しまい忘れた雛人形

西澤杏奈

春は来ない

 きっかけはなんとなく。暖かい春先の風に触れたからかもしれないし、懐かしい気持ちがどこかにあったかもしれない。

 3月が始まったばかりの日に、一人で千葉の南にある勝浦へ雛人形のお祭りを見に出かけた。


 普段は使わない特急に乗っていけば、遠いように感じられるその場所に着くまであっという間だった。周りは人が多くて混雑していたが、石段に並ぶ雛人形たちの美しさは誠に圧巻であった。調べたところによると約1800体ここにいるらしい。


 前日は暖かかったのに、今日は北風が吹いていてまあまあ寒かった。ただそこに立ち、その人形たちやその周りにおいてあるぼんぼりなどをじっと目に焼きつける。写真を撮ることはしない。特に見せる相手もいないからだ。


 大人になってから突然人との縁が次々と切れてしまった。昔は毎日チェックしていたSNSも今は見ることはない。そこにあるのはみんなの偽りの生活。「人に見せる」ためのものだ。そう気づいてしまえば、何もかもが嫌になって写真を載せるのをやめた。


 雛人形はどれも顔が可愛らしくて、まっすぐな黒髪がとても綺麗だ。みんなは自分の髪を「煤みたいに真っ黒だ」って言って嫌うけど、それはなんだか勿体ないように思える。

 自分の髪は真っ黒ではない。鉄が錆びたような茶色で、くせっ毛だから整えるのに時間がかかってとても嫌になる。


 ふと幸せそうなカップルが来て、写真を撮り始めた。いかにもお互いを大切に思いあっている、そんな二人だった。微笑ましさと悲しさを同時に感じて、私はそそくさとその場を離れる。


 今は孤独だが、昔私にも一人だけとても大切に思っていた人がいた。唯一私の髪を褒めてくれたのだ。

 結局その人とは何もできなかったけど、今でも夢に出てくるし、あの優しい眼差は自分の心の中にある。おそらくそれが他の誰かのものに変わったり、消えたりすることはないだろう。


 雛人形をしまい忘れると、婚期も遅れる。そんな迷信がある。母はよく雛人形を数日間しまい忘れていた。


 本当はいつまでも立ち直らないで、その場にとどまり続けている私自身が悪いだけなのだけど、私に誰もいない理由はとりあえず雛人形のせいにしとこうか。


 そう思ってふと自嘲の笑みが顔にじみ出たとき、寒い北風が吹いた。それは私には春が永遠に訪れることがないことを暗示しているかのように思えた。

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