【短編集】あの時ナイフは私に向けられた

腹刺音

第1話 変質者にご注意

会社員の横山彩子は人事異動で勤務地が変わった。


最寄りの駅からいつも東京品川線にのって乗り換えを3回しなければならないが、所要時間はドアドアで50分で着く行き方方法。もうひとつは、自宅から10分ほど歩くことになるが蒲田田園都市線にのって乗り換えをしないで済むが、所要時間はドアドアで75分で行く方法があった。


会社の規定では「経済的な方法」を選ぶようになっているが、一人ひとりチェックできるほどの規模ではない。横山は家から歩くが乗り換えがない行き方を選んだ。


横山が使うことになる蒲田田園都市線の新田駅は駅前を抜けると途端に人通りが少なる。横山は10分の距離だからということで気にしなかった。


異動先の仕事に慣れてきた5月に会社の交流会があった。


異動する前の部署の友人と久しぶりに顔を合わせた。


「横山さん、家から遠くなったんじゃない?」


横山は新田駅を使っていることを話した。


「そうなんです。でも座って通えるので、悪くないですよ」


「新田駅って駅前にコンビニと中華料理屋があるくらいじゃない?」


その同僚は新卒で勤めた会社にいた時に新田駅の近くに住んでいたらしい。


「あそこ、時々変質者がでるんだよね。いまは環境、良くなったのかな。」


駅前の横断歩道を渡ったところにかけられている「夜の一人歩きに気を付けよう」という立て看板がかけられていることを思い出した。


彩子は懇親会を終えて帰宅につき駅に着いたのが夜の9時45分だった。下車する人はそれなりにいたが、駅前の商店街を抜けて横断歩道で信号待ちをする時には、人がばらけていった。だいたいの人は駅前のアパートやマンションや戸建てに住んでいるようだった。


信号が変わって横断歩道を渡ると、歩いているのは横山一人だけだった。


(やっぱり駅を変えない方が良かったかな?)


等間隔に設置された街灯の明かりはぼんわりと光を放つだけで、真っ暗よりはいいだろうという感じだった。


(こんなところで刺されたら、誰も助けてきてくれないだろうなぁ)


5分程歩いたところに公園があって、そこを右折すると、突き当りに自分が住むマンションが見えた。


(ここまでくれば大丈夫かな)


後ろに何か気配を感じた横山は少し顔を右に向けて、目だけで後ろを見ると、自転車に乗った人が近づいてきて、自分の横を通り過ぎていった。


自転車の人は追い抜き様にチラッと横山を見た。


(反対側を走ってくれればいいのに・・・)


一瞬これが変質者なのかと思ったが、自転車の人は2つ先の交差点を曲がっていった。


横山もその2つ先の交差点を通過しようとした時だった。


交差点の角から男の人が出てきて横山の目の前に男が立ちはだかった。


突然のことで驚いた横山は、はっと息をのんだ。


横山が男が持っているものを確かめようとしたが、役に立たない街灯の光が影になってしまってわからなかった。


「うぅっ・・・」


意図せず、横山の喉の奥から声だった。


ブスッと鈍いを立てて自分の腹部に何かが食い込んできて、男と体が重なった。



「んんぐっうぅ・・・」


何か他の事を言いたいが、言葉を選ぶ前に喉の奥から音が出てしまう。


横山は目の前の男の腕をつかみ、それを辿ると両手で何かを握った男の手が自分の腹にぴったりと付いていた。


横山は視線を自分の腹に向けた。


(えっ、うそ・・・)


横山の腹を起点に全身を駆け巡ったのは激痛だった。


ぐぅぅぅがはぁっぁぁぁ・・・


男が腹からナイフを抜くと、後ずさりするようにして彩子から離れ、そのまま駆け出して行った。


横山は腹を両手で押さえて、しばらくその場に立ち尽くした。


掌がべっとりと生暖かい液体がつきまとった。


右手を目の前で確かめると、該当の薄明かりに照らされた掌はどす黒く赤く染まっていた。


臍の下あたりから、彩子の心拍数に合わせて、血がドクドクと流れてくる。


ワンピースが血で染まって腹にまとわりついていくのを感じた。


視線の先には自分が済むマンションが見える。


横山は何とか家に辿り着こう、腹を両手で押さえながら、よろけながら歩き続けた。


ああぁっ・・・痛いぃ・・・


夥しい血が腹から流れ、横山の歩調に合わせるように血が蛇行するように道路にポタポタと垂れる。


横山はガードレールにしがみつくように、しゃがみこんだ。


血がドクドクとワンピースを染めて、太ももや臀部などがべっとりと血で染まっていくような感じがした。


ふわふわしていたワンピースが自分の地肌にべっとりと纏わりついているのがわかった。


左手でガードレールにしがみつき、右手で再び腹を押さえる。


傷口から何かがはみ出しているようだった。


血は止まることなく、むしろ勢いを増してドドドっと流れ出てくるが、同時に腹の傷口から腸管が溢れ出てくる。飛び出してくる腸を右手で停めようとするが下腹部に収まっていた腸は留まることなく血と一緒にヌルヌルとはみ出してきた。


うぅぅーんんぅぅぅんんぅぅ・・・


横山はその姿勢でも耐えるのがしんどくなり、そのまま仰向けになった。


飛び出した腸を両手でつかんで身をよじった。


横山の呼吸は途切れ途切れになり、時々ビクンビクンと痙攣して、動かなくなった。


意識が遠のいていく・・・


通りがかった人なのか、自分に話しかけてくる人がいる。


「大丈夫ですか。誰にやられた?」


もう答える意識はなくなっていた。


遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきたような気がした。


(誰か助けてくれるのかな・・・)


横山はそこで事切れた。

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