僕の母の実家で祖母がヒロインのひな祭りには男雛も女雛もない

兵藤晴佳

第1話

 僕の母方の実家は田舎の古い農家だった。それほど豪農というわけでもなかったのだが、この辺りの農家には、土蔵があるのが当たり前だった。

 そんなわけで、母の実家にも、白壁で瓦屋根の大きな土蔵があった。

 中に入ったことは、幼い頃に一度あるだけだ。

 何でも、僕が中に何があるのか知りたがったらしい。

 そういえば、なんとなく覚えている光景がある。

 春の穏やかな昼下がりの光の中で、重い戸が引き開けたのは、たぶん祖父だ。

「子どもの遊ぶところじゃないがな」

 不愛想な声に応じるように、中からは微かな埃が煙ってくる。

 カビ臭さに咳き込んでいると、祖父は僕の背中を叩いた。

「見たいか? 面白いものなんぞありゃせんぞ」

 中に足を踏み入れてみると、埃が舞い上がって目の前をカーテンとなって覆う。

 それを苦し紛れに払いのけたとき、僕は目に飛び込んできたものが怖くて逃げだした。

 祖父は怒るでも笑うでもなく、ふんと鼻息一つで蔵の戸を閉じたのだった。


 母の実家の祖母はお嬢さん育ちで、人をもてなすのが好きだった。

 僕も中学生になるまで、桃の節句にかこつけて、よく呼ばれていったものだ。

 ちらし寿司に、ハマグリの吸い物。

 甘い雛あられ。

 ただし、白酒の代わりに振る舞われるのは濃い桃のジュースだ。

 そもそも、祭りの主役たるべき雛人形が、どこにもないのだ。

 いささか変則的なお祭りにつきあわされる、祖父は何やら風呂敷包みを抱えて、部屋の隅でぼやいたものだ。

「ふん、いい年こいてひな祭りなんぞ」

 つまり、その主役は祖母だということらしい。

だから、祖母も黙ってはいない。

 聞こえよがしに、僕の前でこんな話を始める。


 東京の片隅にある下宿屋の一室で、ひとりの学生が故郷からの手紙を開く。

 そこには、川の流れのような達筆で、こう綴ってある。

 

  訳あって、お客様を雛祭りにお招きいたしました。


 学生は慌てた。

 部屋中をとっ散らかしてとりあえずの身づくろいをすると、下宿の階段を転げ落ちんばかりに駆け下りる。

 『忠臣蔵』は「血煙高田の馬場」の中山、のち堀部家に婿養子に入る安兵衛よろしく、押っ取り刀はなくとも韋駄天走りに東京上野駅に駆け込んで、あっという間に車中の人となる。

 窓の外を飛び過ぎていく家々の屋根や田畑、山河や波打ち際を見るにつけ、思い浮かべるのは遠い昔の子供の頃。

 男女七歳にして席を同じうせずというのが当たり前の昔のこと、六つまでは男も女も恥じ交わすことなく、子どもは井戸の周りでも河原でも遊び回るもの。

 この若者もまた、幼い頃は近所のお嬢様育ちの娘と、男女の区別も身の程も知らずにあちらこちらを駆ける毎日。

 高い木々の梢が夏の風にそよぐ山の中に、秋の夕日に枝先の柿の実が裸電球のように赤く輝く庭先。

 せせらぎも雪と氷に埋もれて凍りつく川辺に、春先にいたずら心を起こして開けてみた、かび臭い土蔵の奥の……。 

 あれやこれやと思い出している間に、汽車はかつて青雲の志と共に離れた駅へと戻ってくる。

 明治のご一新より前から故郷との間を行き来する川船で、水底までも透けて見える清らかな流れを遡り、渡し場から暗い夜道を歩き詰めに歩いてわが家にたどり着いてみれば、もう夜明け。

 家の戸を揺すっても開かないのも無理はない、心張棒が掛けてあるのだから。

 都が向こうから開いて、顔を出したのは眠い目をしょぼつかせた父親、故郷に錦を飾ってやると啖呵を切って出て行った息子が何をしに帰ってきたと力任せに横面を張られる。

 それでも構わず、土蔵を開けるぞと一言断って、重い戸を開ける。

 こっそりやらかして盗人と疑われ、実の父母に取り押さえられでもしたら末代までの笑い者。


 あの手紙は幼馴染からの時候の挨拶などではない、とは若者も先刻承知のこと。

 わざわざそんなことを書いてよこすのは、助けを求めているから。

 恥を捨て、志を曲げて一目散に帰ってきたのは、そう気付いたからこそ。


 日が高く昇れば今日は桃の節句、お嬢様もお年頃で親も婿探しにあくせくする。

 子どもの頃はお遊びで済んだ雛祭りも、親の欲目の娘盛りを何のかんのとひけらかす良い口実。

 この日も遠方からの縁談で、羽織姿の見目好い若者が、連れが引いてきた大きな車から、人を使って大きな行李を下ろしにかかる。

 中から取り出して手際よく飾られたのは、男雛女雛に三人官女、五人囃子に老若左右一対の弓矢構えた御随身、桜花橘花に挟まれた三人上戸に豪華な雛道具と御駕籠重箱御所車。

 これはもはや、結納の前渡しといったところか、物見高い近所の田舎者がぞろぞろと押しかけております。

 ところが娘は奥の部屋に引きこもったまま。

 豪華な七段飾りは、開け放しの縁側に寂しくも厳しく聳えているばかり。


 そこへ風呂敷抱えてやってきたのは、あの若者。

 髪を振り乱した埃まみれの姿に、田舎者たちはどっと笑う。

 気にも留めずに若者が、雛壇の隣に置いた風呂敷包み。

 ほどいてみれば、ずんぐりとして丈の低い、色も褪せた男女の土雛が身を寄せ合っている。

 ますます笑い声が高くなるところへ、ようやく姿を見せたお嬢様も華やかに装いを変えて、まるで女雛のよう。

 裕福な求婚者は若者を横目でちらりと見て微笑みます。


  雛比べ、といったところですか。


 お嬢様はその場に端正な物腰で座ると、雛壇を眺めて一言。


  豪勢ですこと。つい見上げてしまいます。


 続いて、男女一対の土雛を見つめて一言、


  なんとまあ、華のないこと。土蔵の奥にひっそりと眠らせておけばよいものを。


 見物人のくすくす笑いに、求婚者も肩をすくめる。

 ところが若者は動じた様子もなく、ただお嬢様をじっと見つめるばかり。

 お嬢様も若者から目を離さない。

 ふたりが見つめ合っているのに誰が気付いたのか、微かな声はやがて治まって恥ずかしげな照れ笑いに。

 すくめた肩を落としたのは求婚者、その目くばせ一つで、雛壇は下から音もなく空いていく。

 ところが残った土雛も、お嬢様は。


  そういったわけで、お持ち帰りください。


 呆然としていた若者もまた、土蔵の中から見つけ出した土雛を、もとの風呂敷に包んで立ち去る。

 どれほど歩いたかわからないうちに、目の前にはぴしゃりと閉ざされた家の戸が。

 向こうからは、身の程ってものを弁えろと父親の厳しい声。

 青雲の志も折れ、恋にも破れて途方に暮れていると、何者かが肩を叩く。

 振り向けば、そこにはお嬢様が微笑んでいる。


  私も一緒に参りますので。


 ふたりはめでたく結ばれたわけだが、僕は出来過ぎた話だと幼心にも思ったものだ。

 何度目かのひな祭りで、それ本当? と祖母に尋ねると、部屋の隅を眺めてこう言う。。

「その辺でいいから、置いといてくれませんか?」

 もちろん、相手は祖父だ。

 忌々しげに立ち上がると、改めて座り直して、風呂敷包みを解く。

 そこには、やはり、ずんぐりとして丈の低い、色も褪せた男女の土雛が身を寄せ合っていた。

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僕の母の実家で祖母がヒロインのひな祭りには男雛も女雛もない 兵藤晴佳 @hyoudo

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