第2話 Santa Fe ~ 勇気を出してSay Hello

     Santa Fe


 丁度この頃、宮沢りえの写真集『Santa Fe』を誰が買いに行くのか、ということで結論が出ず、皆ぐずぐずと渋っていたのだった。


 テレビ番組内での持ち上げ報道は、いよいよ佳境に入っていた。


「バブル崩壊」という言葉がテレビ、新聞、週刊誌をつうじて盛んに飛び交っていた。


 ジュリアナ東京が閉店したというニュースが衝撃的に報道された。


 身近な例として、自分の故郷では卸業を営む社長が夜逃げを敢行――


 地元の新聞をめくってみれば、その会社は倒産こそ免れはしたものの、長年事務員として勤めていたおばさんが経営者に抜擢され、会社は再生を果たしたという。


 あるいは、この高輪寮に住む一人である坂本の叔父の事例もあった。


 その叔父という人は個人病院を経営する身でありながらヘリコプターを購入し、それを飛ばせないまま借金だけを殖やし、かつ売却もできないまま、ついには病院を畳むことになったという。


 ただその一方で、数々の怪しげな儲け話に乗らず、身の丈に合った経営を貫いた者は大難を経ずに、財を築いていったとのことだ。


 そういった社会情勢の中、我々にとっての懸案は、宮沢りえの写真集を買うのか買わないのか、そしてその決断をいつまで先延ばしにするのか、というものだった。


 それはいくらかの話題性を付加した写真集でもあり、値段は税込価格4500円であった。


 当時、音楽のCDの価格は一枚3000前後。


 ちなみに、高輪寮内で宮沢りえのファンは一人もいないのだった。




     『勇気を出してSay Hello』


 六月になると、不順な天候が続き、外出時間は減少した。


 その代わり高輪寮に居候する者が出てきた。


 みんな決まってダイニング・キッチンに集まるのであった。


 そこにはVHSビデオが再生できるテレビ(テレビデオ)があった。


 冷蔵庫や調理台もあり、皆が自由に使うことができた。互いの出身地や方言を語り合うことで親睦が深まった。


 須賀、坂本、横井とは、この年にこの場所で出会ったのである。


 P太郎と自分は旧知の間柄であった。


 いつものようにテレビをつけたまま、他愛もない会話をしていたところ、松田聖子が英会話本を出版した、とワイドショーは伝えていた。


 本のタイトルは『勇気を出してSay Hello』というもので、音声入りCDが付いているのである。


 番組内で在日アメリカ人コメンテーターが、

「彼女の英語の発音は日本語なまりがありますけど、聖子ちゃんが好きな日本人が英語になじむためにはいいと思いますよ」

 などとコメントしていた。


 須賀は、テレビに目を身けたまま、

「買う奴っているのかなぁ?」

 と言った。


「松田聖子のファンやったら、やっぱ買うんやないですか?」

 と坂本は言った。須賀は、

「今、松田聖子のファンってどんな人なんだろ?」

 と尋ねると、

「おばさんたちに人気みたいっすよ」

 とP太郎が答え、昨今の松田聖子の活動について簡単な説明をした。


「日本って英会話熱、すげーよな」 と自分が声をあげると、

「やっぱり世の中、国際化だなぁ」

 と横井が応じつつ、 「俺、将来子供ができたら、海外に留学させて言葉とか文化を学ばせたいって思ってんだ」

 と言った。


 松田聖子の本を語るには理由がある。


 梅雨の影響で、この時期みんなの心が落ち込み気味であった。


 気晴らしに品川駅に隣接の京急百貨店に行くのはどうか、という提案が上がった。地下一階には喫茶店があるため、そこで時間を過ごそうと考えた。


 こうして我々は松田聖子にまつわる出来事に遭遇することになったのである。


 ちなみに、前回の小テストで結果が良くなかったP太郎は、追加授業を受けていた。やや遅れて到着するとのことだった。


 須賀と自分は地下の喫茶店に行く前に一階の書店で時間をつぶすことにした。


 店舗の規模は小さく、商品の陳列は落ち着きがなかった。


 実用本と雑誌がほとんどを占めていた。


 俺はP太郎や坂本と回し読みしていた月刊『BOMB!』を探してみたが、そんなものはなかった。


『音楽の友』や『レコード芸術』もない。


 須賀は『週刊プロレス』や『パチンコ攻略マガジン』に手を伸ばしていた。


 その時、四十恰好の女性客から発せられるヒステリックな声が我々の耳に入った。


「あのぉお! すいませーん!」

 と彼女はレジ・カウンターで店員に戦闘態勢で挑むのである。


 二十歳代とおぼしき女性店員は、

「いらっしゃいませ。なにかお探しでしょうか?」

 と冷静に対応する。


 店員の冷静さがかえって神経を逆撫ですることにでもなったのか、女性客は心を許すことなく、

「あのぉお! 松田聖子の英語の本、ありますかぁ?」

 と言い散らすのであった。


 被害妄想ではち切れんばかりの声が周囲の客の注目を集めた。


「あ、はい。少々お待ちください。在庫の確認をしてまいります」

 と店員は丁寧に告げると、品物のことを聞きに上司のもとへ向かった。


 在庫の所在を店員に尋ねるだけのことで堂々とキレ気味になりながら、「松田聖子の英語の本」と正確な書籍名すら伝えないその心意気に我々は衝撃を覚え、須賀は、

「東京こえぇー」

と言った。


「やっぱ東京だな」

 と自分も同意を示した。


「しかも、普通、人前で『松田聖子の英語の本』とか大声で言えねぇよなぁ……。俺は言えねえや」

 と須賀は言った。


 曇った心の中に雷が鳴ったおかげで、どこかスカッとした気持ちになりながら、我々は地下の喫茶店に入った。


 客入りはまばらであった。


 席に着くと、すぐにグラスの水が来た。


「イラッタイマセ」 という声に釣られて見上げると、異国情緒のある男性ウエイターであった。


 アイスアイスコーヒー二つと、ミックスピザを頼むと、彼はサラサラと伝票に書き入れる。


 自分はその人が物を書く時の指の動きを見ていた。

「イジョで、ヨロシカタでショカ?」


「はい、以上でお願いします」

 と自分は言いつつ、ウエイターの名札を見た。


 名札には、漢字で「鈴木」と書いてあった。


「最近、外国の人、増えたね」

 と須賀が言った。「こないだパチスロに行ったんだけど、店員が外国人でさ。やっぱ今の人みたいに日本人の名札付けて頑張ってたよ」


「バブルが弾けても、日本にはまだチャンスがあるって思って、働きに来るんだろうな」

 と自分は言った。


 そこへP太郎が来た。彼は、

「やっと終わりましたー」

 と言ってしまうとすぐに、

「なんか女の人が上で騒いでたよ」

 と我々に告げた。


「なに、あのおばさんのこと?」

 と須賀は言った。


「『なんでこの本屋は何も置いてないの? じゃあ、どこに行ったら松田聖子が置いてあんの?』とか言って、店員に詰め寄ってた」


「ほかの大きな店に行けって話だろ」

 と自分は言った。「そこの本屋って、駅のキオスクを大きくしたみたいなものなんだから、あるわけないじゃん」


「今お前が来た時にあの人が騒いでたってことは、じゃあ結構長いこと食って掛かってるんだな、あのおばさん」

 と須賀は言った。


「で、横井は?」

 とP太郎が尋ねると、須賀は、

「従弟が東京に来てるから、連れまわしてるみたい」

 と答えた。


「今、雨降ってた?」

 と俺が尋ねると、

「学校を出た時は降ってたけど、ここに来るまでには止んでた。また降るんじゃないかな。今日の午後、降水確率八十パーセントだしね」

 とP太郎は答えた。


 高輪には雨とホテルが似合う、と自分は夢想していた。


 ……今、地下にいるため外の様子は見えないけれども、ウィング高輪に隣接する小さなホテルのレンガ造りの壁が雨に濡れ、色が滲んで見える……建物の外壁には人々の影が差し、亡霊の群れとなって自由自在に動き回る……一方、歩道には多くの往来がある。ガラス扉を通して中を覗けば、やはり実体のない亡霊の所在が見て取れる……そこには彼らの時間が漂っている……しかし、扉を開けて中に入る職員たちは、気にせず実務に没頭するのであった……


 夢想が破れた。異国情緒のあるウエイターがテーブルに来た。


 彼にはアイスコーヒーの注文が一つ追加された。


 須賀と自分は今来たばかりのアイスコーヒーに手を付けた。


 さゆりに危害を加える者の特定について話し合われた。


 警察は動かない。

 かといって事件が無くなるとは考えにくかった。


 どうしてさゆりが狙われるのか、ざっくばらんに話し合っていくうち、直弥の話が絡んできた。


 ゴシップ記事のような下世話な内容に話は流れ、興味本位と捏造じみた話が出てくる始末となった 。


 時計の針が進んだ。

 外の様子は見えないが、雨のにおいがする。


 アイスコーヒーのグラスは三つとも氷だけになっていた。


「氷を食うと頭がスッキリするよね」

 と須賀が言って、グラスに入った氷のひとかけらを口に入れた。


 さらに時計の針が進んだ。

「俺たち、浪人生なんだから、勉強しないと! まずは、大学に受かろうよ!」

 とP太郎は言った。


「あの……聞いてもいい?」

 とP太郎はニヤニヤして、

「そのピザ……食べないんだったら、ボクが食べてもいいかなぁ?」

 と言い、こちらが食べ残したピザを指さした。


「ああ、いいよ。なんか食べづらいから残していこうと思ってたんだ」


「じゃあ、ボクいただきますね」

 と言って、P太郎はこちらの皿の上に手を伸ばした。


 食べ残しのピザをつかむが早いか、P太郎はそれを急いで口の中に入れ、満足そうに口を動かした。


 彼が食べる姿は、小動物の捕食行為に似ている、と俺はちょっと思った。



 さて、この時期、大きな動きはなかった。

 我々はあまり遠出もせず、よく勉強した。


 勉強の際、直弥とさゆりはダイニング・キッチンを使い、須賀、P太郎、坂本、横井および自分は、各自の部屋にこもった。


 優ちゃんは、出たり入ったりを繰り返した。

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