第2話 人類の偉大なる第一打……?
1971年2月。
月面、フラマウロ丘陵。
疲れた。
「ホールインワン」レベルの着陸が出来たと言っても。
月面の重力が地球の1/6だとは言っても。
質量は質量だ。
生命維持装置を含めると80kgもあるこの宇宙服を着こんで1.5kmも、探査機材を載せた手押し車……300kgほどあるのを押して進んだ。
地上で数えきれないほど模擬訓練を重ねたが、地球生まれ地球育ちのミッチェルとアランにとっては「宇宙服と自分を足して160kg近い質量、しかし重量は1/6」と言う事実がどうにもキツイ。
地球の1/6の重力しかない月面にしっかりと足を踏ん張っても、靴裏を月面に食い込ませても。
仮に摩擦係数が乾いたアスファルト並みの「1」だったとしてさえ、月面重力下では30kgに満たない力でしか押せない。
しかもここらの月面には細かな砂塵がビッシリで、踏ん張ろうとしても滑る。摩擦係数は大雨の路上なみ。
氷の上でこの手押し車を押すつもりで慎重に足を踏み出しても、それでも足は頼りなく滑る。
そして滑り出した身体と服には160kg近い質量がある。
滑り出した身体を止めるために使える摩擦力は、地上で言えば溶け始めたアイスバーンと同じ。
それを苦労を重ねて手押し車を目的地へ向けて加速しても、この問題は続く。
月面の凹凸で左右に滑り出すのを感じ取り足を踏ん張ると……またもやアイスバーンなみの摩擦力しかない。
手押し車を減速するときも同じく。
データリンクを介して地球からモニターしている医官が「心拍、血圧、体温、そして呼吸。二人とも、疲労の極限が近い。戻って休憩するように命じてくれ」と判断を聞いたグリフィンが命じてくれた……と言うべきか?
天文学者がここ、フラマウロ丘陵を選んだ理由と「そこ」から1.5km離れた場所を着陸点に指定した理由そのもの。
月面の基礎岩盤が露出しているはずのクレーターにたどり着けなかった。
後から、これを月周回軌道上のCMから見ていたルーサに聞いたらそのクレーターの縁まで残り20mだったらしい。
天文学者たちが歯ぎしりしながら「飛行士の安全が優先」と自らを言い聞かせる声は、CMにまで届いていたと言う。
まあこのフライトの目的は「月面着陸に成功して生還すること」だ。探査はオマケだ。
天文学者が望む本格的な探査は15号以降に任せよう。
15号以降のクルーには月面車と言う素敵な乗り物が与えられる。
キャディラックの足回りとシャシーに宇宙探査機用の電源とモーター。絶対にパンクせず、月面の砂埃にガッチリと食いつくステンレスワイヤー手編みタイヤ。
それをボーイング社が組み上げた全米オールスターチームの作品だ。
14号が持ち込んだ手押し車は月面車の代用品に過ぎない。
だが任務のフルコンプを逃したのはやはり、ガックリだ。
つい先ほどLMの傍に帰り付いて、キャプテンといっしょにLMの脚にもたれて休憩した。
座らなかったのは、この宇宙服は真空中では「座る」動作が出来ないからだ。
真っ白な綺麗な外見してるがそれは真空中で浴びる太陽光を跳ね返すための外皮だ。
その下はあれだ、ミシュランマン状態だ。
「さて。第1回の船外活動を終える前に、予定のイベントをやるぞ」
キャプテンの声が無線を通じて聞こえた。
機外活動開始直後に設置した、テレビカメラの被写界へと戻ることにしようか。
その前に、マイクオフにして宇宙服ヘルメット組み込みの水筒から水を啜る。
カメラを設置する前にイベントはあった。
「長い道のりだったが、ここまで来た」それがキャプテンの月面への第一歩を記念するコメントだった。
11号のアームストロングが発した「これは一人の男の小さな一歩。そして人類の偉大なる跳躍」(実は、用意した台詞を土壇場でトチッた)とか12号のコンラッドの「ヒャッハー!ニールには小さな一歩かもしれねぇが、俺にはデッケエ一歩だ!」(NASA広報が用意して暗記させた台詞を完全無視)と違うのは。
キャプテンが乗り越えた「長い道のり」を知る人間にしか本当の意味が分からないことだ。
ついさきほど、オマケ任務から帰り着いて。
このLMの脚構造を通じて聞こえたキャプテンの呟き……無線マイクをオフにしていたから放送には乗ってないし、ヒューストンにも聞こえてない呟き。
「ディーク、この光景を見せてやりたいよ。……違うな。ディーク、『その日』は俺に来た。お前にも絶対に、来るさ」
思わず「そうさキャプテン、ディークの不整脈は必ず治る」と言いそうになった。なんとか堪えた。
お互いにその後は無言で休憩した。
実際のところはまだクタクタだ。
「イベント」はLMの中でひと眠りしてからにしたい。
しかし「偉大なる第一打」プロジェクトがついさっき、マスコミに漏れたとヒューストンが短いコード(暗号符丁)で伝えて来たから、やるしかない。
延期したら全米の納税者がガッカリする。
こんな状態でキャプテンがちゃんと振れるか心配だが漏れてしまった「月面ゴルフの時間」は待ってくれない。
「さて!14号の1st月面歩行探査を終える前に!」
おいキャプテン、そんな声でシャッキリ立つ元気をどこに隠してたんだよ。
まさか、さっき。
あの手押し車が、まるで一人で押し引きしてるような苦労があったのは……。
いや、勝手な想像は止そう。
予備の月面サンプル採取ツールを手にキャプテンがカメラの被写界中央に戻った。
俺はこのイベントではカメラ係。
「人類の偉大なる第一打」を現地中継するカメラマンだ。
「今。14号キャプテンである私。宇宙服に赤いリストバンド付けてる私、アラン・シェパードが手にしているのは予備の月面サンプル採取ツールです」
カメラをちょいと下に向ける。
「よっく見てみましょう」
カメラを採取ツールの先端に向けてズームイン。
「はい、このシャフトは中空です。ネジが切ってあるのは組み立て式だからです。エクステンションシャフトをねじ込んでもっと長くすることも出来ます」
が、今のその長さはキャプテンがランニングに使ってる6番アイアンの長さと一緒なんだよな。
ちょいとズームアウト。
キャプテンの全身を写す。
「そしてここに、月面に置いてくることが許された私の記念品ボックスがあります。今カメラを操作しているLMPも同じボックスに、別の記念品を持参しています」
キャプテン。やっぱヘトヘトだな?
しゃべって、体力回復するための時間稼ぎしてるな?
「私が持参した記念品は長いこと愛用してきた6番アイアンのヘッドと、ゴルフボール2個!」
今ごろ、ヒューストンでは管制官の大多数が驚いているはずだ。
国費で月面まで行ってゴルフっていうこのイベント。本当にごく一部しか知らない秘密だったからな。
「実はこの、長いこと待った旅の前に。この6番アイアンのヘッドには細かな加工をしてきました」
1970年12月、ヒューストン。
その加工済み6番アイアンを予備の月面サンプル採取ツール先端に組みこんで、最初の練習。
キャプテンは宇宙服と言うゴルフウェアでどうやってスイングするか。俺はそれを撮るカメラマンとしての練習。
それをなんとか終えて、地上訓練用の宇宙服から着替えて戻ったら我らが飛行士のボスから呼び出しが掛かった。
14号クルー全員に。
ディーク・スレイトンは自分のオフィスで、何か紙切れを手に首をかしげていた。
「うーん……これは『月面ゴルフ注意書』なんだが……俺には何書いてあるのかさっぱりわからん!」
ディークは良い上司だが、欠点はゴルフをやらないことだ。
「けど、14号クルーは3人ともゴルフプレイヤーだよな?」
そうだよディーク。
しかし?
用件がそれならなんで3人とも呼び出した?
「ミッチェル。アランと一緒に降りてカメラマンやるのはお前だから、読んでくれ」
ディークが命じたので、注意書を受け取る。
丁寧な文字で手書きされた注意書を一読して、思わずディークの顔を見てしまった。
ディーク、実はゴルフ用語知ってるな?
それは今、指摘しないけどさ。
「その1。
月面は真空であり、ゴルフボールは空力効果を受けず必ず放物線飛行する。
しかし月面でどのように跳ねるかは予想しがたい。
これは月面の石等の物性に未知が多いためであり、致し方ない」
「判ってる。だからフラマウロ丘陵から打ち下ろしで打つ」
「その2。
ボールがLMに当り損傷することを厳重に防止せよ。
前例ゼロのショット・オン・ザ・ムーンはミスする前提で記す。
ミスショットしたボールがLMを損傷する事故を防止するためにティーグラウンドの選定および打撃時のスタンス決定を行うこと。
状況別の具体策は唯一のプレイヤーが決定し、そのプレイヤーよりもゴルフに熟達した者2名の査読を受け提出すること。
査読者は宇宙飛行士室長がヒューストン近郊より選定、守秘契約するレッスンプロとする。
査読者2名の合格を得た策の提出なき場合、許可しない」
「そこだ。コンラッド&ビーン並みにホールインワン着陸できれば、無人探査機画像から選定した場所で打つんだが。11号みたいに『コンピューターがレーダーエコーから選んだ最終着陸点にはデカイ石がゴロゴロ、緊急手動操縦&手動操作』なんてことになったら、ちと厳しいぜ」
ルーサが指摘する。
「さきほど試した6番アイアンのヘッドは、俺がゴルフ始めた時に買ってからずっと使ってる品だ。そういう場合、ショットは諦め記念品として月面に置いてくる。それだけで満足だ」
キャプテンが答えた。
妙にしんみりする。
「その3。
現地環境を実地確認するまでは実施の可否を保証できない。
よって14号エクストラミッションは当日まで、報道官および管制官に対しても開示しない。
宇宙飛行士室長は14号クルーに伝達後、確実に本指示書を回収すること」
……誰だよこの注意書を書いたのは。ちとハイじゃねえか?
「その4。
再度記す。
月面は真空であるため空気抵抗ゼロ。かつ重力は地球の1/6であるため、キャリーは地球上の前例による推測不可能、ランも同じく」
キャプテンが頷いている。
「その5。
よって、エクストラミッションの所要時間予測も困難である。
まことに残念ながら、ランニングもラウンドも許可できない。
厳守」
キャプテンの、愕然たる顔。
ディークが声を殺して笑っている。
「……つまり、2個しか持って行けないボールを1回ずつ打つ。それだけ……」
キャプテンが声をなんとか絞り出した。
ディークが口を押え、キャプテンの顔を指さすやデスクに突っ伏し、苦しそうに震えながらデスクを叩き始めた。
「これがもう少し早く判ってれば6番アイアンじゃなくてメタルのドライバー・ヘッドを加工に出してたが、今からじゃ加工が間に合わん……」
アランが呻く。
「以上を『全て』守る限りにおいて、存分にゴルフを楽しみたまえ。作成、1970年9月20日」
「……おい。注意書の作成は3ヶ月前、申請私物の各テストが終わったころだな。テスト結果と一緒に来なかったのは何故だ?」
これは今は言わないけどさ、キャプテン。
今年の9月20日は、日曜日なんだ。
それに、タイプしたみたいに丁寧な字だから俺も今になってようやく気づいたけど。
この類の文書が「手書き」なんてことは。
デスクを叩きながら声を殺して爆笑してる我らがボスの古巣つまり空軍じゃどうか知らないが。
どれほど丁寧な字で書いていても、海軍やNASAではありえないことだ。
「おいディーク。どういうことだこれは」
キャプテンの険しい声に、ディーク・スレイトンはついに床に転げ落ちて身をよじりながら笑い始めた。
チラリとキャプテンの顔を見て指差し、再度こみ上げる笑い声を掌で押さえつけ、痙攣するように笑う。
収まり掛けるとまたキャプテンの顔を見て指差し、再度笑う。
それを繰り返す。
楽しそうだなディーク。
注意書をキャプテンがひったくった。
「……お前の字じゃねえかディーク!おい、これはなんのつもりだディーク。答えろこの空軍野郎!俺の顔見て笑い足すの止めろ、空軍野郎!答えろディーク!おいディーク、この空軍野郎!答えろディーク!この空軍野郎!」
この日、キャプテンが宇宙飛行士室長を罵る声は飛行士待機室にまで響いた。
だが「何に関する意見衝突か」は誰にもわからなかったらしい。
なにしろキャプテンはひたすら「答えろディーク、この空軍野郎!」を繰り返すばかりだったのだ。
待機室の飛行士たちから俺とルーサは「何があった?」と聞かれたが「14号には極秘ミッションがある」とだけ答えた。
嘘はついてない。
1971年2月5日。
月面、フラマウロ丘陵。
「この通り、6番アイアンのヘッドをサンプル採取ツールの先端にねじ込みました。真空中でのネジ組付けは意外と困難なものですが、その制約を乗り越えた見事な加工です。これでサンプル採取ツールが6番アイアンとして使えます」
真空でダイレクトに太陽光を浴びた、月面活動用宇宙服なしで触れば火傷するはずの6番アイアンと採取ツール。
普通の加工だとねじ込むどころか接触させた途端に、地上ではありえない「アルミ合金と鋼の蒸着」が起きる。
だが、まだ加工できる業者が少ない耐真空テフロン加工で蒸着を回避している。
去年の4月から9月。
ディークの指名で13号の火災事故を踏まえた再発防止策がどんな内容で進行状況はどうかの確認と報告を命じられたのは俺だ。
だから、飛行士の中でテフロン加工による真空中での金属保護というものに詳しいのはたぶん俺と、俺から報告を受けたディークだ。
ディークは昨年の9月には、ヒューストン近郊で耐真空テフロン加工できる業者とか、発注してからの納期とかを知っていたはずだ。
「今年1月末のフライトに間に合わせるには、その前年11月に発注してギリギリ」と。
さて、月面における「人類の偉大なる第一打」の準備は整った。
このゴルフウェアでは片手打ちしか出来ないが、地上練習ではそれでも6番アイアンで平均150飛ばした俺のゴルフの先生だ。
アランはLMに背を向け「ミスしたときには人間の骨格構造上、必ず6番アイアンが斜め外に向かってヒットしボールが遠い方に飛ぶ」ようにスタンスをとった。
この、ミスすれば必ず「地球上なら大スライス」するスタンスはレッスンプロ2名の徹底査読と実演&指導によるものだ。
第一打が振り下ろされた。
真空中だから、6番アイアンがボール手前の月面を叩く音が足裏から響くまで何も聞こえなかった。
これも地上ではありえないことだが、砂埃が「放物線を描いて」散った。
大ダフリ。
「……少し手前を叩きましたが捉えました」
どこまで飛んだか手をかざして追うキャプテン。
うん。
このゴルフウェアに組み込みのグローブは、ゴルフグローブとしては失敗作だ。手応えは判りにくい。
しかも、やっぱりヘトヘトだ。
「捉えた」と錯覚しても決してヘボゴルファーだからじゃない。
だから、地球で見てる人達。
足元でほんの少しだけ転がったボールに気づかずに「どこまで飛んだか見てる」のは、下手なわけじゃないんだ。
アランはゴルフ上手いんだ、ハンデ5だ。
「うーん、打球がどこまで飛んだのかは見えませんでした。時間もありませんからロストを宣言し、2球目をドロップします」
声を掛ける前にアランはドロップしてしまった。
白いボールがゆっくりと落下し「ロストボール」のすぐ傍に落ちた。
白く輝く月面の中、アランは全く気付いた様子なしにアドレスに入った。
ああ、なんてこった。カラーボールを持ってくるべきだと、俺もルーサも、アランも気づかなかった。
今ごろ「ロストした1球目が足元に転がってる」ことに気づかずに慎重にアドレス開始したアランの姿を見ながら大笑いしている人がいる。
白い月面に落ちたボールをテレビ画面を通して見つけるのは難しいが、そう。
11号と12号が持ち帰った月面サンプルがどんな風に輝くかを良く知ってる人はアランの足元に転がってるボールを楽に見つけるはずだ。
例えば宇宙飛行士室長とか、ディーク・スレイトンとかなら見つけるはずだ。
「人類の偉大なる第一打」は、足元への「チョロ」だったと。
2球目は、アランの6番アイアンは見事にヒットした。打球は無音で、放物線を描いて減速しないで飛んでゆく。
無音で飛ぶ物体をカメラで追うのがこれほど難しいとは!地球でのカメラワーク練習が逆効果だ!
「地球では絶対に無理なキャリー。マイルは行ったでしょう!」
さすがにマイルは……ランを含めれば行ったかもしれない。
さて。
地球で見てる人のほとんどは1球目の行方に気づかない。
……「人類の偉大なる第一打」は物凄いキャリーで、しかも無音で飛ぶから現地カメラマンも行方を追えなかった。
そう、そうなんだ。
ディーク・スレイトンとか宇宙飛行士室長とかは「第一打は『チョロ』だ」とか言うかもしれないが。
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