第二章 「悪魔の街」 第一話
村を出て、ふたたび帝国の鼓動が響く中心へ。レイジはセシリアとともに商業都市「アリンカ」の門をくぐった。陽光を反射する石畳は精緻に組み上げられ、街路には活気に満ちた声が交錯する。通りには活気のある商人たちの呼び声が響く。露店の布張りの天幕が風にはためく。耳を澄ませば、商人たちの声が潮騒のように満ち引きしていた。誰もが自らの商いを誇り、まるで詩人のように言葉を紡ぐ。異国の香辛料を売る男が「この粉ひとつでお前の料理が黄金に変わる」と謳えば、宝石商は「この石は持つ者を選ぶ。それはあなただ!」と囁く。その下に並べられた商品の多彩さに目を奪われながらも、彼は人々の顔ぶれを眺める。平民たちだけでなく軍人に貴族、旅行者が数多く居た。吟遊詩人が細身の竪琴を爪弾きながら、どこかの王の失われた恋を歌っていた。
田舎の静かな暮らししか知らない彼女にとって、この都市はまるで異世界だった。石畳の整然とした輝き、通りに立ちこめる香辛料と焼き立てのパンの香り、押し寄せるような人々のざわめき。そのすべてが、彼女を圧倒する。商店のウィンドウに飾られた色とりどりの宝石や、繊細な細工が施された金細工。通りを横切る馬車のきらびやかな装飾。すれ違う貴族の衣装の刺繍までもが、彼女の目には輝いて見えた。
「すごい……」
セシリアは息をのむように呟く。彼女にとって、この街はおとぎの世界そのものだった。街のあちこちにあるレストラン「ドルヴァンズ・ダイナー」で昼食を取ると。二人は散策を楽しんだ
扉を押し開くと、バターとハーブの香りが空気を満たした。木製のテーブルに腰掛け、二人は厚切りのローストビーフと熱々のスープを注文する。肉汁がナイフの刃に絡みつき、口に運ぶと、噛むごとに豊潤な旨味が染み出してくる。ワインを楽しむ商人たちの談笑が響き、給仕が素早く動き回る。
腹を満たした二人は、ふたたび街を歩いた。
一見すると栄えた商業都市だったが、黄金色の陽光が建物の壁を照らし、影を石畳に落としている。商人たちは店先の品を整理し、芸人たちは広場で客を楽しませていた。
しかし、レイジはふと足を止めた。
細い路地には表通りの華やかさとは裏腹に、そこは影が沈み込み、昼の熱を逃した冷たい空気が漂っていた。興味本位で覗き込むと、路地の奥で小さな焚き火が揺らめいている。その炎に手をかざし、身を寄せ合う数人の男たちがいた。浮浪者だ。彼らの服は擦り切れ、肌は薄汚れている。表通りの賑わいとは対照的に、彼らは言葉少なに火を見つめ、黙々と温まっていた。まるで、都市の端に取り残された影のようだった。
レイジは軽く息を吐いた。
(まあ、異世界だし。貧富の差くらい、当然あるか。)
特に気にすることもなく、彼は再び歩き出した。都市の光と影が、レイジの背後でゆっくりと溶け合っていった。はじめはありふれた光景に思えた。どんな都市にも、豊かさの裏には貧しさがある。食えない者は路地に転がり、寒さをしのぐために火を灯す。それは、この世界でも当然のことなのだと、彼は思っていた。
だが、ふとした違和感が背筋を撫でた。
彼らの着ている服は、確かに酷く汚れ、擦り切れていた。しかし、その生地の質が異様に良い。襟元の縫製は繊細で、布地にはかつての滑らかさの名残がある。色褪せた布の端には、かつて刺繍が施されていた痕跡すらあった。これは、もともと裕福な者が身に着けていた衣服ではないか?
さらに、彼らの仕草や動きも、路上に生きる者のそれとは違った。
レイジとセシリアの姿を見た瞬間、彼らは物乞いをするどころか、まるで見られることを恐れるように逃げていった。顔を隠し、声を潜め、存在そのものを闇に溶かそうとするような動き。それは卑屈な物乞いではなく、追われる者のような反応だ。じっと観察していると、残った者たちの会話が耳に入ってきた。震える声、焦燥を滲ませた囁き。だが、その言葉を発する口調には、妙な品があった。彼らは、粗野な物乞いではない。言葉の端々に、かつての矜持が残っていた。立ち居振る舞いにも、どことなく洗練された名残がある。
(こいつら……元からこういう暮らしをしていた連中じゃない?)
まるで、昨日まで普通の生活を送っていた者が、ある日突然、路上に投げ出されたかのような。
違和感が、レイジの中で不気味に膨らんでいく。
レイジは袋からから数枚の金貨を取り出し、セシリアに手渡した。
「しばらく、この辺で買い物でも楽しんでてほしい。」
「え? レイジは?」
「ちょっと気になることがあるんで。」
そう言い残し、彼は人波に紛れるように足早に通りを抜けた。
都市の喧騒の奥に、別の臭いがあった。それは、陰の気配。ジャーナリストとしての嗅覚が、異様なものを検知していた。
もう一度、先ほどの裏路地に戻る。焚き火の火はすでに消えかけ、浮浪者たちの影は疎らだった。レイジが近づこうとすると、男たちは一斉に目を伏せ、肩を縮めた。
「話を聞きたい」
レイジが低く呼びかけると、その言葉に反応したかのように、一人の浮浪者が僅かに顔を上げる。しかし、すぐに他の者がそっと彼の袖を引いた。
「……やめとけ」
男はかすれた声で呟くと、残った焚き火の灰を蹴散らし、身を翻して逃げた。残った者たちも、蜘蛛の子を散らすように姿を消していく。その反応には、絶望にも似た恐怖が滲んでいた
レイジは路地を出て、周囲の人間に話を聞いてみることにした。商人たちは浮浪者のことを話したがらなかった。「あんな連中に関わるな」と言い捨てる者がほとんどで、まるで腫れ物に触るようだった。しかし、それ以上に奇妙だったのは、治安を守る兵士たちの反応だった。
「……奴らのことは、放っておけ」
「なぜだ? 彼らが何をした?」
「…あいつらは、死んだんだ」
死んだとは、どういう意味なのか。ただの浮浪者にに、そんな言葉を使うものだろうか?兵士の顔には軽蔑ではなく、明らかな怯えがあった。まるで、この都市は何かを隠している。レイジは確信に似た感情を持つ。
ふとレイジはゴミ箱から食べ物を漁る浮浪者の少女を見かける。年の頃は十歳前後だろうか。顔は煤け、髪はぼさぼさに乱れている。しかし、その身のこなしは異様に素早く、まるで夜のネズミのようだった。彼女はゴミ箱の中をまさぐり、食べ残されたパンの欠片を見つけると、迷いなく口へ押し込んだ。レイジは屋台で焼きたてのミートパイをてばやく受け取ると、少女の後を追い始めた。
少女は人目を避けるように、通りを抜け、細い路地へと入り込んだ。レイジは距離をとりながら、息を殺してその行方を見守る。
そこには、二人の男女が待っていた。男はやつれた顔をしていたが、端正な造りの顔立ちだった。髭は伸び、服は薄汚れているが、どことなく威厳を感じさせる。女は細身で、淡い色の髪が乱れたまま肩にかかっていた。二人は少女を抱き寄せ、安堵したように彼女の顔を覗き込んでいる。
レイジは直感した。彼らは、少女の両親だ。
しかし、何かがおかしい。彼らはまるで、この都市の空気そのものを恐れているようだった。路地の奥に隠れるように暮らし、誰にも見つからないように身を潜めている。その姿は、単なる貧民ではなく、追われる者のそれだった。
レイジは、三人の前に姿を表した。男と女の顔が一瞬で強張る。男の手が反射的に少女を庇い、女の指が薄汚れたスカートを握り締める。
「大丈夫だ、別に害意はない。」
レイジは静かに言いながら、手に持っていたミートパイを持ち上げた。
「俺はちょっとばかり好奇心旺盛な旅のものだ話を聞かせてくれるなら、こいつをやる」
少女の目がパイに釘付けになった。彼女はゴクリと喉を鳴らし男の服を引っ張る。男はレイジを睨みつけたままゆっくりと息を吐いた。
そして路地の奥に沈む影の中で三人は重く口を開いた。
パイを渡すと、少女は貪るようにかじりついた。
やがて、男が静かに口を開いた。
「俺たちは、もともとここで商売をしていた」
その声はかつては堂々と客を迎えていたであろう商人の語り口。しかし、今の彼の姿は、それとはかけ離れていた。
男は苦く笑った。まるで、それが遠い昔の話であるかのように。
「だが、ある時から……奴らが来た」
「奴ら?」
レイジの問いに、男の顔が険しくなる。女は目を伏せ、震える指先で少女の背中をさすった。
みかじめ料を払え、ってな。最初はわずかだった。そこまで負担にはならなかったさ。でも、だんだんと額が釣り上がっていった」
男の声が少しずつ硬くなる。
「払えなくなると、奴らは店を荒らした。それだけじゃない……殴られることもあった」
レイジは静かに耳を傾けた。
「それでも店を続けようとした。何度も支払いの猶予を頼んだ。でも…。」
その言葉の先は聞く必要はなかった。この状況こそが答えだ。
「奴らの商売の邪魔になったんだ」
女が震える声で囁いた。
「何かを売るのは奴らの特権だった。俺たちは不要になった。ただ、それだけの理由で……」
レイジの脳裏に、先ほどの兵士の言葉が蘇った。
「あいつらは、死んだんだ」
このこの一家はこの街から追われ、存在そのものを消されたのだ。
「……奴らって、誰だ?」
レイジの問いに、二人は同時に顔を曇らせた。まるで、その言葉自体が呪いであるかのように。男の喉がわずかに動き、女の指が無意識に震える。子供は怯えきってしまっていた。
レイジはそれ以上、問い詰めるのをやめた。これ以上は拷問にしかならないとわかっていた。
夕暮れが街を赤銅色に染める頃、レイジはセシリアと合流した。
しかし、彼女の顔は強ばっていた。
「……この街、嫌だ。早く出たい」
開口一番、セシリアはそう言った。
「どうした?」
セシリアは小さく息を呑み、肩を抱くように腕を組んだ。
夕暮れが街を赤銅色に染める頃、レイジはセシリアと合流した。
しかし、彼女の顔は強ばっていた。
「……この街を早く出たいです。」
開口一番、セシリアはそう言った。
「どうした?」
「さっき服屋で買い物してたの。そしたら…」
「明らかに"怖い人たち"が入ってて…乱暴な感じで、店主に何か言ってて…最初は静かだった。でも、途中から店主を恫喝し始めたんです。」
レイジは静かに聞いていた。
「それだけじゃない。殴ってた。店主、お金を払うとか何とか言ってたけど…」
セシリアの声がかすかに震える。彼女の手が無意識に袖を握りしめていた。
「…私は怖くて動けなくて。でも、気づかれたくなくて、じっとしてた。しばらくしたら、奴らは出て行ったけど……あの店主、大丈夫だったのかな」
その目は明らかに怯えていた。
「こんな街、長くいたくないです。」
レイジは何も言わず、歩き出した。セシリアの言葉を脳内で反芻しながら、宿へ向かう。
レイジはフロントで鍵を受け取ると、セシリアに向き直った。
「俺は別の部屋を取ったから。まちがいが起きないようにな」
セシリアはわずかに微笑んだ。だが、その表情にはまだどこか不安が残っている。
そう言うと、レイジは自分の部屋へ向かう素振りを見せた。階段を上がりかけ、セシリアが部屋に入るのを確認すると、彼は静かに踵を返した。宿の扉を開け、夜の街へと消えていった。ジャーナリストの本能に導かれるままに…。
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