復刻版06「だから、それでも僕は生きていく」~7つのこころの迷路と、それぞれの現在地~

林音生(はやしねお)

【1】 涙の成人式

 私には、⼤学に⼊学したばかりの娘がいる。名前は愛花(まなか)。もうすぐ20歳(はたち)になり、成⼈式を迎えることになる。


 そのときに愛花が私に何を⾔ってくるか、非常に楽しみである。





 愛花が⽣まれた時は、私たちは共働きだったので、妻が育児休暇を取り、しばらく愛花を付きっ切りで育てた。


 その後は、仕事中は、愛花のことは,、妻の会社内の託児所に預けることにした。





 あるとき、私たち夫婦は、託児所の先⽣に呼び出された。なんでも、最近、愛花の様⼦がおかしいとおっしゃるのである。


 詳しく話をお聞きしてみると、託児所の⼦供たちとはほとんど話さないし、⼣⽅になると、ヒステリックになって、


「パパ、ママ帰りたい!」


 と泣きじゃくって叫ぶのだそうだ。


 先⽣は続けて、


「この⼦、⼩児性の神経症か、何かじゃないでしょ うか? お医者さんに連れて行かれた⽅がよろしいのでは?」


 とおっしゃる。


 私は、

「そんな⼤袈裟(おおげさ)な!」


 と思ったが、⼝には出さず、ともかく今⽇のところは、そのまま愛花を連れて帰った。





 帰宅後、ちょっと愛花に訊(き)いてみた。


「愛花、託児所は楽しくないのか?」


「うん。」


「そうか。じゃあ、パパの会社の託児所に来るか?」


「……。」


 返答がない。やはりそういうことではないのだな。困ったな。





 愛花を寝かせてから、これからどうするか妻と話し合った。妻は、愛花のためなら会社を辞めてもいいと⾔う。


「しかし、君は今の仕事に、最⾼のやりがいを感じているのだろう。それを簡単には⼿放せなくはないか?」


「いいえ、⼤丈夫よ。それに、今、あの⼦のことを最優先にしないと、⼿遅れになるわよ。」


 妻の⾔い分はもっともだった。もし、託児所の先⽣のおっしゃることが本当なら、病院に連れていくのはもちろん、何よりも、あの⼦の寂しさを埋めてやらねばならん。





 こうして愛花の託児所⽣活は終わりを迎えた。今後は妻が専業主婦となって、愛花を⾒ていてくれる。


 ⽗親として私は、何もしてやれないのはもどかしいが、せめて、仕事が休みの⽇にはたっぷり遊んでやろうと思う。


 それから、愛花を医者に連れていった。


 確かに神経症の兆(きざ)しらしきものは⾒られるが、⼦供にはよくあることだ、というレベルだし、まだ⼤丈夫だろう、とのことだった。


 私たちはホッとして、それぞれ愛花を抱き抱えた。


 ただ、続けてドクターは、


「今後の育ち⽅によっては、症状が顕在化(けんざいか)することもありえますので、⼀応、気にはかけておいてください。」


 とおっしゃる。私たちは今後、できる範囲ではあるが、最⼤限の配慮をしよう、と⼼に誓(ちか)った。





 愛花は⼩学校に⼊ると、ある⽇、いきなり、


「お絵かきを習いたい!」


 と⾔い出した。なんでも美術の授業で、先⽣のお⼿本を⾒て、


「私、それ描きたい!」


 と思ったらしいのである。


「ほんとにやりたいの?」


「うん!」


 愛花は目をキラキラさせて答える。どうやら本気のようだ。




 妻と話し合ってみたが、あの⼦の精神衛⽣上のことを考えたら、何か夢中になれるものがあった⽅がいいと⾔う結論になった。


 そこで、私が画材を買いに⾏き、妻には美術の先⽣を探してもらった。そして、翌週から愛花を美術教室に通わせた。




 お絵かきに夢中になるようになってからは、愛花の精神状態はかなり安定しているように思う。


 以前ほどヒステリックになることはなくなったし、気分の波も⼩さくなったように思える。


 やはり、何か熱中できるものがあるということは、精神の安定につながるようだ。





 その後、愛花は順調に育っていたのだが、中学2年⽣の時のこと。愛花は、いじめに遭(あ)っていると⾔って、私に泣きついてきた。


 物理的な被害を受けるほどの、陰険(いんけん)なものではなかったみたいだが、毎⽇、確実に愛花の精神は蝕(むしば)まれていった。


 これはまずい! なんとかせねば。私はすぐさま、近くの私⽴中学のパンフレットを取り寄せた。


「幸い愛花は、頭はいいから、この学校なら試験に通るだろう。」


 愛花に話を持ちかけたところ、乗り気だったので、すぐさま⼿続きを進め、愛花を受験させたのである。


 愛花は狙(ねら)い通り合格し、転校することに成功した。転校先の私⽴中学では、いじめに遭(あ)うこともなく、精神状態も安定して、卒業を迎えることができた。





 ⾼校は、そのままエレベーター式で、同じ学校法⼈の⾼校に進んだ。


 ただ、勉強のレベルが、愛花には⾼すぎたようで、美術の成績はさすがに良かったものの、「英・数・国・理・社の5教科」に関してはボロボロだったのである。


 しかも、なぜか友達が全くできなくて、クラスに溶け込めず、愛花は塞(ふさ)ぎ込んでしまった。


 せっかく安定していた精神状態が、⼤いに崩れてしまったのである。


 私は愛花に、勉強に熱中するよう勧め、


「塾に通わないか?」


 と提案したのだが、この時、愛花が取った選択は、「美術部」に所属して毎⽇、絵を描くことだった。


 まぁ、それで落ち着いてくれるのであれば、何も⼝出しをするつもりはなかったのだが、愛花は予想外の⾏動を起こした。


 毎晩、帰ってくるのが、早くても11時を過ぎるようになったのである。


 しかも、気持ちよく帰ってくるのかと思いきや、毎晩、ものすごい欲求不満を抱えているようだった。 愛花の精神状態はもう最悪で、毎⽇荒れ放題だった。


 美術部の活動⾃体は早く終わるのだが、終わってから「付き合い」と称して遊び倒し、家に帰ってきたら、私たちにさんざん当たり散らした挙句、


 そのまま⾃分の部屋にプイっと上がっていく。翌朝は⼝もきかずに、パンをかじったまま学校へと出かけていく。


 私は何度も、そんな部活はやめろ、と⾔い聞かせてきたが、無駄だった。私は毎⽇、やりきれない思いだったし、それはきっと、愛花も同じことだったであろう。





 愛花は⾼3になって、やっと部活をやめる決⼼がついたようだ。


 本⼈も、今の⽣活を続けることが⾃分の精神衛⽣上、良くないことは重々承知だったであろうし、学⽣本来の責務である勉強のことも気になりだしたようである。


 愛花は⾃ら、


「塾に通いたい。」


 とまで⾔い出したのである。私は喜んで愛花の望み通りにしてやった。


 しかし、⼤学受験まで残りわずか1年とあっては、時間があまりにもなさすぎる。


 愛花は、この2年間、ほとんど勉強を放置して、部活に明け暮れていたのであるから、今から受験勉強を始めたところで、「焼け⽯に⽔」で、


 受験にはとても間に合わないだろう。


 そこで、私は愛花に、普通の⼤学にこだわらずに、「得意分野」に進んでみてはどうかと提案した。


 愛花は、幼いころ美術教室に通っていたし、また、つい最近まで美術部に⼊っていたくらいだから、絵を描くのは⼤の得意である。


 愛花は納得し、美⼤の受験を目指すことにした。


 美⼤であれば、5教科の勉強は、そんなに⾼いレベルは要求されないはずだから、残り1年でもなんとかなるだろうと思ったのである。


 実技試験に関しては、美術部の顧問の先⽣に、愛花の腕前をうかがったところ、


「問題なく通るでしょう。」


 とのことだった。




 ところが、愛花は試験に落ちてしまったのである。5教科の1次試験で落ちてしまい、実技試験には進めなかったのである。


「ああ、やはり1年では難しかったか。美⼤を⽢く⾒ていたな。」


 と私は反省した。愛花の精神状態が非常に⼼配だったが、意外とケロっとしている。


 ⼀応、


「⼤丈夫か?」


 と声をかけたが、


「うん、だって来年また受けるし。」


 と、えらく軽い⼝調なので参ってしまった。まぁ、もともとそうさせてやるつもりだったし、いいか。





 私は、妻と愛花と3⼈で、来年度の予備校選びに取り掛かるのであった。


 予備校について、愛花は、


「どうせなら⼀流の予備校がいい!」


 と⾔うのであるが、受験するのは美⼤なのだから、5教科の勉強にはあまりお⾦はかけたくない。


 むしろ、そのお⾦で美術を習わせてやりたかった。


 その思いを愛花に伝えると、


「じゃあ、予備校はリーズナブルなところにしましょ。」


 と答える。


 妻も納得したようで、


「じゃあ、決まりね。」


 と笑顔でうなずいた。





 愛花は、予備校と美術の学校にダブルスクールで通い始めた。予備校は、今までの学校⽣活とはうって変わって、格段に楽しいものであるようだ。


「みんなまじめに勉強してて、こっちもやる気になるのよ。明⽇から毎⽇、⾃習室に通うわね。」


 と⾔っていたものである。


 美術の学校の⽅はどうかというと、もともと好きなことを勉強しているので、全く苦にならないようだ。


 おかげで浪⼈⽣時代は精神状態が乱れることはなく、順調な様⼦だった。




 そして、受験は、今回は成功だった。第1志望の美⼤ではないものの、愛花の希望の美⼤に⼊ることができたのである。





 ⼤学に⼊ってからは、5⽉病をかなり⼼配したのだが、私の完全な取り越し苦労で、愛花は毎⽇機嫌よく、学⽣⽣活をエンジョイしていたのである。


 今度こそ、好きなだけ好きなことができるので、5⽉病も何のそのだったわけである。





 そして、愛花は先⽇、20歳の誕⽣⽇を迎え、今⽇は成⼈式である。振袖(ふりそで)姿はなんとも美しく感動的で、私は思わず涙してしまった。


 もちろん、これはただの涙ではなく、この20年の間、愛花の「こころ」と向き合ってきた「私の思いの結晶」である。


 そんな私を⾒て、愛花は⾔う。


「お⽗さん、ありがとね。私は《こころ》が弱くて苦労ばっかりかけてきたけど、いまこうして毎⽇楽しく過ごしていられるのも、お⽗さんのおかげなんだから!」


 私は⼀気に感情がこみ上げ、声を上げて泣き出してしまった。私は涙目のまま⼤きく⾸を何度も縦に振った。





 愛花はこの先も、様々な困難に⾒舞われるだろう。でも私がそばにいてやれる間は、できる限りのことをしてやりたい。


 そして、願わくは、誰かいい⼈が愛花を迎えに来て、私の役目の後を引き継いでくれたら本望である。


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