第8話 策謀の都

霧と死の気配に満ちたモルテ渓谷を抜け、ガウデリウスとイザベルはサン=ベルナールへと足を踏み入れた。


だが、この街もまた安息の地ではなかった。



街の門をくぐると、そこはかつての繁栄を失ったかのような光景が広がっていた。古びた石畳には無数のひびが走り、建物の壁には黒ずんだ汚れが染みついている。


広場には物乞いと疲れ果てた商人が座り込み、どこからともなく響く鐘の音が、死者への祈りを告げていた。


「ここが……王国南部の要衝?」


イザベルが驚きを隠せずに呟いた。


「いや……これは、何かがおかしい」


ガウデリウスは辺りを見回す。街の空気は淀み、人々は影のように歩く。かつてこの地を守っていた騎士団の姿もない。


そして、何よりも——


「ようこそ、逃亡騎士殿」


暗がりから、低い声が響いた。


そこに立っていたのは、一人の男。異国風の衣装に身を包み、漆黒の長衣を翻すその男は、微笑を湛えていた。


「……ハサン」


「久しいな、ヴェルノンの騎士よ」


男はゆっくりと近づいてくる。その手には精巧な指輪が嵌められ、腰には細身の短剣と、異国の刻印が施された巻物がぶら下がっていた。


「どういうつもりだ?」


「つもり?」 ハサンは肩をすくめる。「お前にとっては亡命先、だがここでは……処刑場に等しい。貴族たちはお前をずっと監視しているぞ」


イザベルが身構え、短剣を握りしめる。しかし、ハサンはそれを一瞥しただけだった。


「何が起こっている?」


ガウデリウスの問いに、ハサンは笑いながら答える。


「簡単なことだ。ベルナールは王国を裏切りつつある。だが、まだ決定的ではない……慎重に動いている」



その夜、ガウデリウスは廃墟となった旧市街で、街の異変について耳を傾けた。


サン=ベルナールは、すでにかつての王国の支配から遠ざかりつつあった。


商人ギルドは怪しげな取引を繰り返し、貴族たちは裏で新たな勢力との交渉を進めている。異端審問官が街を巡回し、王国に忠実な者たちを次々と粛清していた。


そして、その裏で——


「ベルナールはすでに、王国の行く末を別の手に委ねるつもりでいる」


ハサンの言葉に、ガウデリウスの眉が険しくなる。


「……どういう意味だ?」


「ベルナールは王国の衰退を見越している。そして、新たな支配の枠組みを模索している。だが、それを決定づけるにはまだ時間が必要だ」


イザベルが息を呑んだ。


「そんな……じゃあ、このままだと……」


「いずれ王国は大きな選択を迫られるだろう。だが、その時が来る前に、手を打つことも可能だ」


ガウデリウスは、拳を握りしめる。


「……選択肢は?」


ハサンは再び笑みを浮かべる。


「サン=ベルナールでは答えは見つからぬ。だが、東方の交易都市 リュケイア ならば別だ」


「リュケイア……?」


「異国の知識が交差する地でありウィンドパスの中継地点。そこには、王国の陰謀の裏に隠された真実があるかもしれぬ」


ハサンの言葉に、ガウデリウスは目を細める。


「なぜ、そこへ導こうとする?」


「導く……? ふむ、私がどちらの味方なのかは、お前自身の目で確かめることだ」


ガウデリウスは迷った。


リュケイア——異国の商人と戦士が集い、秘術や武具が取引される都市。その地には、「銀の指輪」に関わる何かが眠っている可能性がある。


だが、その地へ赴くことは、さらなる危険へと足を踏み入れることを意味する。


「選ぶのはお前だ、逃亡騎士殿」


ハサンの声が静かに響く。


暗雲の広がる王国の未来、その答えを求めるならば、彼は再び旅立たねばならない。


向かうは 東方の交易都市リュケイア。


そこに、運命を左右する選択が待っている。


その夜、ガウデリウスはサン=ベルナールの宿屋にて短い休息をとった。


だが、夜半過ぎ、扉を叩く音が響いた。


「……?」


剣を手にし、静かに扉を開く。


そこに立っていたのは、漆黒の鎧をまとい、鎖を巻いた異形の男——審問官、灰鎖のアズラ。


「探したぞ、ガウデリウス。王国への反逆者よ」


その声は低く、そして氷のように冷たかった。


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