2009

身勝手とお人好し

 灰色のビルを見上げた。浮き彫りの白い裸婦像が壁にしつらえられている。過度に扇情的なわけではないし、ライトアップも控えめだ。だが、子供が立ち入ってはならない施設だと明確に示す効果は十分だ。軽い緊張を感じながらコートの襟を寄せ、勝高はスモークガラスの自動ドアを通り抜けた。

 現在、二十四歳の勝高は、まだまだ社会経験が豊富だとは言い難い。だが、先輩秘書の虎潟による指導を受けて、様々な世の中の裏側を見てきたという自負がある。だから大抵の事には驚かないし動揺もしない自信があった。この程度の施設なら鼻歌交じりに入店できる、はずだった。だが、今回は事情が違った。

 ロビーに立つと、奥に控えていた黒服の男がテンプレートのような笑みを顔に貼り付けて近づいてきた。若い。勝高よりもいくつか下だろう。

 予約を入れてある旨を伝えた。案内されたのは、エンジ色のカーテンで囲まれた小さな部屋だった。待合なのだろう。深い緑色に染められたベルベットのソファーが一つ置いてある。それだけで空間の半分ほどを占めていた。天井の低さも相まって、かなりの圧迫感だ。

 だが、勝高が苛立ちを感じ始めた理由は他にある。

 今度こそ目的を果たす事ができるだろうか。その一点のみが勝高の関心事であり、予約時間が迫るほどに心拍数が跳ね上がっていく原因だ。

 天井に吊るされた黒いスピーカーからオーケストラの音楽が静かに流れている。聞き覚えがあった。先鋭的かつ奥深い音楽を豊かな響きで表現する才能でクラシック音楽界を席巻している新進気鋭の指揮者、穂関優翔のオリジナル曲だ。女性用化粧品のCMでも採用されている。

 優翔自身の指揮による演奏を聴きながら、勝高はふと、旧友の顔を思い出した。幼なじみのシュルツンイェーガー女たらしこと穂関優翔は勝高と同年齢でありながら、既に世界中に名を知られる若きマイスターとして不動の地位を築いている。負けてはいられない。

 そんな事を考えながら床を見つめていると、パンプスの底がカーペットと擦れあうリズミカルな音が近づいてきた。思わず唾を飲み込んで、一つ、息をついた。

 足音が止まった。出入口になっている部分のカーテンが、そろり、と捲られた。そこに立つ女を見て、勝高は呼吸を忘れた。間違いであって欲しかった、という気持ちと、ようやく見つけたという思いが胸の中で混ざり合い、心臓に重い負荷をかけた。

 明るい栗色に染められた長い髪は紫のシュシュでまとめられている。まつ毛が不自然なほどにパッチリしているものの、ナチュラルにデザインされたメイクは不快感を抱かせるような派手な色使いが控えられていて、素材としての顔立ちのよさを上手く引き出しているように思えた。キラリ、と上品な輝きを見せる小さなピアスもセンスの良さを感じさせた。

 光の加減によりミステリアスに表情を変える紺色のドレスに過剰な装飾は無い。金のバックル付きの若草色をした細いベルトが全体のシルエットを程よく引き締めていた。かなり短いスカートから剥き出しに晒されているしっとりと白い素足は、しなやかでありつつもむっちりと肉感的な魅力を放っている。

 踵の高い赤いパンプスだけが少々、主張が強過ぎるようにも思えるが、全体としては品よくまとまっていると言えるだろう。残念ながら、淫猥いんわいあでやかさをまったく感じさせないというわけにはいかないけれど、それは場所柄のせいもあるに違いない。

「ご指名ありがとうございます。ミアです」

 伏し目がちにそう言って、女は深くゆっくりと礼をした。鮮やかな笑みを浮かべている。だが顔を上げて勝高と目が合うと、形の良い紅い唇が小さく震えた。頬がこわばり、笑顔が不自然なものになった。

「お久しぶりです」

 勝高が声をかけたが、ミアと名乗った女は曖昧な微笑みを見せただけだった。

 プロ意識のなせる技なのか。すぐに動揺を押さえ込んだ様子で、ミアは勝高を淀みなく自分専用の部屋にいざなった。

「このところ雨や雪が続いていますね。ここへ来るとき濡れませんでしたか?」

 自然な笑顔を取り戻したミアが話題を振ってきた。

「晴れてました」

 冷たい声で勝高は答えた。

「ちょっと分かりにくい所に入り口があったでしょう? この時間だと暗いし。迷いませんでしたか」

「ネットでしっかり下調べしたので大丈夫です」

「寒かったでしょう? 部屋の温度を上げましょうか?」

「このままで問題ありません」

 エアコンから静かに流れ出る風が、情欲をくすぐるような香りを運んで来る。壁の向こうのくぐもった笑い声に続いてクラクションが遠く響いた。抑えようとしてもごまかす事のできない自分の呼吸音は妙に早くて、肩の上下を誘った。

 笑顔を収めたミアと最初から無表情だった勝高は、真っ直ぐに見つめ合った。

 やがてミアは一つ息をついた。両手を広げて首を傾げる。

「降参よ。私に何か用なの?」

「ええ。あなたに会いに来ました、愛奈さん」

「よく見つけたわね」

「こういう店で働いているらしいという噂を聞きつけて以来、仕事の合間を縫って地道に足跡を追いました。ずいぶん時間がかかってしまったけど、なんとかたどり着きました」

「そう」愛奈は俯いてしばらく何かを考える様子を見せてから、静かに顔を上げた。「勝楽は元気にしてる?」

「元気だと思いますよ」

「最近、会ってないの?」

「ええ。姉は政略結婚の駒にされてしまったので、おいそれとは会えないんです」

 そんな事が、と呟いて、愛奈は唇を結んだ。

「ねえ、愛奈さん」勝高は少し明るい声を出した。「中学の時、俺が卓球部のチームメイトに下剤を仕込んで退部になった話をしたのは覚えてますか」

 愛奈は薄く笑みを見せた。

「もちろんよ。勝高くん、人気ひとけの無い公園でぼんやり立ってた。かなりまいってたよね」

「そうです。今から十一年前の事です。あの時、愛奈さんに話を聞いてもらって、ずいぶん救われました」

「それはよかった」

 素っ気無い声で相づちを打った愛奈の目は虚ろだ。

「それなのに、俺は愛奈さんに酷い事をした」

 愛奈は、しばし勝高を見つめた。

「たしかに、とんでもなく酷かった。まあ、人生がひっくり返る、っていう程度だけどね」

「あのあと、と言っても何年も経ってからですが。愛奈さんがなぜ俺に冷たく当たったのか、その真実を姉さんから聞きました」

「そうなんだ」

 興味なさそうに、愛奈は自分の手の爪を眺めている。

「俺があのヒロシとかいう乱暴者に絡まれないよう、守ってくれたんですね」

 愛奈は頷いて、気だるそうに説明を始めた。

「ヒロシの母親はあの頃、私の父の上司だった。二人は……人に言えない関係にあった。それを私の母にバラさないのを条件に、私はヒロシと望まない付き合いをしていた。母は、真っ直ぐに父を信じていた」

「そんな事を利用して愛奈さんを自分のものにしたのか」

 勝高はヒロシに対する怒りが蘇るのを感じた。

「勝高くんがあの学園に来ると勝楽から聞いた。嬉しかった。でもそうすると、私とヒロシの問題に巻き込んでしまう可能性が高い。あいつは陰湿でねちっこくて嫉妬深い。しかも、平気で暴力を揮う。周囲にバレないように、陰でね。私と親しくしているところを見られたら、勝高くんが何をされるか分からない」

「いかにもそんな感じのする奴でした」

「だから、もし私に会っても無視するよう勝高くんに伝えて欲しいと勝楽にお願いした。なぜか私のメッセージは君に届かなかったようだけど」

「俺は早めに寮に入っていたし、入学前はケータイを持っていませんでしたから、連絡手段がなかったんだと思います。あるいは、姉は天然なところがあるから、その時は愛奈さんの意図を読み取れなかったのかも」

「あの子らしいわね」

 口に手を当てて、愛奈は小さく笑った。

 わざと伝えなかった、という可能性がある事を、勝高は口に出さなかった。親友のはずの二人だけれど、勝楽は愛奈に対して何か思うところがあったのかもしれないという気がしたからだ。

 おっとりとした外見とは裏腹に、勝楽は時おり血も凍るような冷たい表情を見せる。腹の底で何を考えているのか、弟の勝高にさえ想像もつかない。得体の知れない怖さを感じて、背筋が寒くなる事もあった。もちろん、家族としての愛情がないわけではないけれど。

「愛奈さん。あれからどんなふうに生きてきたのかを話してもらえませんか」

「そんな事聞いてどうするの?」

「俺にはそれを知る義務があると思います」

「律儀ね。その為に私を探し出したの? だとしても、それで何が変わるというの。私はご覧の通りの状況にある。それだけよ」

「いいえ、話して下さい。俺は自分のした事であなたに何が起こったのかを知らなければならない」

 短いため息をついて、愛奈は横を向いた。床に視線を落とす。

「ま、いいけどさ」

 退学させられてからこれまでの経緯を、愛奈は、ぽつぽつと話し始めた。

 勝高くんの策略は見事な効果を発揮した。お金の為に女の誇りを捨てた、という噂を広げられてしまった私は、他人の目が怖くて外に出られなくなった。いつの間にか自宅を特定されてしまったので、カーテンを閉め切った部屋で膝を抱えて震える毎日を過ごすしかなかった。

 やがて涙も枯れて何も感じなくなった頃、知らない人からメッセージが来た。

 ネットであなたの事を知りました。可愛いですね、遊びませんか。

 今思えばずいぶん舐められたものだと悲しくなるけど、その時の私は深く考えずに応じた。私は、噂通りの女になった。

 そんな事が何度も続いてやがて日常となり、気づけば十八歳の誕生日が過ぎていた。するとある男から、もっと効率よく稼ぐ方法があるよ、という話を持ちかけられた。

 参加した作品はどれも好評だった。指名の仕事が多くてそれなりに稼げた。でも新人の若い子がどんどん入って来る。押し出されるように引退して、流されるままに今の仕事に就いた。

 現状に特に不満があるわけじゃないけど、かといっていつまでも永遠に続けられる仕事でもない。それが分かっていても、誇れるような学歴も特別な技術も持ってない女が、他に何をすればいいのか思いつかなくて、惰性のように働き続けた。

 そんなある日。予約のお客さんを迎えに待合に行ったら、まさに私の人生を捻じ曲げた男が座っていた。私にだって将来に向けていろんな夢があったのに、全部ぶち壊した張本人が。

「しかも、あれから今日までの事を教えろなんて言ってくる。それで仕方なく、こうして話しているというわけよ。どう、これでいい?」

 勝高は愛奈に本来の仕事をさせなかった。お金であなたを自分のものにしたくない、と。愛奈は爆笑した。その声は乾いていた。

 何度も店に通い、勝高はミア、つまり愛奈を指名し続けた。なんでもないような世間話や、故郷の思い出を語り合い、帰る。

 そんな事を繰り返しているうちに、営業用ではない、愛奈個人の連絡先を教えてもらう事ができた。愛奈がなぜそれに応じてくれたのかは分からない。

「この水族園、いったん営業をやめるらしいね」

 勝高がそう言うと、愛奈は驚いたように目を丸くした。

「そうなの? とっても素敵な所なのに」

 再会から半年が過ぎる頃、二人はプライベートで時々会うようになっていた。容赦のない陽差しから逃れる為に入った水族園は、どちらにとっても、子供の頃から何度も来た事のある懐かしい場所だった。

「新しく作り直すんだってさ。老朽化が理由だ。名前も変わる」

「たしかに、ずいぶん古い施設だけど」愛奈は両側に水槽の並んだ薄暗く冷たいコンクリートの通路を見回した。「時の流れをじっと見守ってきた老人のような、枯れた風情が味わい深くてよかったんだけどな」

 二人の声は残響となって通路の奥に消えていく。

「みんな変わっていくのさ」

 色とりどりにライトアップされたクラゲが気ままに舞う円筒形の水槽に愛奈は顔を近づけた。

「この水族園は一度死んで、やがて蘇る。転生するのね」

 勝高は、ゆっくりと頷いた。

「人はときに選択を間違える。取り返しのつかない事もする。だけど、それで終わりじゃない。チャンスはまだ、きっと残っている」

 愛奈は温かく微笑んだ。

「昔、君にそんな事言ったね。今のは楽指市に対してかな? 蘇るといいんだけど」

「俺の未来についての話だ」勝高は表情を引き締めて、真っ直ぐな視線を愛奈に向けた。「愛奈、俺は諦めない。チャンスをくれ」

「なんのチャンスよ?」

「一緒に暮らそう」

 愛奈は勝高を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。

「……歪めてしまった私の人生に対しての責任を取りたい。そういう事?」

「違うよ。あの日、杉下に下剤を仕込んだ件で卓球部を辞めさせられたあと、呆然としていた俺は公園で愛奈に声をかけてもらった」勝高の目には、その時の情景が今でもはっきりと見えていた。「俺は優しく話を聞いてくれた愛奈に恋をした」

「少年の日の淡い恋心、でしょ」

「そうかもしれない。でも、高校でようやく再会した愛奈に邪険にされて耐え難い苦しみを味わった俺は、いかに自分が愛奈を求めていたのかを改めて思い知らされた。だからこそ、俺は復讐心に取りつかれてしまった」

「罠に嵌められた私はふしだらな女という烙印を押され、本当にその通りになった」

 愛奈はおどけたように眉を上げて首を傾げた。

「復讐は俺に何の喜びももたらさなかった。それどころか、さらに深く鋭く心を抉られた」勝高は苦渋に顔を歪ませながら言葉を続けた。「身勝手な事を言っているのはもちろん分かってる。誤解で愛奈を酷く傷つけ人生を狂わせておきながら、俺も傷つきました、だなんてね。君にしてみれば、俺の苦しみなんか知ったこっちゃないだろう。だけど、この胸の痛みが偽らざるものである事は事実だ」

「本当に身勝手ね」一つ息をついて、愛奈は勝高から視線を外した。「でも、少なくとも嘘じゃない事だけは分かる。だから。君が身勝手を言うのなら、私はお人好しな事を言わせてもらおうかな」

 唇に小さな笑みを浮かべながら、愛奈は一人語りのように話し始めた。

 他人を貶めるには、君は素直で善良過ぎる。だから自分に跳ね返ってきた痛みを受け止めきれない。あの日もそんな話をしたね。残念ながら、君はまたもや敵を捻じ伏せようとして、危うく致命傷を負いかけたようだけど。

 それが分かっていたからなのかな。私ね、勝高くんを恨んだり憎いと思った事は一度もない。嘘だと思うかもしれないけど、そういう気持ちにはならなかった。もちろん、辛かったよ。とんでもなく辛かった。魂が抜けたようになって流されるままに漂った。

 そして君は再び私の前に現われた。あの時の感情をどう表現すればいいのか分からない。でも一つだけはっきりしている事がある。

 私はあの瞬間……待合に座る勝高くんの顔を見た、あの瞬間。ああ、やっと終わるんだ。そう思った。何が? 明確に言い表す事はできない。でも、今までの私は死んで新しい私に転生する。そんな、むずむずとした予感のようなものがあった。

 過ぎた時間は戻らない。私は、夢見る女子高生には戻れない。その事をようやく受け入れられた気がした。

「君も辛かったんだね、勝高くん」

 勝高を見つめる愛奈の瞳には温もりが感じられた。でも、その奥で消える事のない悲しみが揺れている。

 自分が付けてしまった傷さえも含めて愛奈を愛したい。勝高はそう、願った。

「探し続けてようやく君を見つけた」勝高は愛奈の手を握り締めて強く目を見つめた。「許してもらおうとは思わない。つぐなうだなんて不遜な事も言わない。ただ、傍にいたい。愛奈、君を感じていたい。それだけが今の、俺の望みだ」

「勝高くん」愛奈は迷いのない目で勝高を見返した。「私の職業は知ってるでしょ? いったいどれだけこの身と心をよごされてきたと思っているの? 今さら誰か一人のものになんて、なれるわけないじゃない」

 寂しい微笑みを浮かべた愛奈から視線を外さずに、勝高はゆっくりと首を振った。

「それは汚れなんかじゃない。愛奈が生きてきたあかしだ」勝高は少し俯いて、噛みしめるように言葉を繋いだ。「君の人生を狂わせた俺には、何も語る資格は無いかもしれない。でも。これだけは言わせてくれ」

「何を言われたって、私は……」

 勝高は顔を上げた。

「愛してやろうよ、必死に生きてきた過去の自分を」きよを突かれたように、愛菜は、はっと眉を上げて勝高の顔を見た。「たとえどんな生き方だろうと、君は生きた。生き抜いた。そんな自分を認めてやらないなんて、可愛そうじゃないか」

 しばし勝高を見つめた愛奈は、力なく目を伏せて掠れた声で呟いた。

「君は愛せるというの? 私の過去を」

「それぞれの様々な経験を経て、二人は再び巡り会った。だけど君は、あの日あの時、俺が恋をした愛奈なんだ。どれだけ時間が過ぎようとも、何があろうとも、その事実は変わらない。愛奈、愛してる」

 愛奈は唇を震わせた。瞳が潤んでいる。視線を逸らして目にハンカチを当てた愛奈は、震える声で告げた。

「一流の政治家になるんじゃなかったの? もし、私みたいな女と生活を共にしている事がバレたら、君のお荷物になっちゃうよ?」

「荷物があるなら、二人で一緒に背負えばいい。その方が軽い」

 勝高は静かに微笑んで、そっと愛奈を抱き寄せた。

「……バカな人」

 目を赤くした愛奈の口元には、安らいだ笑みが浮かんでいた。

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