逃亡騎士

あずち

ヴェルナント王国編

第1話 漆黒の逃亡劇

夜の闇が重く城を包み込んでいた。朽ちかけた松明が壁に揺らめき、不規則な影を投げかける。瘴気を含んだ冷たい空気が肺を刺し、わずかに血と鉄の匂いが混じっていた。


ヴェルナント王国——かつて栄華を誇ったその地は、長き戦乱の果てに荒れ果てていた。王宮の華やかさはとうに失われ、残されたのは崩れゆく石壁と、過去の面影だけ。


しかし、沈黙を破るように、甲冑のこすれる音と、くぐもったうめき声が闇の中に響く。


「逆賊ガウデリウスを逃がすな!」


鋭い号令が飛び、鎧に身を包んだ兵士たちが瓦礫の中を駆け抜ける。その先頭に立つのは、王国騎士団長ラウル。忠義を誓い、剣に生きた男。だが、今の彼の瞳には、かつての誇りはなく、ただ冷酷な光だけが宿っていた。


「どこだ……ガウデリウス……」


その名を呟きながら、ラウルは瓦礫を踏みしめる。


***


ガウデリウスは、冷たい石壁にもたれながら息を殺していた。遠くで響くのは、誰かの悲鳴。拷問室だろう。城の地下牢は、生きた悪夢のような場所だった。


(なぜだ……なぜ俺が逆賊などと……?)


脳裏をよぎるのは、今朝の光景。


主君である公爵が呪詛の剣に貫かれ、黒く淀んだ血を流して倒れた。その場に立ち尽くす自分。床に広がる闇のような赤、空を舞う呪われた灰。そして——一斉に向けられた疑惑の目。


「貴様が主を殺したのか!」


剣が突きつけられ、逃げる間もなく捕らえられた。何もかもが唐突だった。理解が追いつかない。


だが、今ははっきりしている。これは罠だ。計画的に仕組まれた陰謀。だが、誰が? 何のために?


(考えるのは後だ。まずは生き延びる……復讐のために)


ふと、自らの手にべったりと付いた血に気づく。しかし、それは公爵のものではない。


そういえば、公爵は死の直前、こう言っていた。


「ガウデリウス……もしもの時は、この印を探せ……」


そう言って握らされたのは、小さな銀の指輪。しかし、その意味を考える暇もなく、すべてが混乱に飲み込まれた。


牢の扉が軋む音がした。


鍵を開けたのは、一人の男だった。


「お前のことを信じている。今はとにかく逃げろ」


それだけ言うと、男は松明を倒し、意図的に火を放った。煙が広がり、兵士たちの怒号が響く。ガウデリウスは迷わず牢を飛び出した。


城の外壁をよじ登り、屋根を伝い、塔の影に身を潜める。城門へ向かうのは無謀だ。選んだのは、古井戸。


息を止め、冷たい水の中に身を投じる。暗闇の底で、指輪を握りしめた。


***


霧深い森が、彼を迎え入れる。赤黒い月が空に浮かび、枯れた木々の間を不気味な影が蠢いていた。


足元に転がるのは、朽ちた剣と、かつての戦士の亡骸。


だが、今は自由だった。逆賊としての汚名を着せられ、すべてを失ったとしても——


「生き延びる。そして、主の仇と俺を陥れた者を、この手で討つ」


遠く、霧の向こうから鐘の音が響いた。


ガウデリウスの逃亡と復讐の旅が、いま始まる。


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