を立てながら魅惑的に揺れる琥珀色の珈琲へと意識を撤退させざるを得なかった。

 女子学生たちは優翔を男として認識していないのだろうか。そうでなければあり得ないような赤裸々な会話を平然と交わしている。

 この大学で男扱いされる事を期待していると悲しい目に遭うぞ。先輩から聞かされた、そんな言葉を思い出した。男中心の組織で生きる女性も同様の生き辛さを感じているのかもしれないな、と思った。

「私」京香が突然、手を挙げた。「買い忘れていた物があるから、先に行くね」

フェアシュタンデン了解でありますオーバースト大佐浜ヶ崎」

 三人は床を踏み鳴らし、一糸乱れず右の拳を突き出した。

 この人、大佐だったんだ。

「付き合ってくれたまえ、オーバーロイトナント中尉穂関」

 僕はいつの間に昇進したんだと思いつつ、京香のあとについて店の外に出た。

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