高校
四年生になった。私の学校では、高校一年生は四年生と呼ぶのだ。高校に上がると制服が少し変わる。
「だからって特にね」
「変わるものはないよね、でもネクタイ似合ってる」
「ん、ありがと」
そんな会話をしながら、嘘だなと思った。高校だから変わったのではないが、予想外の失恋を経て、私は間違いなく変わった。私は、すべての物事に対して、終わりを意識するようになった。あと三年もすれば、私たちは全国各地の大学へ行く。彼女とはたまたま一緒という可能性もあるが、それ以外の仲のいいクラスメイトとは、別れることになるだろう。
「葉月」
「なに?」
「君は変わらないね」
妄想なのは承知しているが、アタシにはもうついてこれないね、という意味が言外にあるような気がした。
「少し、関係性を変えたいんだけど」
「どういうこと?」
聞き返すと、彼女は一瞬両目を閉じて、何かを決意したような表情で、こう話した。
「アタシは、葉月の恋人になりたい」
風が吹き、遠くの誰かがくしゃみをする音が聞こえた。
その夜、私の脳はずっとその言葉をリフレインしていた。返事は一旦保留ということにしたが、これだけ脳を彼女で支配されている時点で、返事は決まっているようなものだった。
この頃から、本格的に差を感じることが増えた私は焦りつつも、明日へ明日へと、努力のスタートラインを引き伸ばし続ける日々を送っていた。彼女はゴールテープなど見えないかのように、ただただ疾走していた。
「そういえば最近、葉月とちゃんと話してないかも?」
「……そんなことないんじゃない?」
私が彼女の目を見れなくなっていたことを、彼女はどこかで感じ取っていたのだろうか。
眩しい、そう思った。彼女を直視することは私にはもうできなくなっていた。少人数の学校なので、二クラスしかないのだが、不思議なことにいつも別々だった。彼女と共にあろうとするなど、天運は許さないのかもしれない。そう思い込んでいた。
そんな私にとって、彼女が私を選ぶというのは、全く理解が及ばなかった。だが、一応説明はつけることができた。おそらく彼女は私の本性を知らないのだ。怠惰で、醜悪で、それでいて理不尽に嫉妬しだす、私の本性を。
「……このままじゃまずいな」
そう思って取った行動が、旅行だ。破滅的インドアな人間にこれは効く。春、夏、冬の長期休み全てで、私は旅に出た。そしてそのついでに、その地の有名大学を見学した。すべて、彼女と離れる大学生の未来を見据えて。
札幌は海鮮、ジンギスカンがとても美味しい。学生の身分だったが、なんとか奮発してそこそこいいものを食べてしまった。そして一歩街の外に踏み出せば、あまりにも広大な農地や牧場、日本であって日本ではないような土地だった。ただの時計台ですら、目新しいもののように思えた。
仙台もよかった。ここには同じ部活の鉄オタの友人と共に行ったが、何かの臨時列車が走っているからと、無理やり付き合わされた。なんとなく入ったラーメンがとてつもなく美味しかった。
京都、大阪は感動した。京都に関しては10分歩けば観光地にぶつかり、千年の都とはなんたるかについて思い知った。大阪はいくら歩いてもこれといった歴史的建造物は存在しないが、活気がある商店街という、地元にはもはや存在しないものは新鮮だった。
「どうだった?」
彼女は私が帰ってくると決まってそう聞いてきた。
「いいとこだった、今すぐにでも住みたい、谷川ちゃんも一緒に来ない?」
「やだ」
「つれないなぁ」
この返答も決まって行われた。東京の大学に進学すると決めている彼女には、私の冗談めかしたアプローチなどまるで意に介さないようだった。そのことに寂しさも感じたが、安心した。私の提案になびくような彼女はいらない、とかなり厄介な感情を抱くようになったが、自分でもそのことにまともに気がついてなかった。
東京の大学には興味を持たなかった。彼女からできるだけ離れなければならないのだから。太陽に近づきすぎたイカロスは、蝋の翼が融けて堕ちてしまった。私の翼が、蝋より強固であるという自信など、あるはずがなかった。
それでも、太陽への憧れは止められない。
「二人で旅に出よう」
彼女が提案してきて、二人で旅行に行くことになった。五年生の夏のことだ。
「私でいいの?」
「アタシが一人で行くとなんかやらかしそうでさ、おねがい」
「たしかに、でも私もポンコツよ?」
「……葉月がいい」
「しょーがないなぁ」
たまに彼女はデレる、わがままを言う。それがたまにウザく思うが、拒絶したことは一度もない。かわいいは正義だ。
名古屋を巡った。一緒に同じ定食を食べて、嫌いなものだけをお互いに交換した。玉ねぎを食べさせて申し訳なかった。熱田神宮や、科学館へ行った。アマテラスのような彼女が神々に頭を下げているのは奇妙に映ったし、展示物を熱く語る彼女の口から出る音声は、とうとう半分理解することがやっとだった。悔しい。9割の楽しいという感情にそうした1割の不純物が紛れていることが、とてつもなく不愉快だった。
「どうかした?」
「……ん?」
「葉月の顔色、暗い気がして」
「ん、暑くて参ってるだけだよ、早く室内いこー」
「うん!」
彼女に、こうして何度嘘をつけばいいのだろうか。
「ついたー!」
「ようやく?ほんと名古屋暑すぎ……湿度もエグいし」
「それな、イェーイ」
「ちょ、いきなりベット飛び込まないでよ谷川ちゃん」
「えへへ」
ベッドに埋もれた彼女は無視して、荷物の整理をする。ダラダラと日々を過ごしている私だが、彼女の世話をするにはそうはいかない。テキパキと、タオルなどの用意をする。
「谷川ちゃん、早く大浴場行こ」
「……んー、おわった?」
「もー、起きて起きて、お風呂入って着替えてから寝なさいよ」
「はーい、おかあさん」
「私はあなたの母じゃありません」
寝ぼけた目の彼女を連れていった。かわいいやつめ、彼女には私がいないとダメなのだ。
「悩みとかあるの?」
露天風呂で運良く、いや運悪く、二人きりになったときに、彼女はそう聞いてきた。
「どうしたの?」
「いや、最近の葉月はなんか、昔と違うなぁって思って」
「昔って?」
「一年のとき」
私は吹き出した。
「いやいや、そりゃその頃に比べりゃ成長するさ、あーでもたしかに谷川ちゃんはあんま変わんない?」
「そーかなー?」
「そうだよ、谷川ちゃんは……」
「そっちじゃなくて、葉月は成長って感じじゃないっていうか」
「ちょ、失礼じゃない?」
「なんというか、内面はとてつもなく変質してるのに表面が変わらない、って感じ? 成長ってもうちょっと表面に出てくるのかなぁって」
不味い、やはり彼女は本質を見抜く。私の醜い黒い何かを、まだ何も知らない無垢な彼女に見られたくない。
「……それってさ」
「ん?」
「私の、一向に成長の気配がみられない胸の話をしてる?」
「えっいやその」
「うん、たしかに私、気にしてる、内面は変わっても変わらない表面をね」
「ちょ、あくまであれは例えで……」
「もーゆるさないかんな! 絶交、絶交だよ!」
「……何分絶交するの?」
「今回は五分間、ほら、体温まったでしょ?」
「ふふ、そうだね」
卑怯な言いがかりに五分間の絶交宣言、客観的に見れば理不尽極まりないが、二人の定番の会話でもあった。
夜九時、部屋に戻ると先程同様ベッドに飛び込んだ彼女は、爆睡していた。
「まったくもー、お疲れ様」
彼女の異次元の脳は、バッテリー切れが早いようで、人よりも長い睡眠を取る。案外頭蓋骨を開けたら高性能CPUでも詰まっているのかもしれない。
私は就寝前のルーティーンを一通り終わらせて、彼女の寝顔を盗み撮り、待ち受けに設定し、寝ようとしたところで、机の上に置かれた何かの冊子に目が留まった。
「谷川ちゃんの、手帳かな?」
学校で何度か見た覚えがある。ちゃらんぽらんな彼女の意外にも几帳面な一面に驚いた覚えがあるが、彼女の場合は、手帳で管理しないとまともな学生生活を送ることもままならないらしい。
「……ちょっとだけだし」
私はイケナイ子である。17歳は子なのかは置いておくとして。
ペラ、ペラと紙がめくれる音がする。自分の行為とは思えないほど、緊張感があった。だが、日程の部分は特別面白いことは書いてなかった。スケジュール管理に独創性を発揮しても困るというのは当然であるけども。
だが、だからこそ、メモの欄を見て絶句した。
「……数式? リーマンゼータ関数の零点? 次のページは……」
きらびやかな女子高生の字とは思えない、殴り書きのような文字で、私の理解を越えた世界を作り出していた。いつぞや彼女から渡された本にあったような文字列らしきものも見えた。
「……届かないなぁ」
大浴場での彼女の指摘は、まさしく私の本質をついていた。芯の奥底の、内面では嫉妬の炎を燃やしておきながら、それを全く表に出さずにのらりくらりと生きている。また、自らの能力を進歩させようと、彼女に打ち勝とうと、自らの表面を磨こうとすることも、すべて諦めていた。
「私は」
彼女の天才さに甘えている。天才だから、追い付けない。嫉妬はするくせに、そういって諦める理由を探し、努力しない理由を探した。
「……ごめん、谷川ちゃん。私とはサヨナラだ」
そう呟いて、自分のベッドにもぐる。行かないで、と声が聞こえた気がするが、幻だろうと決めつけた。
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