第5話
「それを渡してください」
祥子は手を差し出した。
岡野夫人に他人を傷つける意志がないのはわかっている。
怖いのは、夫人が自らに刃を向けて深い傷を負わせる事態だ。
「私のこと……調べたんですね?」
夫人の潤んだ瞳から、責めるような視線が祥子に向けられる。
「ええ。あなたの本当の名前、
秋津刑事の報告によると、辻家の長男だった辻高尚は、性自認の問題で父親と激しく衝突していた。
地元の有力者で保守的な父親は、男性である自分を否定する息子が許せず、暴力でその性的指向を変えようとしたのだ。
高尚はついに刃傷沙汰を起こして家を飛び出した。
父親の工作で事件は公になることなく、地元の身近な人間だけが知るところとなった。
「私は母は好きだった。母がくれた名前も好きだった。だからそれに繋がる名前にしたんです。夫と出会って、同性婚の制度があるこの市に引っ越して……彼も私を理解してくれた。精子を提供して代理母で恵美をもうけることにも協力してくれた。でも……」
「でも、あなたの恵美ちゃんへの接し方は理解しなかったんですね」
夫人の大きく見開かれた目から涙がこぼれた。
「それも……わかっているんですか……」
「ええ。恵美ちゃんは男の子でしょう」
祥子は夫人が干していた恵美の下着が不自然に歪んでいるのに気づいていた。
足を通すゴムの部分が、片方だけ伸びていたのだ。
これは小用のたびに、そこから性器をひっぱり出していた結果だ。
「恵美は……恵美は自分も女の子になりたいと思っていたんです! 私は恵美の望みを叶えたかった! だから可愛いものをたくさん買ってあげたし、恵美自身も可愛くなるようにしてあげた。恵美は本当に……本当に喜んでいたんです!」
「でも、お父様には認められなかった」
「ええ……離婚することになっても、恵美は私についてくることを選んだんです。訴訟はまだ続いてますが、私は恵美を絶対手放したくなかった。恵美にも私のように、女としての道を与えてあげられると思ったんです。だからいつもあの子に言っていた。あなたは素敵な女の子よ……って」
そう言うと、夫人、岡野菊恵、そして高尚は、歯を食いしばって悔恨のうめきを漏らした。
「それが呪いの言葉だった! あの子は分かっていたんです! その言葉が嘘であると! ただの慰めであり、超えられない壁を誤魔化しているだけだと! そしてあの小さな頭の中で絶望が大きくなっていった……」
祥子は核心に近づいたことを悟りながら、それが想像していたよりもずっと悲壮なものである予感に唾を飲み込んだ。
「何があったんです?」
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