ひなまつり計画。それは予めセットされたマーダーケース
柴田 恭太朗
花粉舞う日本に戻ってきたスパイ
ブリッツはドイツから来たスパイ。典型的なゲルマン人である。高い身長、引き締まった筋肉質の体躯。直線的な輪郭の顔、濃い眉、高く細い鼻梁、そして口元は真っ直ぐに引き結ばれている。
髪の毛は濃色でシルクのような光沢をもち、軽くカールしている。短くまとめられたヘアスタイルは清潔で、誰にも好かれる。肌はそばかすのかけらが残る
そう、ヤツである。完璧なスパイのブリッツが日本へ帰ってきたのだ。
◇
ブリッツは都内に立地するとあるマンションに現れた。五階建てのマンションは豪華でこそないものの新築らしい清潔さに満ちている。
すでに簡単な問答はマンションロビーですませてある。彼はターゲットの家の前に立つと、ためらいなく呼び鈴を押した。
ベルのコールを待ちかねていたように、若い女性が玄関のドアを勢いよく開けた。
「あらぁブリッツさん、おひさしぶり!」
ミズキである。彼女は髪を明るい茶色に染めた陽気な女性。ブリッツの目には二十前後に見えたが、得てして東洋人は若く見えるものだ。なんにしても年齢は重要ではない、ドイツから来たスパイの目的はその室内にあった。
「ブリッツさんって、あいかわらず花粉症ですの?」
小綺麗なダイニングへ彼を招じ入れたミズキは小首をかしげて問う。
「あいかわらずです」
一流のスパイ・ブリッツの日本語は流暢だ。二年前、ミズキと知り合ったきっかけもこの花粉症であった。止まらぬ鼻水から『ヌルヌルズィーベン(007)』と後ろゆび指されるほど日本の花粉に悩まされていたブリッツに、花粉症の薬を紹介してくれたのが彼女だ。それだけの関わりと思っていたのだが、ブリッツが所属するスパイ機関からの
「ブリッツさんが日本のおひなさまに興味をお持ちなんてビックリですわ」
ミズキはダイニングの壁際にセットされた三十センチ四方のガラスケースを指で示した。
「これがおひなさま? 可愛いですね」
ブリッツはひな人形を鑑賞するそぶりを見せながら、心の裡で思った。
(開けっ広げなキャラのミズキに警戒すべきところなど見あたらない。これはスパイとしての私の勘だが一度も外れたことはない。危険性があるとすれば彼女のダンナか。いまは留守にしているダンナが敵のエージェントという可能性は大いにある)
「可愛いでしょ? 二歳になる娘に買ったおひなさま」
「ひなまつりでしたっけ? 日本では子どもの健やかな成長を願って人形を飾るんでしたね。ドイツにはない風習でとても珍しく思います。ケースを開けてみてもいいですか?」
「ええどうぞ」
ミズキは外国人が日本古来の風習に惹かれているのが嬉しいのか、彼の頼みを笑顔でこころよく応じた。やはり彼女には警戒すべき点はない。ブリッツは早めに懸念点を払拭しておくことにした。
「ところで」
「はい?」
「ダンナさんはどちらに?」
唐突な質問だと、ブリッツ自身が思った。しかし仕事をスムーズに進める上で、不明確なところは早めに明らかにしておくのが彼の流儀だ。
「はい……?」
美形スパイの質問を何か違う意図と勘違いしたのだろうか、ミズキは眼を見開き頬を赤く染めた。
「夫は出張で明日の夜まで帰りませんけど……それが何か」
何かと言いつつ上目遣いになるミズキ。ブリッツはそんな彼女を美しいと思った。が、よくあるスパイ映画でもあるまいしそんな余裕はない。
(ダンナがいないとなると、警戒すべきは何だ? ひな人形のケースに仕掛けがセットされているのだろうか)
「すみません、不慣れな私が開けるとケースを壊してしまうかも知れない。ミズキさん、あなたが開けていただけますか?」
ブリッツは丁重に依頼し、二つ返事でガラスケースを開けるミズキの背後に移動した。ケースに吹き矢か小規模な爆発物などのブービートラップが仕掛けられていたときのための用心だ。
……何も起きなかった。
「どうぞ、ご覧ください」
背後に回ったブリッツの思惑を知らず、ミズキは上機嫌でひな人形を示した。
「見れば見るほどキレイですね。人形の肌がとてもなめらかだ」
ひな人形を評価しつつ、ブリッツの眼は人形に隠されているという鍵を求めて素早く動いた。だが、ひな人形たちは薄く微笑みながらちんまりと座っているだけ。外見から鍵を探しだすことはできそうにない。そこでブリッツは一計を案じた。
「いかん、鼻水が」
ブリッツは天井を向き、あわてた様子で鼻を押さえた。もちろん演技である。しかし、出会いが彼の花粉症がキッカケだったことが功を奏し、ミズキはすぐに彼の危機を察した。
「これ使って!」
ミズキはダイニングテーブルの上からティッシュの箱をひっつかんで、ブリッツに差し出した。
「それダメです。私の鼻はドイツ製のティッシュしか受け付けない」
「そんなぁ」
ミズキの眉が下がって困った形になった。そんなバカな話があるかとブリッツ自身も思う、しかしいまはそのムリを押し通すときだ。
「駅前のドラッグストアにドイツのティッシュがあります、急いで買ってきてください。さもないとひな人形に鼻水が垂れますッ」
「そんなぁ」
再びミズキは困った顔をしつつ、外国から来たゲストのたっての頼みとあってサイフをつかみ大急ぎでダイニングを出た。だが、玄関の前で何かを思い出したようにスリッパをパタパタと鳴らしながら引き返してきた。
「寝室に娘が昼寝していますが当分起きないと思うの。もし起きてきて泣いたらテーブルの上のジュースを飲ませて」
ブリッツがテーブルを見ると確かにアップルの缶ジュースが置いてある。娘は確か二歳だといったな。起きてきたらジュースでご機嫌を取りつつママの帰りを待たせればよい。
「わかりました。早く買ってきて」
ブリッツは大げさに鼻をすするフリをしながら手を振り、ミズキを急かした。
玄関ドアがバタンと閉まる音を耳にし、彼はスパイの顔に戻った。
駅前のドラッグストアまでの距離を考えると、ミズキが戻るまでたっぷり十五分はある。その間にひな人形から鍵を見つければ良い。鍵の大きさや形がわからないが、ターゲットは小さなケースに収まる人形の中にある。最悪の場合はケースごと持ち帰えればいいではないか。警戒レベルの高い計画どころか、実にイージーなビジネスである。
それにしても、なぜ人形なのか。昔ばなしにも、くるみ割り人形や鉛の兵隊人形が登場するが、日本のひな人形というのは初耳だ。新しい趣向だ。本国ドイツから遠く離れた東洋の国に鍵を隠せば、確かにそれは見つからない。それにしても……とブリッツはいぶかった。
「そこまでだ」
ブリッツの背に固いものが突き付けられた。確認するまでもない、それは銃口の感触だ。油断しきっていた彼はなすすべなく両手を上げた。
「そのままゆっくりこちらをむけ」
たどたどしい発音。まさかと思いつつ振り返ったブリッツが見たものは……。
(ここは日本。そういえば高校生が子どもにされて活躍するアニメがあったな。あれ実用化されていたとは)
スパイは『後悔』という言葉の意味をかみしめた。
日本に来なければ幸せなスパイ人生をまっとうできたのに。
残念な男。それがブリッツ。
完
ひなまつり計画。それは予めセットされたマーダーケース 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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