半熟女神

宙灯花

1991

そんなところにそんなものは

 ――我が名はアトリプス 時の代理人にして運命を司る女神なり


 囁くように静かな声でそう告げると、女神アトリプスは口元に微かな笑みを浮かべて、手にした竪琴で優雅なアルペジオを掻き鳴らした。燃えるようにあかい瞳で草むらに座る三人の少年たちを真っ直ぐに見つめている。水色の長い髪が波打つように風に揺れた。


 ――少年よ あなたたちは、死ぬ


 表情を動かす事なく宣告したアトリプスは、瞼を閉じて俯いた。

 暖かな春の陽を浴びて、小高い丘の上には色とりどりに名も知れぬ花々が笑顔を輝かせている。甘い蜜の香りが漂う中、広げた羽に思い思いの意匠いしようを凝らした蝶が、気まぐれな妖精のごとくひらひらと舞う。

 盆地を挟んだ向かい側の山は、遠くかすみに包まれてよく見えない。ゆったりと流れる雲は空の青さに心地よく、ぼんやりと微睡まどろみを誘うように白い。

 清澄な佇まいを見せる女神アトリプスの肩が、最初は小さく、そしてだんだん大きく震え始めた。じっと何かを堪えるかのように、俯いたまま眉を寄せて唇を固く結んでいる。

「ぶっ……、あはは!」アトリプスは突然顔を上げて、堪りかねたように爆笑した。「君たち、私の神々こうごうしさに声も出ないようね」

 曇りの無い明るく元気な若い声が、遠い山々にまで反射して陽気に響いた。

「……いや、そうじゃなくて」

 言葉を失って女神をじっと眺めていた少年の一人が、困ったような顔をした。

「そうじゃなくて、なあに? シュルツンイェーガー女たらし穂関ほせき優翔ゆうとくん」

 アトリプスが甘ったるい声で問いかけると、穂関優翔と呼ばれた少年が驚いて目を見開いた。

「え? なんで僕の名前を知ってるんだ」

 アトリプスは人差し指を立てて左右に振って見せた。

「私、女神だよ? 君の右隣にいる、すらりと長身でメガネが似合う賢そうな男の子は戎谷えびすたに勝高かつたかくん。通称ジーク勝利。反対側の、ヒグマみたいに体が大きくて灰色がかった髪をしているのがグレイこと火倉ひぐら大介だいすけくん。年齢はいずれも六歳で、明後日から楽指らけし第十三小学校に通い始める。でしょ?」

「俺たち三人の間でしか通じない呼び名まで知ってるのか」

 大介の言う通り、少年たちには彼らだけの秘密のコールサインがあった。グレイ大介ジーク勝高イェーガー優翔と呼び合っている。三人は小さな頃から仲のよい幼なじみだ。

「何も無い所からいきなり目の前に現われたのは、たしかに驚きではある。だが、それよりも」

「何よ。はっきり言いなさいな、メガネの戎谷勝高くん」

 余裕を見せようとするかのように、アトリプスは顎を上げて勝高を見下ろした。勝高は推理ドラマの探偵が犯人を指し示すかのごとく、女神アトリプスに向けて鋭く指を突き出した。

「なぜそんなにも、無駄に露出の多い格好をしてるんだ」

 デンジャラス・ゾーンだけを限界ギリギリの小さな赤い布で覆い、そよ風のように儚く透き通った羽衣をなびかせながら、女神アトリプスは空中に浮いていた。

「あら、お子様には刺激が強過ぎたかしら」

 アトリプスは口元に手を当てて、うふふ、と笑った。

「ていうか、アブナイ人にしか見えない」

 呆れたように言う優翔の言葉に、アトリプスは仰け反った。

「あ、アブ……」

「少なくとも、女神にしては品格に欠ける、よね」

 首筋を掻きながらアトリプスから視線を逸らした大介に、勝高が頷いて同意を示した。

「自分で女神とか言ってるし。大丈夫なのか、このオバさん」

「オバ……勝高くん。私、見た目の設定は十七歳なんですけど!」

 腰に手を当てて身を乗り出しながら、アトリプスは頬を膨らませた。

「設定、っていうのが謎だけど。ティーンズだとしたら、清純な若さの輝きが足りないな」

 苦笑いを浮かべながら、優翔は首を振った。

「下品とまでは言わないけどさ」

 アトリプスと目を合わせないままに、大介は呟いた。

「軽薄な感じがするね」メガネを中指で押し上げながら言う勝高の声に感情はこもっていない。「どうあがいても知性的には見えない」

 容赦の無い少年たちの言葉に、女神アトリプスはしばし絶句した。

「はい、注目!」気を取り直したアトリプスは、二回手を叩いた。「見て、ほら見て。私、空中に浮いてるでしょ? こんな事、普通の人間にできると思う? 女神だよ、怖れ敬いなさいよ」

「まあ、普通じゃない、という事に関しては否定しないけど」

 勝高は横を向いて、ふ、と息を吐いた。それを見たアトリプスは眉を寄せて腕組みをした。

「なんか引っかかるなあ、その言い方」

「浮いてる、っていうのも、言い得て妙、というやつ?」

 皮肉っぽい笑みを隠そうともせず、優翔は両手を広げてみせた。

「露出狂の変態奇術師だよね」

 ぼそっと呟いた大介の評価が一番ストレートかもしれない。

「……いいけどさ。別にいいけどさ」女神アトリプスは、いじけたように唇の片端だけを歪めた。「君たちったら、相変らず憎たらしいわね」

「相変らず?」優翔はきょとんとした。「会ったのは初めてだと思うよ?」

「ああ、気にしないで。解釈の問題だから」

 アトリプスの言葉に、勝高は首を傾げた。

「よく分からないけど。解釈でなんとか乗り切ろうとするのは政治家だけにして欲しいな」

「辛辣だね、長身メガネの勝高くん。もし君が政治家になったら、逆に言われる立場になるんだよ?」

「ならないさ、政治家になんか。歪んだカネや権力に興味は無い」

「その言葉、よく覚えておく事ね」

 哀れむような目でアトリプスは勝高を見た。

「そういえばさ」大介は何かを思い出したように顔を上げた。「俺たちが暮らすこの楽指市がまだ村だった頃に、女神の言い伝えがあったらしいよ。母さんが話してた」

 大介は古くから高い山に囲まれた楽指平野に住んでいた人々の末裔で、あとの二人は都市として発展しつつある時期に流入してきた若い世代から生まれた子供だ。

「へえ、そうなんだ」

 優翔は女神の伝説を知らないようだ。その隣で勝高が手を打って頷いた。

「俺は近所のおじいさんから聞いた事がある。アカキヒトミナガルルフシナルミコト、だったかな」

「正解! それ、私の事よ。漢字ではこう書きます」アトリプスが竪琴を掻き鳴らすと、アカヒトミナガルル不死フシナルミコト、という文字が空中に浮かんだ。「昔の村人たちからは紅瞳流不死あとるふし、と呼ばれる事が多かったけど」

「暴走族が高架下に書きそうな名前だな」

「そういうものがなかった時代の話です、勝高くん」

「という事は、古くから知られていた人なんだ」

「優翔くん、私は人じゃない。神よ」

「人でなし」

「間違っちゃいないけどね、大介くん。なんかムカつくよ、それ」

「ねえ、人でなしの女神さま」

「……まあいいか。優翔くん、質問どうぞ」

「漢字の名前で言い伝えられてるのに、なんで見た目が洋風なの?」

「え……」アトリプスは瞬きを繰り返した。「だって女神って、こんな感じなんでしょ? 逆に、違うの?」

「なんで俺たちに訊くんだよ」

 大介は苦笑いしている。

「おそらく、だけど」勝高はメガネを中指で突き上げた。「神というものは、時代の要求に合わせて姿や定義が変わるものなんじゃないかな」

「そう、それ! たぶん、それ!」

 アトリプスは勝高に向けて親指を立た。

「本当に女神なの?」優翔は目を細めた。「自分の事すらちゃんと分かってない」

「そのへんは深く突っ込まないでくれるかな」アトリプスは気まずそうに唇の端を歪めた。「私、女神になったばかりなの。だからしょうがないじゃない」

「女神って、なるものなんだ」

 大介が呟いた。

「初心者マーク付ければ?」

 優翔は笑いながら車の運転のような動作をした。

「初心運転者標識か。付けるとすれば……」

 冷たい声でそう言って、勝高はアトリプスの体の、ある一点を見つめた。

「そんな所に付けません! ていうか、どこにも付けません! これだからオトコノコは」

 腰に手を当てて頬を膨らませ、アトリプスはうんざりしたように首を振った。

「それにしても」大介は不審そうに巨体を傾けた。「時代の要求だとジーク勝高は言うけど、女神にそこまでのエグい露出を求めるのは、ごく一部の特殊な人だけだと思うけどなあ」

「だよね」優翔はちょっと楽しそうだ。「ある方面の圧力に屈して設定がブレちゃったアニメフィギュアみたい」

「君たち」アトリプスはすまし顔になった。「あんまり好き放題言ってると、自分に返って来るよ?」

「何がなぜどう返って来るのかロジックが分からないけど。とにかく低俗で男に媚びてる」

 勝高の厳しい評価を受けて、アトリプスは一つ息をついた。

「私だって、こんな格好をするのは恥ずかしい、という気持ちが無いわけじゃない」アトリプスはボソボソと呟いた。「でも、求める人がいるんだからしょうがないでしょ? 君たちになら分かるはずなんだけどな」

「あの」優翔が手を上げた。「そもそも、なんで現われたの? 僕らに何か用?」

「ようやく本題、か」アトリプスはふいに表情を真剣なものに改めて、低くおさえた声で告げた。「さっきも言ったけど。君たちは、死ぬ」

 少年たちは顔を見合わせた。いつものトラックで転生か? あの運転手、何人殺したら気が済むんだ、と呟いたのは誰だろう。

「ふふふ、怖いわよね? やっぱり怖いわよねえ、女神さまに死の宣告をされたんだから。何も言えなくなっても恥ずかしい事じゃないわ。お姉さんが慰めてあげようか?」

 勝ち誇ったような笑顔を浮かべて、アトリプスは少年たちを見つめた。

「お姉さん?」

 目を細めた勝高を、優翔が肘で軽く突いた。

「そうよ、私はお姉さん! 妹じゃない。断じて妹じゃないの。言ったでしょ? 見た目の設定は十七歳だって。なかなか可愛いと思わない?」

 アトリプスは上目遣いになって唇を尖らせ、瞬きをした。

「そんな事よりさ」

「無視? ノーコメントなの? 勝高くん」

 呆れたような顔をして、アトリプスはため息をついた。

「死ぬのが恐い。そんなの当たり前だよ」勝高はいつものようにメガネを弄りながら話し始めた。「生物が死を怖れる性質を持っているからこそ、気の遠くなるほどの世代交代を重ねて僕らは今、ここにいるんだからね」

 アトリプスは眉を寄せた。

「ごめん、ちょっと、何言ってるか分からないんだけど」

「女神のくせになんで分からないんだ。生物が生き続け進化する為の根本原理じゃないか」

 勝高の言葉に頷いているが、優翔と大介にも分かっていないようだ。

ジーク勝高、オバ……お姉さんが言ってるのは、そういう難しい意味じゃ無い気がするよ」

 優翔の言葉に頷いて、勝高は顎に手を当てた。

「俺たち三人は普通に寿命まで生きられない、なんらかのアクシデントによって人生を途中で強制終了させられる、そういう話か」

「そ、そうよ。やっと分かったのね」

 無理に威厳を取り戻そうとして、アトリプスは少し焦りを見せつつも顎を上げて反り返り、先端だけが辛うじて隠された豊かな実りを揺らした。

「僕らは死ぬ。それは分かった。だからさ、露出狂で人でなしの駄女神だめがみさん」うんざりしたように大介が首を振った。「他に用が無いなら帰ってよ。相手してると、なんか疲れる」

 女神アトリプスは目を点にしてぽっかり口を開いた。でもすぐに真剣な顔を取りつくろった。

「生意気な口をきけるのも今のうちよ。君たちはいずれ重大な選択を迫られる事になる」

「それも当たり前じゃないか」呆れたように勝高が言う。「人生は選択の連続なんだから。いや、選択する事こそが人生だとも言える」

「そうなの?」

 瞬きを繰り返すアトリプスに、勝高が冷めた目を向けた。

「いったい、どれだけぼんやり生きてたらそんな事になるんだ? 六歳の俺にでも分かるのに」

 優翔は勝高の肩に手を置いて首を振って見せながら、苦笑いを浮かべた。

「見た目だけで世渡りしてきた女神さまにそれを言っちゃあ可愛そうだよ」

「そう、そう、そう、見た目がよければなんとかなる……って、コラー! 誰が美の女神やねん」

 アトリプスは空中で後ろ向きになり、尻を高く上げて女豹のポーズをとった。振り返って妖艶に微笑み、にゃあ、と鳴いて軽く握った拳を舐めた。

 少年たちは起動していないアンドロイドのように無表情のままそれを眺めた。

 アトリプスは一瞬、硬直したあと急いで元の体勢に戻り、強引なノリツッコミ&無理のあるボケを無かった事にした。頬が赤く染まっている。

「と、ところで。見た目と言えば優翔くん。君も相当なものね。お姉さん、嫌いじゃないわよ」アトプリスは婀娜あだっぽい目で優翔を見つめた。「私と永久とわちぎりを……」

「嫌だ」

「ああん、冷たくしないで」

「さすがはシュルツンイェーガー女たらしだな」メガネの位置を直しながら、勝高が感嘆したように言う。「女神まで速攻、落とすのか」

 そんな勝高を軽く手で制しながら、優翔が答えた。

「いや、コイツがチョロイン、ていうかエロイン? なだけだ」

 見た目がヤバいだけじゃないんだ、と大介が呟いた。

 優翔は少しまじめな顔をしてアトリプスの方を向いた。

「あのさ、そういう発言は控えた方がいいと思うよ。オバさんが少年を誘惑なんかしたら、社会的に抹殺されかねないから」

 他の二人は頷いた。アトリプスは特に反応を示す事もなく、姿勢を正した。

「いろいろ言ったし言われちゃったけど」女神は三人の少年に順に視線を送った。その紅い瞳には優しく温かな光があった。「たった一つの選択によって人生は大きく変わる。その事だけは忘れないで」

 ――ヴェーレ・ダイネ・ツークンフト――

 深い残響を伴った声と共に、女神アトリプスはすーっと空気に溶けるように消えた。

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