灯明守の猫 外伝「孫詠挽歌」
川
巻之二〇二五・壽華大姉霊位
──櫛で髪を梳きながら、祖母と過ごした日々に思いを馳せる。
──慈愛に育まれたことへの恩、多くの知慧を授けられたことへの恩。
──手料理の味と香りに包まれた家族団欒の喜び。
──枕を並べて一緒の布団で眠ったときの温もり。
──涙を受ける盃の中に、在りし日の祖母の記憶が映しだされる。
──現実には見えていない朔の夜の月が、盃の水面に映っている。
──現実には見えていない花弁が、盃の水面に映っている。
──これこそがまさに夢のような幻である。
──再び会うその時まで、安らかに眠らんことを切に願う。
──これから歩みゆくその道が、善き旅にならんことを切に祈る。
◆ ◆ ◆
祖母が亡くなった夜から、あまり眠れていない。
その日もなかなか寝付けずにいた。
横になっていても眠れる気がせず、私は蒲団から出た。
私はゆるりと、襖のある方に移動する。
引手に手をかけて、襖を開けた。
座敷は仄かに明るい。
幽かに甘い白檀の香りが鼻を掠めた。その先には。
私は畳を踏みながら祖母の柩の前に辿りつき、膝を折った。
窓を開け、身を乗り出して覗き込んだ。
祖母は穏やかな
本当は、ただ眠っているだけなのかもしれない。朝になればいつものように目覚めて、笑いかけてくれるのではないかとさえ思えるほどに、善く眠っていた。
悲しくないわけではない。
寂しくないわけでもない。
だが、
不思議と涙ひとつ零れない。
虚しさだけが残った。
私は窓を静かに閉めて、線香を新たに焚くと、座敷を出た。
確か、預けておいたものは庫裡にあるのだったか。
私は廊下を抜けて、
ひやりと冷たい陶器らしきものに指先が触れた。
あゝ、見つけた。
私は盆を持ち、立ち上がって、広縁の方向に移動する。
堂于は海にせり出すように建てられており、海に面して廻廊があり、内縁になっていた。
躰を返して、再び框に手をかけて、静かに閉めた。
ぎし、ぎし、と床板が鳴った。
私はゆるりと広縁の端まで進み、腰を下ろした。
持ってきたびいどろに酒を注ぐ。ひとつは傍らに置き、もうひとつを手に欄干に凭れると、空を見上げた。
新月はまだ見えない。朔の夜であった。
ゆっくりと杯を傾けようとした刹那。
「眠れないのですか」
女の声が聞こえた。
私はそっと、声が聞こえた方向に目を向けた。
そこには黒衣の女が立っていた。墨で染めたように真っ黒な着物を纏っている。
はて、このような世話役は居ただろうか。
初めて見る貌だ。
私は問う。
「失礼ですが、貴女はどちら様で──」
「私はただの灯明守。今日の今宵、一夜限りの夜伽を勤めまする寝ずの番にございます」
女はそう答えた。
「然様でしたか。これは、これは祖母を何卒お願い申す」
「扠、貴方様も裡へお入りください。夜風は御身体に障りましょう」
「いえ。少しだけ此処に居させてもらおうかと。祖母が帰ってくるような気がして」
「心配なさらずとも、お祖母様は帰って来られましょう」
女は言った。
「そう思われますか」
「ええ」
女は答えた。
「貴女も如何でしょう」
祖母が好きだったのですと、私は言って
「ええ。一杯だけ頂戴いたします」
女は妖艶に笑む。
「おや、杯が一つ足りませんね。持って参りますゆえ、暫しお待ちくださいませ」
そう言って、女は腰を浮かせた。
「あの──こちらをお使いくださればよろしいかと」
私は盆の上にある猪口を指差した。
「いえ。それは」
お祖母様の酒杯でございましょう、と女は言い残して、屋敷の奥に消えた。
私は女が消えた廊下の先をじっと眺めていた。
廊下は既に暗い。
すると──。
影が濃くなった。
女が戻ってきたのだろう。そう思ったが、人の影ではない。
私は突然暗がりが怖くなった。
躰の芯が、ぞっとした。
布擦れの音が聞こえる。
息を呑む。声が出ない。
近づいてきた。
しかし、何も見えない。
怖い。
怖くて見ていられない。
私は瞼を固く閉じた。
「此処は貴様らの居てよい場所ではない。去ね」
女の怒号が響いた。白檀の匂いが一層強くなった気がした。
その時──。
私が感じていた異様な気配は跡形もなく消えた。
ゆっくり目を開ける。
目の前に、喪服姿の女が立っていた。
手には柄香炉を持っている。
申し訳ございません、と女は言って、私の直ぐ側まで進むと身を屈め、己が貌を私の貌の横に寄せた。そして、耳に息が掛かるほどに唇を寄せて、
「あれはもう居りません。どうか落ち着いてください」
と易しく囁いた。
私は額の汗を拭った。
「あれは、いったい何だったのですか」
「あれは、此の世のものではございません。
成る程。
「扠」
私も一献いただいてもよろしゅうございますか。
女はそう言うと、私の傍らに居直り、
「銀ですか」
「いえ、錫でございます。先代が酒を嗜まれる御方でしたから。ほかにも色々とございます」
「こうしてよく祖母と二人で晩酌したものです」
「然様でございますか」
私は瓶子を傾け、差し出された錫器に酒を注いだ。
ご相伴にあずかります、と女は言って、私の傍らの盆に置かれた猪口の方を向き、己が杯を掲げて、
「献杯」
と静かに言った。
私も女に倣って、猪口を掲げた。
「お優しいのですね」
女は器の縁に指を這わせる。
「そのようなことは……」
私は気恥ずかしくなった。
ふっ、と思わず笑みが零れた。
「どうかなさいましたか」
「いえ。だだ、懐かしいなと」
祖母もよくそう言っていました、と応えた。
女は香口を取り出し、床に置いた柄香炉に抹香を焚く。
「よろしければお聞かせください」
お祖母様との想ひでを──と女は言った。
「聞いてくださるのですか」
ええ、と女は応えた。
私は目を閉じて、自製の挽歌を諳んじる。
梳髪偲日 恩育智教
馳薫味楽 枕伴温寝
涙盞偲姥 盞月映影
盞華映影 即是如夢
再会安眠 善旅祈願
すう。すう。
すう。
寝息のようである。
「お帰りになられたようでございます」
「漸く、帰ってきたのですか」
「ええ。裡でお会いになられてはいかがでございましょう」
私は首を横に振った。
「いえ。ここに居ます」
「ご随意に」
女は深く頭を垂れた。
私は障子越しに耳を傾ける。
聞こえてくるのは、
生前と変わらぬ、
懐かしい、
祖母の声。
語られるのは、
祖母の畢生。
気がつけば、空が仄かに明るくなっていた。
「そろそろ刻限にございます」
女はそう言うと立ち上がり、
障子を──。
がらりと開けた。
「
女は一礼した。
私は視線を上げる。
戸口に、赤みの淡い紫色の留袖を纏った老女が立っていた。
その顔は、祖母であった。
「嗚呼」
祖母は唇を僅かに開いた。
──いってくるわね。
そう聞こえたような気がした。
そして祖母は微笑むと、若藤の袖を翻して、消えた。
其処には何もない。
閑寂としている。
いってらっしゃい──と、私は心の中で言った。
開かれた戸口から、祖母がいたであろう場所を眺める。
燭台の蝋燭が燃え尽きて、白い煙が立ち上っていた。
私は口元に手をあて、嗚咽を漏らした。その手をとめどなく感情が濡らしていく。
空の酒杯が、涙を
灯明守の猫 外伝「孫詠挽歌」 川 @kkishinn
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