第1話 地学実験室に眠る大西資金
地学実験室は、学校の端にある科学棟の一角にあった。
広い部屋には、分厚い木製の実験台がいくつも並び、その上には顕微鏡や標本、鉱石、地図、そして誰のものか分からないノート類が雑然と置かれている。窓際には天体望遠鏡、壁際にはガラスケースに収められた鉱石標本や化石、生物班で作った昆虫の標本も並び、部屋の隅には無線機が置かれた机もある。
五月の終わり。窓の外には、濃い緑色になり始めた木々が並び、時折、風に揺れている。湿度はまだそれほど高くないが、昼を過ぎると少し汗ばむ陽気だ。科学棟のひんやりとした空気が、ちょうどいい涼しさを与えてくれる。
——この雑多な空間こそが、俺たち科学部の部室だった。
「お前、それいつも思うけど、ポットで沸かせばよくね?」
向かいの席でピンセットを動かしていた牧野拓が、ふと顔を上げて言った。
「せっかく地学実験室でコーヒー淹れるんだから、それっぽくやるのが楽しいんだよ」
俺は適当に返しながら、ガスバーナーの炎を調節し、フラスコに入れた水をゆっくりと温める。フラスコの底から小さな気泡が立ち上り、ポコポコと静かな沸騰音が響く。
「ほら、もうすぐ湧くぞ」
ビーカーにインスタントコーヒー、砂糖、コーヒーフレッシュを入れ、慎重にお湯を注ぐ。地学実験室での俺のルーティン、コーヒー作りの完成だ。
もう一つのビーカーにもお湯を注ぎ、拓の前に置く。
「ほら、お前の分も」
拓は一瞬手を止め、俺を見たあと、何も言わずにピンセットを持ち直した。
「……お前、コーヒーだけはちゃんとしてるよな」
「そりゃな。一応、生物班の班員として、部の活動には貢献しないと」
「コーヒー淹れるのが活動なのか?」
「リラックスも大事だろ」
拓は苦笑しつつ、慎重に昆虫の標本を固定していた。黒く美しい翅(はね)を持つアゲハチョウが、拓の指の動きに合わせて慎重に配置される。生物班の部員は俺と拓の二人だけだが、実際に標本を作っているのは拓だけだった。
俺は片手でビーカーを持ち、もう片方で机の上の競馬雑誌をめくる。「ダービー特集」のページには、四歳馬たちのプロフィールが並んでいた。クラシック戦線を戦ってきた馬もいれば、ここに来て急成長してきた伏兵もいる。じっくりページを眺めながら、コーヒーの入ったビーカーを口に運ぶ。
「で、今年のダービー、どうする?」
拓が何気なく聞いてくる。
「五十万突っ込むつもりだけどな」
拓がピンセットを持ったまま、動きを止めた。
「……は?」
俺は雑誌を閉じ、壁際の標本棚に視線を移す。透明なガラスケースの中には、さまざまな昆虫の標本が並べられていた。その中の一つ——拓と俺しか知らない、「特別な標本箱」がある。
標本の裏に、封筒に入れた二百五十万円を隠している。
「……いや、お前、本当にやる気か?」
拓が低い声で言う。
「やるよ。ダービーは、お世話になった大西さんの応援で」
拓は少し表情を緩める。
「そっか。まあ、お前らしいな」
「そもそも、この『大西資金』も、大西さんが頑張ってくれたおかげで得たお金だし」
「いや、それはそうだけどさ……五十万って、ちょっと額がデカすぎるだろ」
拓は困ったような顔をしながら、標本棚をチラリと見た。見た目は他の標本と変わらない。それでも、中には現金の詰まった封筒が静かに眠っている。
——あれは、四月のことだった。
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