幽体
――逃げ始めてどれくらい経っただろうか?
女性の動きが止まる。と、女性がこちらのほうを向く。整った顔がはっきりと見え、緊迫した空気にもかかわらず、ドキッとする。何かあるのかと思ったが、視線からしてこちらではなく後ろを確認しているようだった。
女性につられてこちらも背後を確認する。すでにクジラの姿はなく、周囲には自分と女性しかいなかった。
「ここまでくれば大丈夫そうね、もう喋っても大丈夫よ」
周囲の安全確認が済んだのか、女性がこちらに語り掛けてくる。
緊迫した空気がなくなり、ドッと力が抜ける。幽体なので本来する必要はないのだが、深呼吸しようとした際に女性がこちらの手を握ったままなことに気づく。
「あ、あの…、手…。」
恥ずかしさのあまり、手を放してもらおうと声が出る。
「あら、失礼したわ。」
女性は特に動揺もなくさらっとこちらに謝ると、ぱっと手を離した。
さすがは大人の女性だな、と感心する。兎にも角にもまずはお礼を言わないと。それから聞きたいことも山ほどある。
「助けていただきありがとうございました。聞きたいことがあるんですけど、あのクジラはいったい何なんですか?…それにお姉さんは何者なんですか?…あっ、というか、そもそも僕って今どういう状態なんですか!?」
気になることがありすぎて興奮気味になり、聞きたいことを一気に聞きだそうとしてしまう。
「落ち着いて。一度にそんなに聞かなくても一個ずつ答えるわ。」
少年を諭すように言うと、こちらの方をしっかりと向き、言葉をつづけた。
「まず君が今どういう状態か説明するのが先ね。結論から言うと君の今の体は、【
「幽体?なんとなく幽体離脱みたいな現象だな、とは思っていたんですが、幽体って物質なんですか?」
幽体という言葉自体は聞いたことがあるが、それはあくまで概念的な存在で物質だとは思わなかった。
「幽体離脱って解釈で大丈夫よ。それで幽体についてだけど、私はある組織に所属していて、その幽体と幽体離脱に関する研究を手伝っているの。
まあ現状分からないことだらけなんだけど、最近ようやくある物質が今の私たちみたいな体を構成していることが分かったの。その物質を幽体って呼んでいるわけ。」
なるほど。要するに、今いる俺の体は未知の物質で出来ているってことか。というかサラッと言ったけど研究者なのかこの人。顔は美人だしスタイルもいいし、完璧すぎないかこの人。
そういえば、この人銃も持ってたし戦いもできるのかな。というかあの銃は何でできているのだろうか?それも幽体なのだろうか?とすると幽体って結局何なのだろうか?
「あの…。幽体ってどんな物質なんですか?」
分からないことだらけと言っていたし、聞いたところで完全には理解できないだろうが、今は少しでも知りたい。
「私も詳しくは説明出来ないんだけど、肉眼はもちろん、電磁波などを用いた機械的な観測もほとんど出来ない物質なの。
光子のように質量もないし、当然触ることも出来ない。地球の重力の影響を受けているのか、地球の自転にはついて来ている。にも関わらず重力に逆らうかのように自分の意思で自由に動かせたりと研究者を悩ませる物質よ…。」
説明しながら女性は頭を抱える仕草をする。この人も苦労しているんだな…。
とりあえず、この体は見えないし触れないが存在はする、よく分からない物質で出来ているということが分かった。
――いや、何も分かってないが。
「訳の分からない物質なのに、どうやって幽体を見つけたんですか?」
「前提として研究者は私たちみたいに幽体離脱が出来る人たちなんだけど、幽体離脱する被験者と観測機器を使う観測者とでいろいろ試行錯誤してみたら、幽体離脱した被験者を偶然観測出来ちゃったらしいの。とはいえ、再現性が低すぎるからその観測条件を検証している最中よ。」
つまり、研究者達もやってみたら偶然見れただけなのか。頭を悩ませるのも頷ける。
「そうなんですね。そういえばお姉さんはどうして研究所の外にいるんですか?」
研究者なら研究所に籠もっているもの、と認識していたので疑問に思った。いや、休憩中だっただけかもしれないし、そもそも研究所に籠もっているというのが偏見なのだが。
「それは研究の他に、君みたいな幽体で彷徨っている人の保護、それからさっきのクジラみたいな存在の観察を目的にパトロールを行っているからよ。」
たしかに幽体離脱したら俺みたいに町を彷徨う人も少なからず居るだろうし、あのクジラみたいなやつに襲われる人もいるだろうから必要なことだな。
そういえばあのクジラについても気になるな。
「あのクジラって結局なんなんですか?」
「あのクジラだけど【
幽体同様、研究はぜんぜん進んでないけど私たちとは違って、もとからあの姿で生きている存在ね。
基本的には無害なんだけど、警戒心が強いから一度刺激すると襲ってくることもあるの。
あのクジラはまだマシだけど、中には強力な幽鬼もいるから見かけても近づかない方がいいわ。」
聞き慣れない単語ではあるが、要するに幽体の動物といったところだろうか。それにしてはクジラ以外見かけていないが、見逃しただけなのだろうか?というか他にどういうのがいるんだろうか?
「あ、あの…。あのクジラ以外にどんな幽鬼がいるんですか?」
他の幽鬼を見たことないし、何より危険な存在なら見かけたら避けなきゃいけない。
「う~ん…そうね、さっきのクジラみたいに動物型の個体もいれば、異形の個体もいるわ。異形の方も基本的に危険度は動物型とそう変わらないわね。」
少年の問いに対し、少し考えたあとに淡々と女性は答える。
異形というのがどんなものなのか気にはなるが、説明できないから異形なのだし、とりあえず近づかなければ危険ではないだろう。
少し安堵する少年だったが、女性は言葉を続けた。
「ただし、本当に危険な個体がいて、重力を操る個体だったり、私たちみたいな幽体を一瞬で消滅させちゃう個体だったりもいるって噂があるから注意してね!」
――なんだそれ!?そんなやつに会ったら絶対生きて帰れないだろ!というか、今思ったけど仮にこの体で死んだりするのか?
「あの…、この体って死ぬとかあるんですか?」
「死ぬ…というか消滅はするわね。」
おそるおそる聞いてみると女性はサラッと返答する。
まじか。そうなったら幽体で外を出歩かない方がいいのか。でも、さっきのクジラは物陰でも見えてたみたいだし、家でじっとしているだけでもリスクあるのか?
あれこれ考える少年に対して女性は言葉を続ける。
「消滅とは言っても、基本的には完全になくなるわけじゃないの。だいたいは幽鬼に吸収されて体の一部になるの。」
「それ、食われてるだけじゃないですか!?」
話を聞いて、思わず突っ込みをいれると女性はまたも驚いたように目をパチパチさせる。
「そうね…。…でも研究が進んでないから断言できないけど、もしかしたら吸収されたあとでも戻ってこれるかもしれないわ。」
女性は少し考えたあと返答する。
「それ、絶対無理なパターンじゃないですか!?」と突っ込みを入れたくなったが、女性の顔を見た瞬間そんな気持ちはなくなった。
――女性自身もそこまで考えていなかったのか、表情は曇っていて、不安な様子だった。それどころか、不安で押しつぶされて今にも泣き出しそうな雰囲気すら感じた。
考えてみたらこの人も人間だ。生きていたいと思うだろうし、ましてや幽鬼なんてわけの分からない奴に食べられて死ぬなんて怖いだろう。
死んだら元の体はどうなるか疑問に思ったが、今にも泣きそうな女性の顔を見たら聞けなかった。
「あ、あの!そういえばお姉さんのお名前聞いてもいいですか!…あ、僕は
不安に押しつぶされそうな女性の気分を紛らわそうと、話題を変えて明るく振る舞う。
実際、この女性とはお近づきになりたいし、名前が気になっていたのだが。
明の言葉に対し、目をパチパチさせる女性。心を落ち着かせるためなのか、呼吸を整える仕草をすると口を開く。
「ありがとうね。私は
こちらが気を遣ったことに気づいたのか、お礼を述べると名前を教えてくれた。そして真里さんから先ほどまでの不安な顔は消え、微笑みながら握手を求めてきた。
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします!」
微笑む奈津美さんに照れながらも、心を開いてくれたことを嬉しく思い、奈津美さんの握手に応じた。
その手から体温は感じないが、なぜだが心地よい暖かさがあった――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます