第35話 主人と犬
そうだ、フー子だ。
アイツは髙橋のいる温かな世界――誰かを殺したり、誰かに殺されたりしない世界に憧れたからこそ、組織を抜けようとしたんじゃないか。その髙橋が凶犬病の人間だったなんて、それじゃフー子の決意はどうなるんだよ。
そもそもアイツのことを野鳥の会の人間だと知っていて、距離を詰めてきた可能性だってある。世の中から切り離され、同じ年頃の女が通るような事を全て遠ざけた生活を送り、他人を撃つことしか知らない十代の女の心に入り込むなんて、ガードさえ緩めば後は簡単なのだから。
「おい、坊ちゃん」
俯いていた髙橋の身体がビクリとする。
「お前、フー子がこっちの人間だって気付いた上で近付いたのかよ」
威嚇するように言った俺の言葉に、髙橋は傷付いたような顔をして「違う!」と否定した。
「いや、違うのは違うんだけど、あの子が普通じゃないのは何となく分かってたというか」
「どっちだよ」
「匂いが」
「あ?」
「――匂いが、同じだったから」
そう言うと髙橋はまた下を向く。
ハッキリしないヤツだな。
フー子がこの場にいたら、俺は間違いなく「こんなぐじぐじしたヤツ、止めとけよ」と言っていただろう。
「お兄さん、すんませんね。うちの坊ちゃん、口下手なもんで」
従者だか何だか知らねぇが、コイツの軽い態度も気に入らない。
「いや、口下手とかそういう話じゃねぇだろ。大体フー子がこんなことになってんのは誰のせいだよ。お前んとこの坊ちゃんが夢見せちまったせいだろうが。だからアイツは人殺しじゃお日様の下にいらんねぇって、足抜けしようとしたんだぞ。なのに凶犬病のトップの息子とか何なんだよ、マジでふざけんな。これじゃフー子が足抜けしたって意味ねぇじゃん。このヘタレの嘘吐き野郎が、殺」
次の瞬間、俺の身体は無重力状態で浮き上がったかと思ったら、ベッドではなく床の上に背中から打ち付けられていた。
点滴スタンドの倒れる音が痛む耳を刺激する。
何が起きたのか考える間もなく、上半身を抑えつける様に橘は俺の
「ヘタレの嘘吐き野郎つったな。そっちこそ鳥のアホ共にクソみてぇにやられたゴミの癖に、てめぇのミスをうちの坊ちゃんのせいにしてんじゃねぇぞ。文句垂れんなら弱ぇ自分に言えよ、この
膝で鳩尾を圧迫されて、まともに息が出来ない。
クソ、この忠犬野郎が。
痛いところばかり突きやがって。
「やめろ、橘」
「え、両目はダメだけど片目だったら潰していいんスか、んじゃやりますね」
「どこをどう聞いたらそう解釈出来るんだ。いいから僕の隣に来い」
「りょ」
橘は指を引っ込めると、尻尾を振るようにして髙橋の右隣に戻った。
身体の上から重みが消えると同時に激しく咳き込んだ俺を横目に、師匠がやれやれと言わんばかりの顔で「うちの者が大変失礼しました」と言った。
「本当、失礼されちまいましたよ」
「おい、やめろってば」
「だって坊ちゃんのこと悪く言われちゃ、俺無理っスもん。殺さなかっただけマシでしょ。ほら、ここ褒めるとこっス」
護衛対象の人間には絶対的な忠誠を誓い、何があろうとどんな手を使ってでも守り抜くボディガード集団。
それが凶犬病だ。
橘の場合はその忠義の心をトップの息子である髙橋にだけ注いで来たのだろう。
まるで狂気のような忠誠心だな。
咳が落ち着いたところで、目の前に右手が差し出された。
「大丈夫でしたか」
髙橋が申し訳なさそうな顔をこちらに向けている。
「悪気はないんです。ただちょっと加減を知らないというか」
何言ってんだ。
悪気しかねぇだろうが。
俺は心の中で毒づきながら、髙橋の手を借りて立ち上がる。
「
「仰る通りです。すみません」
何だ、コイツ。
こんな腰の低さで、本当に凶犬病の人間なのか?
橘がトップの息子だと言われた方が、まだ納得出来る。
肩書きと態度が噛み合っていないことに違和感を覚えた時、一連のやりとりを静かに観察するように見ていた綿墨さんが口を開いた。
「匂いが同じだって言ってたな」
「そうです、僕は――」
目の奥よりも更に深い場所に隠されたモノを探るような綿墨さんの視線に、髙橋がたじろぐ。橘が前へ出ようとしたところで、綿墨さんは言った。
「お前、人を殺したことがないだろ」
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