「水曜日の視線」

毎朝、会社に向かう通勤電車はいつも同じ時間、同じ車両、同じ顔ぶれだ。7時32分発の快速電車、3両目の真ん中あたり。スーツを着たサラリーマンやOL、眠そうな大学生、カバンを抱えた中学生。僕は窓際の席に座り、スマホを手に持つでもなく、ただぼんやりと外の景色を眺めるのが習慣になっている。春には桜並木が、秋には紅葉が車窓を彩るけれど、今は3月。まだ少し肌寒い空気の中、景色は単調で殺風景だ。


そんな単調な毎日に、唯一の「異物」とも言える存在が現れるのが水曜日だった。彼女は女子高生で、いつも水曜日の朝だけ僕の視界に入ってくる。背が高く、肩まで伸びた黒髪をポニーテールにまとめている。制服は紺のブレザーに赤いネクタイ、白いシャツとチェックのスカート。どこの学校かはわからないけど、彼女が乗ってくる駅は僕の最寄り駅の二つ手前だ。7時38分、電車がその駅に停まると、彼女は決まって僕の近くのつり革につかまる。


最初は気にも留めていなかった。通勤中の電車なんて、見知らぬ顔がひしめき合うだけの空間だ。誰かがどこに立とうが、何をしていようが、僕には関係ない。ただ、ある日気づいてしまった。彼女が僕を見ていることに。


それは去年の秋頃だったと思う。たまたま窓の外を見ていて、ガラスに映った車内の様子に目をやったとき、彼女の視線が僕の方を向いているのに気づいた。最初は偶然だと思った。誰だって、電車の中でぼんやりと視線を彷徨わせることがある。でも、次の水曜日も、その次の水曜日も、彼女は僕を見ていた。じっと、まるで何か確かめるみたいに。


恋じゃない。これは恋じゃないと自分に言い聞かせている。だって、僕は28歳の平凡な会社員で、彼女は女子高校生だ。年の差だってあるし、そもそも彼女が何を考えているのかさえわからない。ただ、毎週水曜日の朝、彼女の視線が僕を捉えるたびに、胸の奥がざわつくのだ。落ち着かない気持ちになる。気になって仕方がない。


「何で僕を見てるんだろう」


その疑問が頭の中をぐるぐると回るようになった。自分の顔に何か変なものでもついてるのか? スーツが汚れてる? 髪が寝癖で跳ねてる? 毎朝、鏡でチェックするようになったけど、特に変わったところはない。普通の顔、普通の身なり。彼女が僕を見つめる理由がさっぱりわからない。


一度、勇気を出して彼女の方を見てみたことがある。水曜日の朝、いつものように彼女が乗ってきて、僕の斜め前に立った。視線を感じて、思い切って顔を上げてみた。すると、彼女は一瞬だけ目をそらし、すぐにまた僕の方を見た。目が合った瞬間、心臓が跳ねた。彼女の目は大きくて、黒目がちで、どこか真剣な光を帯びていた。でも、すぐに彼女は小さく首をかしげて、また視線を窓の方に逸らした。まるで「見られてるのに気づかれた」とでも言うように。


それ以来、彼女と目を合わせるのが怖くなった。毎週水曜日の朝、彼女が乗ってくる時間が近づくと、僕はスマホを手に持って、画面をスクロールするふりをするようになった。視線を感じても、決して顔を上げない。でも、彼女が僕を見ているのはわかる。ガラスに映る彼女の姿が、じっと僕の方を向いているのが見えるからだ。

ある日、会社の同僚にその話をしてみた。昼休み、弁当を食べながら何気なく話題を振ったのだ。


「毎週水曜日に電車で見かける女子高生がいてさ、なんかいつも俺を見てくるんだよね」


同僚の田中は、ニヤニヤしながら箸を止めた。


「へえ、いいじゃん。やっぱりモテてるんじゃないの?」

「いや、そんなんじゃないって。それに気持ち悪いとかじゃなくて、ただ不思議なんだよ。何で俺を見てるのかわからなくて」

「そりゃあ、お前がイケメンだからだろ。女子高生にモテるなんて、羨ましい限りだな」


田中は笑いものにしたけど、僕には笑いごとじゃない。それにイケメンでもなんでもない、ただの冴えないサラリーマンだ。彼女が僕を見てる理由が、恋とかそんな単純なものじゃない気がする。


季節が冬に移り変わり、電車の中は暖房で少し蒸し暑くなった。彼女は相変わらず水曜日の朝だけ僕の近くに現れる。コートを着て、マフラーを巻いて、冷たい風から身を守るようにして乗ってくる。でも、視線は変わらない。僕がスマホを見ていても、窓の外を見ていても、彼女の目は僕を捉えている。


一度だけ、彼女が何か言おうとしたことがあった。2月の寒い朝、電車が少し遅れて混雑していた日だ。彼女はいつものように僕の近くに立っていたけど、人が多すぎてつり革につかまれず、バランスを崩しそうになった。思わず手を伸ばして彼女の腕を支えた瞬間、彼女が小さく「ありがとう」と言った。声は小さくて、電車の音にかき消されそうだったけど、確かにそう聞こえた。そのとき、彼女の目が僕をまっすぐに見つめていた。驚くほど澄んだ瞳だった。


その日から、彼女の視線に何か意味があるんじゃないかと考えるようになった。ただの偶然じゃない。彼女は何か伝えたいことがあるんじゃないか。でも、何を? どうして僕に?


3月になった今も、答えは見つからない。今日も水曜日だ。7時38分、彼女が乗ってくる。いつもの制服、いつものポニーテール。彼女は僕の斜め前に立って、つり革につかまる。そして、やっぱり僕を見る。僕はスマホを手に持って、画面をスクロールするふりをする。でも、視線を感じる。彼女の目が僕を離さない。


ふと、思う。彼女が僕を見てるんじゃないのかもしれない。僕が彼女を見てるのかもしれない。毎週水曜日の朝、彼女が乗ってくるのを無意識に待ってるのは僕の方だ。彼女の視線に気づいてから、僕の日常は少しずつ変わった。単調だった通勤時間が、彼女の存在で色づいた。恋じゃない。ただ、彼女がそこにいるだけで、僕の世界が少しだけ特別になる。


電車が僕の降りる駅に着く。彼女はまだ降りない。僕は立ち上がって、ドアの方へ向かう。振り返らない。でも、背中に彼女の視線を感じる。ドアが開き、ホームに降りる瞬間、初めて思う。


「来週も、水曜日が来るといいな」


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