欲望の標的にロック・オン

「穂関先輩……」

「やあ、坂月さかづきさん」

 一年後輩の坂月悠麻ゆまだ。甘えん坊な性格を予感させるふっくらとした顔を俯き加減にして、優翔の足下の地面を見つめている。目を合わせようとしない。

「今、誰かと話してましたよね。よその部のかたですか」

「同じクラスの演劇部の子だ。隣の宿舎に来てるらしい」

「そうですか。たまたま通りがかったら先輩の話し声が聞えたので来てみたんですけど。あ、でも」悠麻は慌てたように手を振った。「話の内容は分からなかったので安心して下さい」

「ただの雑談だよ。これからは遠慮せずに話しかけていいからね」

 優翔が微笑みかけると、悠麻は視線を森の奥に泳がせた。そして決意したように顔を上げた。

「きれいな人、ですね」

「ん? ああ、そうだね。たしかに、見た目は悪くない」

「お付き合い、されてるんですか」

「まさか」優翔は軽く仰け反った。「あいつと付き合うなんて、あり得ない」

 悠麻はまた下を向いた。そして、小さな声で優翔に問うた。

「お隣、座ってもいいですか」

「もちろん」

 どう間違っても優翔と体が触れ合ってしまわないだけの距離を開けて、悠麻は腰を下ろした。呼吸が乱れている。丸みを帯びた華奢な肩が僅かに上下していた。

「入部からそろそろ四ヶ月だね。もう慣れたかな。困っている事はない?」

 優翔は優しく声をかけた。

「あります」悠麻は思いきったように顔を上げた。「どうやったら穂関先輩みたいに音楽のセンスを身につけられるんですか」

 悠麻は唇を強く結んで少し頬を赤らめている。

「うーん、そうだなあ。まずはいっぱい音楽を聴く事だよ。そうするとね、面白い演奏とそうでないものの区別がつくようになる。そして何をすればよい音楽になるのかが見えて来るんだ。僕もまだまだ勉強中の身だから偉そうな事は言えないけどね」

 優翔の口が滑らかに回り始めた。

「音楽をたくさん、ですか」

「音楽に限った話じゃないけどね。たとえばアニメを山ほど見ると、何をやったら面白くて何をやったら飽きられるのか、途中で見るのをやめられてしまうのか、が自然に分かるようになるんだ。だんだんパターンも読めてきて、ありふれているのか斬新なのかも感じ取れるようになって来る。音楽と一緒だろ?」

「アニメはあまり見ないので、よく分かりません」

「なんでもいいんだよ。手当たり次第に触れる。すると見えて来るものがある。そういう話さ。スポーツでも読書でもいい。あらゆる趣味があてはまると思う。まずは既存のものを知るところから始めればいい。ある程度の努力をすれば、そのレベルまでは、おそらく誰でも到達できる。プロの領域に踏み込むには、それなりの素質と運が必要だろうけどね」

「分かりました。まずは音楽を聴く事から始めてみます」

 優翔の饒舌にやや圧倒されながらも、悠麻はようやく微かな笑みを浮かべた。

「ごめん、何だか調子に乗ってベラベラしゃべっちゃった」

「いえ、そんな。とても有益なお話が聞けました」

「そう? だったら、お礼をもらっちゃおうかな」

「何ですか? 私にできる事なら、どんなことでも」

 悠麻はベンチに片手をついて身を乗りだしてきた。

 ――欲望のままに生きなさい

 アトリプスの声が脳裏に蘇った。

 優翔は悠麻の着ている淡い紫色をした半袖カットソーの胸元に視線を送った。しっとりと白く滑らかな肌が覗いている。産毛が浮いて見えそうなほどに無垢で若い。薄くかいた汗が微かに甘い体臭を発している。女になろうとしている気配が、控えめな起伏に僅かに感じられた。

「たくさん経験する事が大事なんだ。なんでも」

 抑えた声でそう言いながら、優翔は悠麻に体を寄せた。

 悠麻は一瞬、驚いて身を引いたが、すぐに顔を上げた。微熱に浮かされたような目を優翔に向けている。

「逃げないのか」

「先輩になら、どこに何をされてもいいです」

「嫌じゃないのか」

「嫌じゃ……ありません」

 悠麻はふっくらとした頬を朱に染めて、じっとりと潤んで揺れる瞳で優翔を見つめた。

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