3月3日の昼下がり
かさごさか
1人だと独り言が増えるタイプ
とある雑居ビルの2階、「
この事務所の主である
鈍く痛みを訴える肩を軽く回しつつ、画面の隅に表示されている時間を見ると、とっくに昼を過ぎていた。
しかし、空腹感がまるでない。今朝確かに食事をとったはずだが何を食べたか、よく思い出せない。
眼精疲労によって処理落ちしかけている思考では思い出すどころか、次の行動を起こすことすら難しいようだった。
しばらくぼんやりと空を見つめていた雨原は凝り固まった首をぐるりと回して、立ち上がる。そこではじめて歩き方すら忘れてしまいそうなほど全身が固まっていることに気づいた。
―――このままじゃ、人形みたいになっちゃうなあ。
雨原は先程まで書いていた報告書を保存し、パソコンを閉じた。両腕を上げて全身を伸ばし、ほぐしたところで欠伸をひとつ、吐き出した。
「よし、」と呟いた雨原は外に出ることにした。朝から座りっぱなしだったので外の空気が恋しくなったのだ。まだ歩く度に体の節々がパキパキと鳴っているような気がするが歩いているうちに治るだろう。
今日は穏やかな気候であった。雲がいくつか浮かんだ青空に、少し肌寒さを覚える突風。 上着を持ってくるべきだっただろうかと雨原は一瞬、思ったが太陽光の熱で寒さは相殺された。
人や車の通りもまばらで、春の入り口に相応しい陽気であった。
それは誰も居ない事務所で、調査報告を書いていた虚しさが洗われていくようでもあった。
午前中と少しの時間を費やして雨原が作成していたのは依頼人へと渡す報告書であった。報告書と言っても調べたことを並べただけの簡易的なものであるが。
今回の依頼人は事務所を訪れたことがある常連というほどでは無いが顔見知りの青年であった。
資産家であった親族の土地を家ごと譲り受けたはいいが、怪しいものが多すぎて公的な機関に届け出す前に調べてほしい、と彼から何度か似たような依頼を受けたことがある。
ちなみに一番最初に彼から依頼された人探しは一向に調査が進んでいないので、進捗確認も兼ねて事務所に来ているのではと雨原は彼が来る度に嫌な汗をかいている。
報告書を思い出して痛む頭に指先を添える。考え事をしているうちに駅のほうまで来てしまったようだった。ここまで来たのだから、と雨原が歩みを進める先には1件の和菓子屋があった。
駅前にある和菓子屋は老夫婦が営んでいる。かなり昔からある店のようで、この街の移り変わりを眺めてきたのだろう。がたついて開けづらい扉にさえ貫禄と魅力を感じざるを得ない、不思議な場所であった。
ここでは和菓子の他にもいなり寿司などの軽食も販売しており、昼時を過ぎると定価より安くなるので、雨原は昼食が遅くなってしまった時によく利用していた。
中に入ると、予想通り棚に並んだ軽食に値引きシールが貼られていた。その中のひとつを指さし、会計を頼もうとしたところで、男女を模した一対の練り切りが雨原の目に入った。
ああ、そうか。ひな祭りか。
本日が年中行事のひとつに該当する日だと気づいた雨原は自身の昼食と雛人形を模した練り切りを1セット購入し、帰路についた。
事務所へと戻ってきた雨原は急に不安が湧き上がってきたのを感じた。
事務所唯一の従業員は女子である。しかし、雇い主が勝手にこのようなことをしていいのか、セクハラになるのでは無いだろうか。
幸い今日、彼女は休みを取っている。最悪、見つかる前に食べてしまえば良いだろう。
巻き寿司を片手にパソコンを開いた。はじめから読み直し、誤字脱字を確認していく。
依頼人の青年が持ち込んだのも一対の小さな人形であった。
あれは結局、青年の祖父が過去に川を下っている最中の流し雛を拾い上げて、コレクションのひとつに加えたというだけでいわく付きとかそんなことは無かった。
健やかな成長を願って手放したものを、見知らぬ誰かに拾われたら、その子どもは健やかに育たず不良になるのだろうか。そんなくだらない想像に「ふ、」と声を漏らした雨原は目を閉じた。
いつものように事務所唯一の従業員である彼女の毒舌が聞こえないと少し寂しいものがある。せめてもと思い、休みの日くらいは心穏やかであれと密かに願った。
3月3日の昼下がり かさごさか @kasago210
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