推しへ、「ありがとう」を。

那須茄子

推しへ、「ありがとう」を。

 「――卒業します」


 その瞬間、心の底にぽっかりと穴が空いた。

 続けて語られる言葉がどれも、曖昧に聞こえて…さっきの放たれた一言がどこまでもこの耳に響いて鳴り止まなかった。




 その夜。

 空を見上げながら、彼女が初めて配信で語った夢を思い出していた。とても遠く感じられた彼女の輝き。それでも、画面の中の彼女は、いつだって僕に勇気と笑顔を届けてくれていた。彼女の夢が叶うなら――心のどこかでそう思おうとしたが、納得なんて出来やしない。


 



 何か出来ることはないのか――そう思ったのは、彼女が卒業発表した配信の翌日だった。僕にとって、彼女はただのアイドルではなく、大切な「推し」だった。その感謝の気持ちを、彼女に伝えたい。そしてふと浮かんだのが、曲を作るという考えだった。

 


 それからの日々は、試行錯誤の連続だった。メロディーを紡ぎ、歌詞を書き、何度も形にしては崩し。夜通し鍵盤を叩き、ギターをかき鳴らし、彼女への思いが凝縮された旋律をひとつひとつ積み上げていく。音に乗せるたび、彼女の笑顔や配信の声が頭に浮かび、胸が締め付けられるようだった。



 



 そしてついに完成した曲を、SNSに投稿した。もしかしたらという気持ちが折り重なって、僕をそうさせた。

 これは僕の単なる自己満足だ。





 奇跡は起きた。

 曲は瞬く間に広まり、彼女自身の耳にも届いたらしい。彼女がコメント欄に、「卒業ライブで歌わせていただきます」と返事をくれた。僕の胸は破れてしまうんじゃないかというぐらいに、強く高鳴った。





 卒業ライブ当日。

 彼女の声にのせて歌われる「ありがとう」のメロディーが、会場の光の海に乗って、画面を越えて僕の部屋にも届いていた。

 彼女が泣きながらありがとうを繰り返す姿に、僕も涙が止まらなかった。


 画面の向こうで微笑む彼女。

 その最後の一瞬まで、彼女は僕の「推し」であり続けた。そして画面が暗転した後、僕はただ一言、「ありがとう」と呟いた。

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