小心者の入退院始末記

沢藤南湘

小心者の入退院始末記

 佐渡隆史は、主治医Nから健康診断の結果を聞いていた。

「佐渡さん、胃と大腸は問題なかったけれど、食道に異物のようなものが見つかりました」

「まさか、癌ではないでしょうね」

「生検の結果を待たなければ明言できませんが、癌で間違いないと思います」

 隆史は信じられないと思うと同時に、非難めいた口調で言った。

「先生、一昨年胃カメラをやっていますが、問題なかったじゃないですか」

「佐渡さん、早期に見つかってよかったですよ。生検に出しますので、一週間後に来てください」

 Nはすげなく言った。

 隆史は悲観的な思いで一週間を過ごして、主治医Nに面談した。

「佐渡さん、やはり、食道癌です。紹介状をS大学病院のT先生に書きますので、S大病院に持っていってください。T先生は優秀な先生ですから心配しないでいいですよ」

「入院するようですか」

「はい」

 隆史は今まで入院したことはなかった。

「まさか入院なんて、なんで検査で大腸ポリープのように切除できなかったんだろう。癌は二人に一人かかる病気だと言われているけれど、まさか俺が食道癌になるとは」

 なかなか現実を認めることができなかった。

 翌日、隆史は妻と緊張しながらS大病院を訪れた。

 そして、T医師はパンフレットを開いて、手術内容を説明した。

「内視鏡を使って、ESDという方法で癌を除去します」

 パソコンに映し出されたNの撮影した隆史の食道の写真を示し、この部分だと言った。

「入院は一カ月後になります」

「何日間になりますか」

 隆史はやっとのことで口を開いた。

「六日間です」

 落ち込んで隆史は妻と会話をすることもなく、家に帰った。

 それから一週間、隆史は咳、そして、三十七度前後の微熱に悩まされた。

 熱が下がらないため、入院二日前に病院に電話を入れた。

 インフルエンザかコロナだった場合、入院患者に感染させたら大変だとの思いからだった。

 隆史は入院が遅くなることも若干期待していた。

 医師から、当日、病院に来たらまずは検査を受けるよう指示があった。。

 当日、隆史は妻とともに検査室を訪れた。

 検査前、救急車のサイレンが聞こえた。

 しばらくすると、心配そうな顔の女性が、扉前で落ち着きなく立った。

「身内の人間かもしれないな」

 救急隊員の男性が部屋から出てきて、

「先生にお任せしました」とその女性に言って、立ち去った。

 すぐに看護師が、扉を開けて出てきた。

「娘さんですか」

「はい」

「九十五歳のお父さんは、今誰とお暮しですか」

「一人暮らしです。時々私が見に行っています」

 看護師は絶句した。

 九十を超える妻の両親が、つい最近施設に入ったばかりだが、この女性の父親が一人暮らしをしていることに、隆史は驚いた。

 妻の両親に施設に入ってもらったのは、家で火事を起こすことを心配したためだ。

「きっと、あの人たちには、特別な事情があるに違いない」と、隆史は同情した。

 看護師が、隆史の検査結果を知らせに部屋から出てきた。

 検査結果は、どちらも陰性だった。

 ほっとした隆史は、入院手続きを終えて入院病棟の一室に入った。

 カーテンで四つに区切られていた。

 隆史の場所は左奥の窓側で、南側の街を一望できる気持ちの良い場所だった。

「景色がいいね」

 隆史は、一瞬入院することを忘れた。

「よかったわね」

 看護師との打ち合わせを終えると、

「そろそろ帰るわ。また夕方来るから」

 夕方に切除が予定されたので、妻は来るといった。

「わかった」

 隆史は、妻に手を振って見送った。

「佐渡さん。点滴と心電図をつけます」

 看護師が、手ばやに装置した。

 入院という現実に直面した隆史、手首に針を挿入され、点滴スタンドから点滴液が流れるのを見た。

 身の自由もそれにより拘束された。

 不安が募ってきた。

「疲れた」

 ベッドに横たわると、隣から話し声が聞こえてきた。

 隣人は、これから退院だと奥さんに話していたが、どうも完治しての退院ではないらしい。

 退院して、主治医で治療を受けることになっているようだ。

 そうはいっても羨ましかった。

「これから六日間か。長いな」

 医師から事前に聞いているものの、この入院でどのようなことが行われるのか、心配いや不安になってきた。

 普段の生活なら、一週間はさほど長いとは思わない隆史だった。

 午後に、新しい隣人が上階から移動してきて、さっそく看護師に質問する声が聞こえた。

「なぜここに移動したんだ。もう俺の命、危ないのか」

「あなたは差額ベッドを希望していたので、空きが出たので移動したんですよ」

 納得したらしく、静かになった。

 夕暮れ時、車いすに乗せられた隆史は看護師に押されて、内視鏡室に移動した。

 隆史は、看護師と一言二言話をし、全身麻酔をかけられ直ぐに意識を失った。

 全身麻酔も初めての経験だったが、こんなに早く効くものかと後で驚いた。

 目が覚めた時には、部屋のベッドに横たわっていた。

 部屋は静かだった。

「八時ころかな」

 トイレに行きたくなり、ナースコールのボタンを押した。

「水なんか一滴も飲んでいないし、食事もまだとれない。ただ点滴だけでしょっちゅう尿意を催すものなのか。疲れるな」

 それからも頻繁にもよおす。

 看護師に迷惑をかけたくないので、隆史はし尿瓶を借りることにした。

「こんな形をしているのか。うまくできるかな」

 隆史は恐る恐る便を持って、排尿した。

「こぼさないようにするのは、結構難しいな」

 朝三時ごろ、隣からの看護師の声で目が覚めた。

「どうして簡易トイレでしないんですか。床がびしょびしょよ」

 隣人の声は聞こえない。

「床にする人がいるとは。看護師の仕事はなんて大変なんだ」

 その騒ぎのためか、隆史は寝れずに朝を迎えた。

「佐渡さん。部屋を代わってもらえませんか。ただ廊下側になりますけど」

 看護師長が声をかけてきた。

 どのような理由かはわからないけれど、隣の事件で寝不足の隆史にとっては、喜ばしいことだった。

「すぐにですか」

「はい」

「場所が変わったこと、見舞いに来た妻に伝えてもらえますか」

「当然です」

 隆史は、二つ返事で「いいですよ」と答えて、すぐに移動の準備した。

 その時、対面のカーテンが開いていたので、目を向けると左の机の上に心臓の心拍を計測している機械画面が置いてあり、ベッドを起こしている患者が呆然と私の方を見ていた。

「かなり重そうだな。時々、看護師ではない女性が彼の身体や足を洗いにやってきたのは、もう体の自由が利かないからなのか」

 頭を下げた隆史は、言いようのない暗さにおそわれた。

 部屋を移動した。

「前の部屋とは違い、なんて静かなんだろう」

 隆史はほっとした。

 午後三時。

 昨日の除去具合を確認するために、内視鏡室へと向かった。

 今回の検査は、部分麻酔で十分もかからずに終わった。

「全部除去されているようだ」

 T医師が看護師に話しかけている声が、隆史の耳に入った。

「そうですね」

 部屋に戻ると、妻が隆史の帰ってくるのを待っていた。

「どうでした」

「昨日の除去はうまくいったようだよ」

「よかったわね。あなた。昨日は大変だったね」

 隆史が何のことかと首をかしげたのを見て、妻が説明した。

「昨日三時ごろに再び面会に来たら、すでに内視鏡室に削除のために出払っていた。看護師が一時間ぐらいで戻ってくるから待っていたらと勧められたの」

 妻が、一息ついた

「戻ってきたのは三時間後。廊下からあなたの大いびきが聞こえたわ。看護師たちがベッドに寝かせてくれたあなたを起こすために顔をたたいたんだけど、無理しない方がよいと言われたので、帰ったんです」

「そんな長く切除に時間がかかったのか。確か目が覚めたのは八時ごろだったかな」

 隆史は、五時間ぐらい意識を失っていたのだ。

 この部屋の患者は、通路側右は隆史、その奥は糖尿病かつ胃がんの七十八歳のA氏、通路側左はお腹の石を破壊のための再入院したB氏。その奥は、糖尿病のための入院のC氏だった。

 隆史が、この部屋では一番若いような気がした

 看護師が毎日三回、血圧、体温そして酸素濃度を測りにやってくる。

 糖尿の人たちには、血糖値測定が追加されていた。

 隆史の体温と血圧の値は、相変わらず高かった。

 A氏のところに、看護師の出入りが頻繁になった。

「Aさん、このビデオを見てください」

 看護師が糖尿病関係のビデオを映し出しているようだ。

 それが終わると、管理栄養士が来て、説明室へA氏を連れていった。

 戻ってくると、インシュリン注射の打ち方を看護師が説明し始めた。

「一日、三回なんて怖くて打てないよ。撃たないで済む方法はないのですか」

「わかりました。先生に聞いてきます」

(年老いてから自分で注射を打たなければならないなんて、可哀そうだ。そういえば、大学の同期のKと入社同期のWもインシュリン注射を飲み会の前に打っていたな。Kが皆の前で打ったのには驚いたな)

 隆史も入院する一年前から血糖値が高かったので、頻繁に検査を受けさせられたが、入院前には何とか許容値内に収まっていた。

 医師がやってきた。

「Aさん。この方法しかありません。自分の身体は自分で管理しなければだめです」

 医師はそう強く言って、部屋を出ていった。


 入院三日目、がんを削除したところが閉塞しないように、ステロイドとシートの養生をするということで、夕方内視鏡室で治療が行われた。

 全身麻酔で直ぐに意識を失ったが、うつろな中でも痛さのために声を上げたのを自分でも気づいた。医師が出さない方がよいという声を聞いた。

 三日連続の内視鏡検査にはうんざりしていた。

 夜、T医師が来たので、声が出ないことと、唾を飲み込んだ後、背中に痛みが走る旨を伝えた。

「次第に治ってきます」

 隆史はそれを信じることはできなかった。


 入院四日目、初の食事は昼食からだった。

 献立は重湯、低脂肪乳、ゼリー、ジュース。

 重湯を一口食べると、胃と口目で背中に激痛が走り、顔からは脂汗が出てきたので、直ぐにベッドに横たわった。

「もう食べるのはやめだ」

 無理して、低脂肪乳とゼリーを流し込んだ。

 この低脂肪乳を全部飲んだことによって、牛乳のにがてな隆史は、その後下痢に苦しめられた。

 夕食前にT医師が来た。

「佐渡さん。予定通り明後日退院できます」

 隆史は数回礼を言ったが、このような状態で退院できることには半信半疑だった。

 五分粥、すき焼き風煮、冷ややっこそして、ヘルシージュースの夕食が運ばれてきた。

 多少食べる努力をするも、そのたびに、背中に激痛が走り食べるのをやめる。

「こんな状態がいつまで続くんだ。本当に治るのか」

 隆史は、恐怖にさいなまれた。

 趣味のグループの仲間のうち、この数年の間で二人が食道がんで亡くなっていたのを再び思い出したのだ。

入院五日目。

 雪の中を一個のリンゴを持って歩いていた。

「寒い」

 目が覚めた。

「夢か」

 昨日の天気予報によると、雪とのことだったので、隆史は廊下に出て突き当たりの窓から外を眺めた。

 闇の中を雪が、舞っていた。

「明日の退院でよかった」

 朝一番、看護師によって、点滴の針を外された。

 点滴スタンドから解放され、隆史は自由の身になった。

 朝食が運ばれた。

 トレイには、三分粥、鶏肉と卵のソテー、ぜりーそしてヤクルトがのっていた。

 多少痛みは軽減していたので、隆史は四分の一ほど口をつけた。

 昼食は三分粥、鱈の煮つけ、野菜サラダ、リンゴジュースそして、ゼリーで、三分の二ほど食べた。

 シャワーの許可が出たので、三時半に浴びる。

 しばらくして、妻がやってきて看護師から退院の手続きの説明を隆史と一緒に受ける。

「いよいよ退院ね」

「やっと帰れる。迷惑をかけた」

 妻が帰った後、隆史はベッドでラジオ聞いていると、隣人のところから、声が聞こえてきた。

「兄夫婦かな」

 声が大きいのと、近くのためかイヤホンをしていない隆史の耳に、会話がはっきりと聞き取れた。

 隣人の奥さんも他の病院に入院しているらしい。子供は息子と娘のふたりで、娘は一度も面会に来ていないらしいが、息子は、一昨日来ていたようだ。

 看護師が隣人のところに来た。

「Aさんに同居している人はいますか」

 兄夫婦に聞いた。

「息子がいます」

「電話連絡できますか」

「できます」

「患者さん一人で、インシュリン注射を打つのは無理だと言われるので、息子さんに打ち方を教えたいんです」

「電話は通じますので、ぜひお願いします」

(入院している両親の面倒をみている息子さんは大変だな)  

 隆史は、他人事ながら心配した。

(もし俺と妻が入院したら、子供たちは果たして面倒を見てくれるだろうか。子供を期待してはだめだと常々妻と話し合ってはいるが、それは内輪の話だ。このようなことは我々にとっても近未来に起こるだろう)

 隆史は、暗澹たる気持ちになた。

(寿命と健康寿命の差を極力縮めるよう、常々心がけよう)

 夕食の時間になった。

 三分粥、白菜の和え物、芋と鶏肉のごま風味噌煮そして、オレンジジュースで三分の一を食べるのが精いっぱいだった。

「いよいよ退院だな」

 隆史はほっとした。


 六日目、退院の日。

 最後の食事、五分粥、焼き魚、ポテトサラダ、オレンジジュースそして、ミニゼリー二つ、焼き魚を一口食べると背中に激痛が走り、脂汗が出てきたので、隆史は箸をおいた。

(これ以上調子が悪くなったら、帰れなくなってしまう)

 妻と娘が車で迎えに来た。

 隆史は、二人に残した朝食を見せた。

「食べると背中に激痛が走るので、ゼリー以外は残した」

「大丈夫?」

 妻が、心配そうに言ったが、隆史は、答えられなかった。

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