ああ!昭和は遠くなりにけり!第8巻
@dontaku
第8巻
次女の里穂がその才能に目ざめ驚きの成長ぶりを発揮していきます。
ああ、遠くなる昭和の思い出たち
淡い恋心・・・信子そして美穂と里穂
楽器店は大繁盛を続けていた。特に夏祭りが終わる翌日から改装工事のため5日間休業となるために在庫処分セールを行っていることも大繁盛の一因だった。そんな中早紀さんが嬉しい悲鳴を上げる。
「どうしたんですか?」レジに一緒にいた小春さんが尋ねる。
「こ、こ、小春さん!売り上げが2桁いった!」そう言いながらパソコンの画面を指差す早紀さん。それを覗き込む小春さん。「うそ!本当だ!」二人で驚き合う。一刻も早く販売研修に立ち会っている春子おばあさんに伝えたいのだが人手が足りない。
「お客様お願いしまーす!」遥香さんがお客様をレジカウンターへ案内してきた。また売れた!11台目だ。新記録を更新している!
売り上げは伸びるが、逆に殆どの製品の在庫が無くなってきた。
早紀さんの携帯が鳴る。販売部担当者さんからだ。早紀さんのパソコンと繋がっているのだろうか大きな声が受話器から聞こえてくる。
「早紀ちゃん!記録更新!しかも2桁だ!おめでとう!社内表彰確実だぜえっ!」
忙しい中あっという間に3時になった。慌てて遥香さんの車に戻ろうとする3人。偶然エレベーターホールで組合長さんに会った。
ご挨拶をしてエレベーターを待っていると「下だとエスカレーターの方が早いよ。」と教えてくれた。
「いえ、駐車場まで行くんです。」そう答える遥香さんに恐ろしい事実が!「いやいや、お祭りの山車が通るからこの辺りは通行止めだよ。だから今駐車場の出入り口を閉めてきたんだよ。」それを聞いて焦る遥香さん。「急いでいるんです。タクシー乗り場はロータリーのところですよね?」そう言う遥香さんに「公共交通機関は大丈夫だよ。ただ、山車が来る前に出発した方が良いよ。一時通行止めになるからね。」そう教えてくださった。改めてお礼を言ってエスカレーターを使い駅前のロータリーへ急ぎ足で向かう。幸い数台の車が停まっていてスムーズに乗車できた。「町民ホールまで。」と告げると「はい!」という元気な返事が返ってきた。駅周辺は一般車両の通行が規制されているためスイスイと走って行く。途中で私に美穂が電話を入れる。美穂の話が終わると運転手さんが感心して話しかけてくれた。
「小学生で携帯持っているんですね。ご両親に信用されているってことが良く分かりますよ。」
こうしてタクシーは渋滞に巻き込まれることもなく無事に町民ホールへ到着した。通用口で名前を告げ出演者名簿とチェックしてもらう。大部屋と呼ばれるただっ広い控室には40名ほどの出演者の皆さんが。優太ママが声を出して呼んでくれた。やっと4人と合流できた。「お店、どんな具合?」口々に4人から質問が飛ぶ。遥香さんが説明してその内容に驚く4人。
「問題は改装後だよね。客足が今の様に続けばいいのだけど・・・。」
優太ママが言う。
「そうね。お祭りという特別な要因が影響しているせいだと思うわ。
通常の生活に戻ったら音楽関係の需要ってどれ位かしらね。」信子もそう言って心配する。
「音楽教室に申し込みが多かったです。お教室が有名になればそれだけでも活気が出ると思います。」遥香さんが言う。
「うん。買う買わないは別として定期的に通ってくれる子供たちがいれば当然保護者も付いてくる。しかし毎回毎回ピアノを買ってくれる訳じゃあないからねえ。」私もそう言って腕を組んだ。
「ピアノ教室とか上手な子って結構いるじゃない。ピアノコンクールに出場できます!って謳い文句にすれば?だって春子おばあさんって音大の大先輩でしょ。学校長さんに話してみようよ。」美穂の提案に皆が頷く。
「幸い、この県は教育熱心ってことで有名らしいよ。だから習い事には皆積極的だよ。音楽教室に力を入れればピアノの販売が少なくても大丈夫なんじゃあないかなあ。」優太君も美穂の意見を推した。
ふと気が付くと控室の人数がかなり減っていた。受付で頂いた番号札をそれぞれ確認する。46番からトリの50番までだ。
「楽しく歌いましょう!」そう言って7人で円陣を組む。皆に緊張など微塵もなかった。コンクールや演奏会で当たり前の様に楽器を弾いているからだ。
いよいよ46番が呼ばれる。優太君だ。「雨の中の二人」の前奏に合わせて舞台中央へ進む。見ず知らずの土地なのに何故か賑やかな声援が飛ぶ。そう!高原高校の音楽部を始めとする皆さんたちだ。
「きゃあーっ!」会場から黄色い声援が飛ぶ。甘い優太君の歌声を初めて聴く高原高校の皆さんたち。「ヴァイオリンだけじゃあないんだあ!」「優太君素敵!」と他の中高生のお客さんからも声援が飛ぶ。
それに答えて小さく手を振る優太君。控室の美穂がモニターを見つめながら少しご機嫌ななめだ。「もう!おだてに弱いんだからあ!」
続く47番は遥香さんと美穂の「恋のバカンス」だ。2人がマイクを持って登場すると男子たちの声援が飛ぶ!しかも高原高校の運動部の皆さんだけではない。会場のあちらこちらから男の子たちの声援が飛ぶ。そして2人の見事な歌声とハーモニーに静まり返る会場。
「本当に素人なの?」会場のあちらこちらからそんな声が漏れ聞こえる。歌が終わると物凄い応援合戦だ。それに手を振って応える2人。手には応援用のうちわが!それには“天使の3姉妹”と書かれている!それを知っているということは関東地方からの追っかけファンなのだろうか。「はるかちゃーん!」「みほちゃーん!」と野太い声援が飛ぶ。司会者も会場の皆さんもその訳が分からず唖然としていた。
次の48番は素人っぽくない優太ママの登場だ。音楽部の皆さんから声援が飛ぶ!それに応えるようにオペラ調の見事な「学生時代」を歌い上げていく。司会者のお姉さんも呆れんばかりの貫禄だ。「なんなの?この人たち?」
さらに49番は信子と私の「銀座の恋の物語」だ。初めて聴く私たちの歌声に美穂と里穂はじっとモニターを見つめている。
あのクリスマス会のことが蘇ってくる。
「こころのそこまでしびれるような♪」信子の歌い出しで会場がざわつく。そして「といきがせつない♪」と私が続く。会場の中高生の皆さん方はぽかーんと口を開けて聴いてくださっている。
モニターの前の2人の娘は目に涙をためてじっと聴き入っていた。
美穂は自分と同じ年に結ばれていた私たちの歌声に感激して震えていた。「パパとママ素敵!」里穂もそう言って一筋の涙をこぼした。
会場からの大きな拍手に二人揃って手を繋いでお辞儀をする。一層の拍手を頂いた。控室に戻ると3姉妹が飛び付いてきた。「うん、うん。ありがとう。」
「さあ、いよいよ本日最後の方をお迎えします。」そう言って50番の里穂が紹介される。
「うおおーっ!」会場から応援団の凄まじい声が上がる。
他のお客さんはトリで登場した小学3年生に多少戸惑っていた。「本当に最後が小学生の女の子で間違いないのか?」しかしこの後会場が驚きぶっ飛ぶことになる。実は私たちも里穂の本気の歌声を知らなかった。「帰ってこいよ」の前奏が流れる。応援団の皆さんからも困惑の様子がうかがえる。てっきり可愛らしい歌を歌うものと期待していたようだ。
「きーいいっとかええーってくーるんだとおーっ♪」民謡で鍛えたパンチのある声に圧倒される会場。とても小3の歌声ではない。こぶしもガンガン利かせながら歌っていく。会場には里穂の歌声が響き渡る。里穂の歌声は完全に会場を飲み込んでいた。
歌い終わると物凄い拍手と声援が飛ぶ。「りほちゃーん!」あちらこちらから野太い声援と黄色い声援が沸き起こる。嬉しそうにそれに手を振って応える里穂。
「すごおーいい!まるでアイドルみたい!」遥香さんがモニターを見てそう呟く。
「遥香お姉ちゃん、皆さんの中に“天使の3姉妹”って書かれたプラカードとかうちわを持っている人が結構いるわよね。この人たちって関東から来てくれているのかなあ?」美穂に言われてモニターを見つめ直す遥香さん。「あっ!」何かを見つけた遥香さん。指差したのは会場最後部の通路で観光課の皆さんと談笑する早紀さんだ。
「わあーっ!早紀さん、来てくださったんだあーっ!」喜ぶ2人。
そんな時に里穂がステージから戻って来た。他の出演者の方々から拍手で迎えられる里穂は少し恥ずかしそうだった。
もう何時もの里穂に戻っていた。
翌日は夏祭りの最終日。今日は昨日同様町民ホールで演奏を披露する日だ。出演は午後3時頃ということで3人はホテルの送迎バスを利用して楽器店へ向かう。開店前のミーティングに参加させていただく。
ピアノの売り上げが発表された。ピアノ5台、電子ピアノが8台という新記録を更新した。
もう一点は、音楽教室の申し込みが当初予定の50名を遥かに超える約200件の応募があった。今日の分を含めることを考えてもスペースが足りない。このビルを含めた物件を探しているとのことだった。
そして駅ビルの2階に2店舗、1階に1店舗の空きがあることを確認しており家賃を考慮すると1階の広い店舗をレッスンスタジオとする案を本社に提案しているとのことだった。
最後に、レッスンにあたる講師を手配している旨が発表された。
地元の大学の音楽科の学生さんを中心に採用するとのこと。高原高校の音楽部顧問の桜さんが第一候補だそうだ。
「私がピアノ弾いているからたまには二人で遊びに行きなよ。」気を利かせてくれる遥香さんの気持ちに甘えて出かけることにした。
二人でエスカレーターを使って1階に下りる。しばらく駅前商店街を歩く。
すでに10時を過ぎているせいか殆どの店がオープンしていた。
不意に優太君が美穂の左手を掴んだ。「えっ?」驚く美穂。
「追けられてる!あそこの路地を曲がろう。」そう言って狭い路地へ。直ぐに入り口の空いていた店へ逃げ込む。ドアの脇のスペースに身を隠してやり過ごす。何人かが中を覗き込んだが入っては来なかった。安心した二人に良い匂いが。そこは古い喫茶店だった。一番奥の席に隠れるように座る。年配のウエイトレスさんがお冷を持ってきてくださった。「ご注文は?」と聞かれてアイスミルクティーを注文する。かなりレトロな喫茶店だ。ごついソファーが身を隠すのに丁度良かった。小さなボリュームでジャズが流れている。二人ともじっくりとジャズを聴くのは初めてだった。サックスやピアノの軽快な演奏に聴き入る二人。自然と音楽の話になる。
入り口が開いた。「すみません。小学生の2人連れが来ませんでしたか?」口ひげを蓄えたマスターが答える。「うちは高校生以下はお断りしているよ。」そう言って入り口のドアを閉めた。
「ありがとうございました。おかげで助かりました。」二人でお礼を言う。「でも、なぜ私たち小学生を入れてくださったんですか?」美穂が尋ねる。「いや、特に理由は無いよ。」少しぶっきらぼうに返事をするマスター。
「はい、お待ちどうさま。」アイスミルクティーが運ばれてきた。
美穂が無意識に右手を動かしているのを見た老ウエイトレスさんは尋ねた。「お嬢さんはピアノを弾かれるのね。」「あ、はい。」そう答えたもののなぜ分かったのかが不思議で仕方なかった。
「ふふ。右手の指が自然に動いていたからよ。」そう言って下がって行った。「そうかあ。」そう言って自分の右手を見つめる美穂。その仕草が可愛くて仕方がない優太君だった。
流れてくる小気味良いジャズの旋律に身を委ねながら二人で話し込んでいるともうお昼近くになろうとしていた。
美穂の携帯が鳴る。遥香さんだ。「そろそろ時間だよ。何処にいるの?迎えに行くから。」今いるジャズ喫茶“樹林”の場所を伝える。「追けられるかもしれないから気を付けて!」そう言って電話を切った。
「マスター、お願いがあります。チーズトーストを持ち帰り用で3人前お願いします。」
店の入り口が開いた。遥香さんだ。「こんにちは。小学生の2人連れがおりますでしょうか?」そう言って入ってきた遥香さんに椅子から半分身を乗り出した美穂が手を振る。
「私にもアイスミルクティーをください。」
「お店の方はどうだった?」心配そうに美穂が尋ねる。
「うん。5人入ってくれてどうにかって感じだよ。心配はいらないわ。」そう言って答える遥香さん。
「今日を乗り切れば春子おばあさんも一息付けるね。」優太君のその言葉に驚く喫茶店のお2人。
「楽器店の春子さんを知っているのかい?」チーズトーストを包みながらマスターが3人に尋ねる。
「はい。うちの母の大先輩なんです。たまたまヴァイオリンの弦を買いに行ってから仲良くさせていただいています。」そう答える美穂。
「まあ、そうだったの。実は私たちも音大で一緒にピアノを勉強していたのよ。」そう言いながらチーズトーストを3箱持って来てくれた老ウエイトレスさん。
「そう、お店が暇なときは小春ちゃんに任せてカウンターで昔話をしているんだよ。ここ1週間は顔を見ていなかったから少し心配していたんだよ。」そう言いながら美穂たちを優しい目で見つめてくれるマスター。
「今日2時から町民ホールで演奏をするんです。よろしければ是非おいでください。あと、今月の土日の夜7時には定期演奏会を高原ホテルで催しています。」そう言って美穂がお代を払おうとすると「春ちゃんのお孫さんたちから貰う訳にはいかないよ。」と頑なに拒まれてしまった。今回はお言葉に甘えることにした。お礼にと持ち合わせていたちらしに3人で寄せ書きをしてお渡しした。
美穂が携帯でタクシーを呼ぶ。町民ホールまでと告げると喫茶店の裏まで来てくれるとのことだ。駅前から5分もかからないというので店を出て待つことにした。
「ダージリンのミルクティー、美味しかったです。お世話になりました。」そう言って3人でお礼を言うと紅茶の銘柄を言い当てた美穂に「良く分かったね。」とにこにこ顔で見送りをしてくださった。
こうしてまだ温かいチーズトーストを持って町民ホールへ向かう3人だった。
美穂たちが店を出るのと入れ替わる様に春子おばあさんが店に入ってきた。「ご無沙汰でした。」そう言いながら何時ものカウンター席に座る。「夏休みは学生さんたちが来ないから寂しいわね。」そう言いながらアイスミルクティーとトーストを注文する。
「春ちゃん、さっきまで小学生3人組が奥の席にいたんだよ。可愛い子たちでね、春ちゃんのことを知っているみたいでさあ。」マスターはそう言いながらアイスミルクティーを出す。
「まあ、そうだったの。美穂ちゃんたちが。」少し驚く春子おばあさん。
「そう、美穂ちゃんと遥香ちゃん、そして優太君って呼び合っていたよ。」マスターの言葉に頷く奥様。「これを書いて行ってくれたのよ。」嬉しそうに3人のサインが書かれたちらしを見せてくれる奥様。
「今度少し落ち着いたら妹の里穂ちゃんと2人のママもお連れするわ。2人とも音大卒の現役の楽団員。特に美穂ちゃんのママは歌ちゃんの最後の愛弟子なのよ!」アイスミルクティーとトーストを頂きながらの3人の楽しいお喋りは続いた。
町民ホールに着いた3人は控室でチーズトーストをほおばっていた。
自販機で牛乳を買い食べ進めていると信子たちが到着。里穂は美穂たちが食べているチーズトーストが欲しくてたまらない。美穂の傍へ行き一口頂き、遥香さんの所へ行きまた一口頂く。「美味しい!」そう言ってはしゃぐ里穂が全員可愛くて仕方がない。それを見ていた他の出演者の皆さんから思わず笑みがこぼれる。
いよいよ出番が近づく。遥香さんと里穂は電子ピアノをスタンドごと持ち上げて幕の後ろへ行きセッティングを行なう。美穂は里穂のセッティングを手伝う。優太君と2人のママもヴァイオリンを持ってスタンバイだ。
前の組の演奏が終わり幕が開く。拍手が起こる。昨日のような大騒ぎにはならず安心する5人。美穂は会場を見渡す。昨日一生懸命声援を送ってくれた皆さんが来てくれていた。今日は演奏会ということでマナーを守り拍手で応援してくれているのだ。皆さんの節度ある応援に感謝する美穂だった。
優太ママの掛け声と共に美穂のピアノから演奏が始まる。
そして優太君のヴァイオリンが鳴り響く。2挺のヴァイオリンが、3台のピアノが優太君の独奏を盛り上げる。想像以上の小学5年生の演奏に驚きを隠せない会場の皆さん。物音一つしない会場に優太君のヴァイオリンが音を響かせていく。後半の高速演奏は最大の見せ場だ。町の広報課の皆さんは「レベルが違い過ぎる!」と嬉しい悲鳴を上げていた。
演奏が終わり一同でお辞儀をして幕が降りる。拍手が鳴り止まない中控室へ戻る。「お疲れ様!」そう言って6人でハイタッチを交わす。
控室には次の演奏を控える数グループがいたが、全員が拍手で出迎えてくれた。皆さんへの挨拶もそこそこに私と2人のママは高原ホテルへ引き揚げる。残る4人は春子おばあさんのお店へ向かう。今日は夏祭りの最終日。今の店舗での最終営業日でもある。
タクシーで高原駅まで戻り急ぎ足で2階の店舗へ向かう。
時間は午後3時だ。午後からのピアノ演奏はストップしたままだ。
相変わらず大賑わいのレジカウンターの春子おばあさんに声を掛けて遥香さんと美穂の2人がピアノへと向かう。
2人が現れると拍手が起こる。2人並んで座ると「?」と思う皆さん。
2人の連弾が始まる。先ずは「トルコ行進曲」からだ。思わぬ連弾の演奏に皆さんはびっくりだ。演奏を聴いてどんどん人が集まってくる。「すごい!練習をするとお姉さんたちみたいに弾けるようになるんだよ。」と幼い娘さんに話すお父さん。
連続演奏で「仮面舞踏会」へ繋いでいく。見事過ぎる演出に誰もこの場を離れようとしない。助っ人で来てくれている音楽部の皆さんたちも余りの迫力につられてテンションを上げていく。疲れたなんて言っていられない!
更に3曲目へと突入する。「モルダウ」だ。2人の連弾の妙技に陶酔したかの様なお客様たち。優香さんと早紀さんも作業の手を止めて聴き入ってしまうほどだった。
曲が終わると盛大な拍手が商店街を響かせる。
ここで里穂にバトンを渡す。里穂の1曲目は「渚のアデリーヌ」だ。
火照った身体を冷ますような落ち着いた演奏を見せる里穂。小3の里穂の演奏は皆の心を癒してくれるかのようで、会場は落ち着きを取り戻したかのようだ。
そして里穂の演奏は「エリーゼのために」へと繋がって行く。いつの間にか美穂の特技を収得している。しかもさらりと弾いて見せる。店内で聴いていた美穂本人も、遥香さんも「わあっ!」と思わず声をあげるほどのスムーズさだった。当然、春子おばあさんも聴き逃さなかった。「里穂ちゃん!やるわね!」
そんな皆の思いをよそに里穂の演奏は続く。3曲目は「乙女の祈り」だ。里穂らしい愛らしい演奏だ。やはり身近に感じられるのだろうか小さな女の子たちが目を輝かせながら聴いてくれていた。
3曲目で里穂の連続演奏は終わった。
しかし直ぐに4曲目に入る。
「くるみ割り人形より花のワルツ」だ。この曲も密かに電子ピアノで練習していた曲だ。初めて聴く里穂の「花のワルツ」に驚きを隠せない遥香さんと美穂。「美穂ちゃんがピアノを始めたのと同じ、いや、それ以上のスピードで成長している!」遥香さんはそう感じた。
里穂が演奏を終え皆さんの拍手にお礼をしているとすぐ脇に春子おばあさんが拍手をしながら立っていた。
「里穂ちゃん、お疲れさま。一緒に休憩に行きましょう。」そう言って歩き出す。2人で手を繋いで歩く姿はまさしく祖母と孫だ。駅前商店街を少し歩いて角を曲がると喫茶店に着く。そう、昼間に3人がお世話になった“樹林”だ。「ここはね、私のお友達がやっているお店なの。」そう言いながら入り口の扉を開けて里穂の手を引いて入って行く。
「いらっしゃい!あれ!春ちゃん。」マスターが声を掛ける。
「今日2回目だね。あのね、孫の里穂ちゃんを連れてきたのよ。」そう言って何時ものカウンター席に座る。里穂もその隣に座る。
里穂は嬉しかった。“孫”と言ってくれたことがとにかく嬉しかった。
身内のように接して貰えていることが本当に嬉しかった。
「はじめまして。里穂と言います。」そう言ってマスターと奥様にご挨拶をする。「こちらこそよろしく。」お2人は笑顔で答えてくださった。「今日は夕ご飯にするのかな?」マスターが春子おばあさんに尋ねる。「そうだね。何か食べておかないとね。」そう言ってメニューを里穂に渡してくれた。メニューのページをめくりながら里穂が見つけたのは“エビフライ定食”だった。「これにします。」そう言ってメニューを指差す。「それじゃあ“エビフライ定食”を2つお願いね。」里穂は調理場で料理を作るマスターの動きをじっと見ていた。
「里穂ちゃんはお料理も興味があるんだね。」春子おばあさんが感心したように言った。「うん。いつもママやお姉ちゃんと台所に立っているの。2人ともお料理上手だから色々教わっています。」その答えに3人で改めて感心した。
やがて“エビフライ定食”が出来上がった。大きなエビフライが2本と高原キャベツとレタスのサラダ、それにお味噌汁とご飯が付いてくる。
「エビは揚げたてだから用心してね。」そう言いながらマカロニサラダの小鉢を出してくれるマスター。「ありがとうございます。いただきます。」そう言って先ずは高原キャベツとレタスのサラダにドレッシングをかけて食べ始める里穂。「先にサラダから食べるのね。理にかなっているわ。」春子おばあさんが呟く。それにうん、うんと頷く奥さん。小3にしては綺麗な食べ方を披露する里穂にまたまた感心する3人だった。エビフライの尻尾まで綺麗に食べ終わると「ごちそうさまでした。」と手を合わせる。その様子を見ていた他のお客さんから「まあ!可愛いこと!」と声が上がる。少し恥ずかしそうに照れる里穂にデザートと飲み物を勧める春子おばあさん。
「それがケーキ類は売り切れてしまったのよ。ごめんなさいね。」奥さんが申し訳なさそうに言う。「あら、そうなの。」残念そうな春子おばあさん。「いやいや、里穂ちゃん。良いもの作ってあげるよ。」マスターはそう言いながら銅製のフライパンを取り出した。そこにホットケーキの生地を流し入れる。小さなホットケーキを作って行く。それにアンコと生クリームを乗せてホットケーキで挟むと“どら焼き”の完成だ。2つ目の“どら焼き”を作りながら「2人とも飲み物は何にする?」と聞いてくれた。「アイスミルクティーをお願いします。」里穂が答える。「それじゃあ私も。」
2人でアイスミルクティーを頂いている間に“どら焼き”が出来上がった。それぞれのお皿に2つずつ乗っている。まだ熱々の“どら焼き”をふうふうしながら一口目をほおばる。「美味しいです。」そう言ってにっこりと微笑む里穂に癒されるマスターご夫婦。里穂はまだ湯気が出ている“どら焼き”を美味しそうに食べ進めていく。
不意に里穂のお皿に伸びてくる手が!お客さんの連れの小さな男の子だ。「だめだよ!あついから!」里穂の声に驚いて泣きそうになる男の子。「冷めたら持っていくから待っていてね。」優しい里穂の言葉に一転して笑顔になって自分の席へ戻って行く男の子。
「マスター、小さなお皿をお願いします。里穂はお皿を受け取ると紙ナプキンを敷き“どら焼き”の半分を別の紙ナプキンで包んだ。そしてそれを男の子の元へ。
「失礼します。お兄ちゃんに“どら焼き”のおすそ分けです。ただ、小麦粉、粒あん、卵、牛乳が使われています。差し上げてよろしいでしょうか?」そう言ってご両親の返事を待つ。小学生の意外な声掛けに驚いたようなご両親。「は、はい。ありがとうございます。」と言ってくださった。「ぼく、良かったね。美味しいから食べてみてね。」そう言って自分の椅子に戻る里穂。すると空になったはずのお皿に“どら焼き”が。「里穂ちゃん、年寄りに2つは多いから助けて頂戴。」春子おばあさんはそう言って笑った。
「そうか、これからはアレルギー対策も考えなければいけないのか。普段小さな子供さんは来ないからすっかり油断していた。里穂ちゃんには良い勉強をさせて貰ったなあ。」ご夫婦はそう言って里穂にお礼を言った。
「あら、もうこんな時間だわ。お店に戻らないと。里穂ちゃんは6時以降のお仕事は出来ないからね。町の条例で小学生のお手伝いは夕方6時までと決まっているの。」春子おばあさんはそう言って里穂をなだめるように言い聞かせた。
「こんにちは。昼間はお世話になりました。」そう言って入って来たのは遥香さんだった。
車が出せる時間を聞きに組合事務所へ行ったものの皆さん出計らっていて鍵がかかっているとのこと。
「遥香さん、何時から停めているの?」春子おばあさんが尋ねる。
「昨日の朝からです。」そう答える遥香さんに春子おばあさんは言った。「店のレジの中に店子専用の駐車割引券が入っているわ。それを出る時に駐車券と一緒に入れれば何泊していても無料で出られるわ。後で渡してあげる。お祭りは夜10時には終わるから誰かが駐車場の出入り口を開けに来てくれるわよ。」その言葉に安心した遥香さんだった。安心した途端にお腹が空いた遥香さん。思わずメニューを手に取る。「ナポリタンとアイスレモンティーをください。」と注文する。
「遥香お姉ちゃん、美穂お姉ちゃんと優太お兄ちゃんは?」里穂が尋ねると遥香さんが里穂の耳元で小声で言った。
「二人でおデートだよ。」
「それじゃあ遥香さん、里穂ちゃんをお願いね。」そう言って春子おばあさんは店へ戻って行った。
「遥香さんって免許持っているの?」奥さんが恐る恐る尋ねた。
「はい。先日取ったばかりですけど。」そう答える遥香さん。
「と、いうことは、遥香さんは18歳?」マスターが思い切ったように尋ねる。
その様子を見聞きしていた里穂が笑い出した。「遥香お姉ちゃん、また中学生と間違えられていたんだよ!」そしてきゃっきゃっと大笑いする。「い、いや、そんな・・・。」慌てふためくマスターと奥さんだった。
「18歳ということは高校3年生だね。進学するの?」マスターの問いに「はい。音大を受験します。」と明るく答える遥香さん。
「あらあーっ!私たちの後輩になるのね。」そう言って喜ぶ奥さん。
「えっ!後輩って?」驚いて尋ねる遥香さん。
「私と夫は春子さんと同期なのよ。」そう話してくれる奥さん。
「と言うことは、歌子お母さまの・・・。」意外な展開に言葉を詰まらせる遥香さんだった。
夜も更けてきた。そろそろお祭りも終わる。遥香さんと里穂は“樹林”を出て楽器店に戻る。祭りは最高潮で大勢の人出で駅周辺は大賑わいだ。人の波をかいくぐるように楽器店へ戻る。楽器店は閉店の準備に取りかかっていた。長年親しまれたこの店舗も1週間後には新たな店舗として生まれ変わる。
全員が集まって店舗前で記念撮影。三脚を立て、全員が写真に収まる。そして拍手が起こる。最後は清酒で入り口でお清めをする。皆の目には惜別の涙が。春子おばあさんから感謝の言葉が。皆がお店に向かってそれぞれ言葉を投げかける。
「ありがとう!」「今までありがとう!」泣き崩れる春子おばあさんを自分も泣きながら気遣う里穂。皆、何度も何度も振り返りながら手を振って帰路についていく。
「春ちゃん、お疲れさま。しばらくはゆっくりしなよ。」組合長さんたちがそう言って労ってくださった。
しばらくして駅ビル商店街の明かりは消えた。
さあ、それからが大変だった。タクシーが長い行列でいつ乗れるか分からない。高原高校の7人の生徒たちは私のワゴン車で送ることにした。取り敢えず遥香さんの車で春子おばあさんと小春さんを自宅まで送り、ワゴン車を取りにロッジまで戻る。それまで皆さんには“樹林”で待機していただくことにした。突然の若いお客さんたちでマスターと奥さんは嬉しい悲鳴だ。すかさず美穂と里穂がウエイトレスさんとなる。注文を取って回る姿が可愛らしい姉妹だ。
そんな2人を目を細めて見つめる2人のママ。カウンターに座った2人のママはマスターと奥さんにご挨拶。そして音大トークに花が咲いた。その話の中で美穂と里穂にも音大の流派が引き継がれていることを確認し喜び合った。
遥香さんの車と私のワゴン車は“樹林”の裏道に停車した。遥香さんが携帯で連絡をする。
「マスターごちそうさまでした。」「お休みなさーい。」口々にお礼を言って店を後にする7人の女子生徒たち。遥香さんの車は4人しか乗れないため先に美穂と里穂、優太君の小学生3人がロッジへ戻ることとなった。2人のママはお店の後片付けのお手伝いをするという。と言っても楽しくお喋りをしながらだろう。
2台の車はそれぞれにスタートしていく。私のワゴン車は女子生徒たちの道案内で一人、また一人と送り届けていく。どこのお宅の玄関も娘の帰りを待ちわびているかのように明かりが灯されていた。
最後の一人を送り届けて私はロッジへ戻った。
丁度その頃、2人のママを乗せた遥香さんの車がロッジに到着していた。ホテルの敷地を走る私のワゴン車の後ろにヘッドライトが見えた。優香さんと早紀さんの車だ。
これで全員が揃った。
さっそくご苦労さん会の始まりだ。皆でジュースで乾杯!疲れた身体に甘いジュースが染み渡る!
最初に優香さんから今日の販売成績の発表があった。販売台数は驚異の18台だった。その内3台は店にあった在庫のピアノだ。特に皆が弾いていたピアノは複数の購入希望者がいらしてくじ引きになったという。更に、駅ビル1階の店舗の入店も正式に決まったとのことだ。更に、更に、出張時の宿泊先ホテルにこの高原ホテルが選ばれたそうだ。そのお礼として2泊3日の無料招待券が2名2組分頂けるとのこと。「それは春子おばあさんと小春さん、そして後は“樹林”のマスターご夫婦に差し上げようよ。」里穂の提案に全員賛成だった。
「ママ、こんな時に何だけど・・・。」美穂が信子に話しかける。
「なあに,美穂。」信子が美穂を優しく見つめる。
「あのね、教えて欲しいんだけど、どうして里穂はピアノコンクールに出ないの?」言われてみればもっともな疑問だった。
この美穂の発言に一番驚いたのは当の本人里穂だった。
「実はね、推薦枠で出てくれないかと学校長さんからも依頼があったの。すごく嬉しかったわ。里穂のことを気に掛けてくださって。でも、お断りしたの。遥香さんと美穂、そして優太君も分かっていると思うけど、今の里穂の実力は小学校低学年の部の範疇をとっくに超えているのよ。そんな里穂の演奏を聴いたら他の皆さんが委縮してしまうわ。だから来年4年生になった春のコンクールに小学生高学年の部で出場させるって返事したの。当然美穂との競演になるけど。」黙ってうなずく美穂と里穂。
「ええーっ!姉妹で競い合うんですかあっ!」遥香さんが悲鳴に近い声をあげる。
「遥香お姉ちゃん、大丈夫。2人で満点を取れば良いんだから。ね、里穂。」そう言ってのける美穂。「うん。」里穂もそう言って頷く。
「うふっ、ママもそれを望んでいるわ。」
お祭りの翌朝はけだるさが残っていた。それでも美穂と里穂はりすくんたちに落花生をプレゼントしていた。その様子をそっと見つめていたのは早紀さんだった。大人の皆さんたちは、昨晩は遅くまでお酒を楽しんでいたようで早紀さんも少し頂いたようだ。だが他の大人たちよりはお酒に強いようでいつもと変わらぬ目覚めだった。りすくんたちが帰ったタイミングで2人に声を掛ける。
「おはよう。リスくんたち可愛いわね。すっかり慣れちゃって、本当に可愛いわ。」そう言う早紀さんに「おはようございます。」と2人で声を揃えて挨拶をする。
「ねえ、朝風呂に付き合ってくれないかしら?」と2人を誘う早紀さん。「はい。」そう言って3人でお風呂の準備をする。すると遥香さんを起こしてしまった。「うーん、おはよう・・・で、どこ行くの?」まだ完全に起ききっていない遥香さんも誘って4人で温泉へ向かう。
早紀さんの会社の車に乗ってホテル本館へ向かう。フロントで徹夜勤務のお兄さんに挨拶をして大浴場へ向かう。早朝のホテルは静まり返っていて昼間の喧騒が嘘のようだ。
「あっ!家族風呂が空いているよ!」里穂が大浴場の隣にある家族風呂を見つけた。予約制とあるのでフロントへ電話して入浴出来るかを確認する。今の時間帯は予約は入っていないということで早速申し込んで中へ入る。こじんまりとはしているが大人10人位は入れそうな立派な岩風呂だ。やや熱めのお湯だが浸かってしまえば心地良い。4人でゆったりと温泉を堪能する。誰も入って来ないのでゆっくり出来る。
湯船に浸かりながら早紀さんが3人に尋ねた。驚異的な売り上げを達成できたのはこの3人の功績が大きいと見ているからだ。早紀さんは3人についてこう分析していた。先ずは人柄がよく誰からも好かれること、礼儀正しいこと、積極的ではきはきしていること、老人ホームや保育園での演奏経験で人の気持ちを汲めること、最後はその知識量だ。
美穂に例を取ると、販売方法が専門的法則に合致していること、顧客の店内の案内ルートのち密な計算などだ。
「皆さあ、何で見事な接客が出来るの?しかも2人はまだ小学生だし。」そう言って疑問を投げかける早紀さん。
「実はね、パパが読んでいる経営雑誌を読ませてもらっているの。内容は少し難しいけどパパに聞くと分かり易く教えてくれるの。」
「そうなんです。お父さんと信子お姉さんに聞くと何でも直ぐに答えが返ってくるんです。」遥香さんもそう言って説明してくれた。
「そうなんだ!あと、最近里穂ちゃんのピアノが急に上手くなったのはなぜ?」率直な質問を投げかける早紀さん。
「それはね、先生が3人いるからだよ。ママ、遥香お姉ちゃん、美穂お姉ちゃんの3人。分からないことや上手くいかない時、必ず誰か傍に居てくれるから直ぐ教えてもらえるの。」里穂が答える。
「それもあるけど里穂ちゃんの観察力、後は絶対的な練習量だと思います。特に電子ピアノを弾きまくっているから。だから美穂ちゃんの小3の時と比べると圧倒的に上達度が早いと思うんです。美穂ちゃんはもう小中高生レベルではないけど里穂ちゃんも美穂ちゃんと同じレベルにまで迫る勢いだと思っています。」一緒に演奏をしている遥香さんの的確な分析だった。
「だから昨晩の信子先輩のあの発言なのね。」
ゆっくりと朝の温泉を堪能した4人がロッジに戻って来た。
既に大人4人と優太君は朝風呂に出発せんといった状況だった。
5人が出ていくと美穂たちも朝食を採るためにホテル本館へと戻って行く。他の5人が温泉に浸っている間にロビーで雑談する。
「あっ!そうだ!“天使の3姉妹”の第2弾が計画、進行中よ。またお願いしますね。」早紀さんからの嬉しいお知らせに手を叩いて喜ぶ3姉妹。だが遥香さんと美穂には推薦入学試験とコンクールがそれぞれ控えている。だが早紀さんはそれを計算に入れて11月の撮影を予定していた。そうなると11月の第3、第4土曜日に撮影ということになる。今から楽しみな3姉妹だった。
温泉組と合流して朝食バイキングへ臨む。総勢9名の賑やかさだ。皆分け隔てなき和気あいあいと朝食を楽しむ。
サラダをモリモリ食べる優香さんを見て里穂が笑う。「牧場の牛さんみたい。」どうやら牧場に言った時のことを思い出してしまった様だ。「やだ、里穂ちゃん。私もそう思ってたの!」そう言って早紀さんも一緒になって笑う。「もう!2人とも酷おーい!」そう言って笑い出す優香さんだった。
デザートの時間になった。大人女子2人と3姉妹はチョコレートフォンデュへ一目散に向かう。5人で我先にとバナナやイチゴをチョコにくぐらせてほおばる。「美味しいね!」「堪らないわあ!」
すると美穂がカップにチョコをすくって入れ始めた。それを見つめる里穂。美穂はチョコの入ったカップを持ってドリンクバーへ。それをじっと見守る里穂。「ああーっ!美穂お姉ちゃんが良いことしてるうーっ!」そうだ、美穂はチョコミルクを作っていたのだ。里穂もカップを取りに行きチョコをすくって入れる。今度はそれを見た遥香さんが笑顔になる。「里穂ちゃん!良いことしてるわね。」こうして5人全員がフルーツのチョコレートフォンデュとチョコミルクを手にして席に戻って来た。「うわあーっ!なにそれ!」驚く優太君。
「うふふ、良いでしょ。羨ましいでしょ。」そう言ってイチゴのチョコレートフォンデュを優太君の口元に近づける美穂。ぱくっ!いきなり優太君がそれに食らいつく。「あーっ!私のイチゴがあっ!」
皆それを見て大笑いだ。
信子が席を外した。それを別段気に停める者はいなかった。
皆でデザートを楽しんでいると信子が戻って来た。
「あのね、今晩から2泊3日で春子さんと小春さん、そして樹林のマスターご夫婦をご招待しようと思って連絡をしたの。お祭り後のお休みということでご了承を頂いたわ。」信子の発表に一同拍手で答えた。「日曜日は4人を連れてお母さまの所にお送りしようよ。私は13時からだから時間的にも丁度良いし。」美穂はそう言って提案した。
朝食が終わると今宵の演奏会の演目決めと練習だ。
「私、里穂ちゃんの「花のワルツ」をもう一度聴きたい!」遥香さんが真っ先に提案する。「そうだね。忙しい時だったからゆっくり聴きたいわね。」そう言うことで1曲はすんなりと決まった。そして優太君と美穂の「カルメン幻想曲」が決まると3曲目がなかなか決まらない。「久しぶりに遥香お姉ちゃんの「トルコ行進曲」が聴きたいな。」里穂がそうリクエストする。早いテンポながら優雅さを兼ね揃えて演奏する遥香さんの魅力が詰まった曲と言える。遥香さんも了承してくれた。最後は全員での曲だ。「交響曲をフルでやるのは時間的に長すぎだよね。」優太ママが発言する。「久しぶりに「モルダウ」皆で弾きませんか?」遥香さんの提案に一同が頷く。何時もは遥香さんと美穂のピアノでの連弾が主だが全員での演奏となるとまた違った表現が出来るはずだと思った様で、異論は出なかった。これなら既に美穂が楽譜を書き下ろしている。
曲目が決まると全員で「モルダウ」の練習を始めることにした。
優香さんと早紀さんは楽器店の資材の運び出しに立ち会うという。もちろん、春子おばあさんと小春さんも一緒だ。休業を知らないで来られるお客様のためにカウンターとレジ、ファックスだけは最後まで残しておくこととした。幸い楽器店は一番奥にあるため非常階段脇の業務用のエレベーターへも近く、お客様の迷惑になることは殆どない。主だったピアノなどの在庫品が楽器メーカーの倉庫へ運ばれていく。一時的に保管するのだ。そんな中でも音楽教室の受付やピアノなどのカタログ販売を行なっていた。
午後4時に店内の荷物の搬出が無事に終了した。組合長さんに報告
をして店を閉じる。レジとファックスは春子おばあさん宅へ優香さんと早紀さんが運び込んだ。それに合わせて私と信子が2人をお迎えにワゴン車で向かった。優香さんと早紀さんは保管倉庫へも確認のために出向いてからロッジに戻るという。
私たちのワゴン車は“樹林”のマスターご夫婦のお宅へと向かう。
そしてお2人をお乗せして高原ホテルへ向かった。思いがけない宿泊の招待に大喜びの4名様だった。車中での話題は3姉妹と優太君についてだった。4人とも仲が良く本当の4人兄弟だと思っていたとのことだ。あとは、遥香さんが18才だとは思わなかったとマスターご夫婦が話されたことだ。春子おばあさんも小春さんに紹介されるまで中学生の長女だと思っていたと打ち明けられた。そして、美穂と里穂の活発さと利発さに話が及んだ。教育が素晴らしいと褒めていただき、信子と私も恐縮しっ放しだった。
高原ホテルに着くと早速フロントで2組のチェックイン等の手続きを行う。支配人さんにご挨拶して2組を紹介する。どうやら町の商工会の会員らしく皆さんお知り合いだった。これなら安心だと思った。早速それぞれの部屋にご案内していただき17時を目途にロビーへ降りて来ていただくことにした。その間に私たちは3姉妹と優太君と優太ママを迎えにロッジへ戻る。
今日はお盆期間の土曜日とあってホテルは賑わいを見せていた。やはり家族連れが多い。小さな子供連れのお客様も多く見受けられた。遥香さんと美穂は18時30分から子供向けのショーを行うようだ。ロビーで内容の打ち合わせを里穂と一緒に行っている。と言うことは、伴奏は里穂の担当なのだろうか。同じロビーで2組の到着を待つ。その間に優香さんと早紀さんも戻って来た。17時少し前に全員が揃いレストランへ。何時もの奥の席へ案内される。取り敢えず上座の両側に私と信子がそれぞれ座りその隣に春子おばあさんと小春さん、マスターご夫婦に座って頂いた。小春さんに続いて遥香さん、里穂、美穂と続き反対側は優太ママ、優香さん、早紀さん、優太君と続いた。今日の夕食は久しぶりのコース料理だ。大人にはワインが、2人のママと子供たちにはぶどうジュースが用意されていた。
私の簡単な挨拶と音頭で、皆で乾杯をする
このタイミングで料理長さんがご挨拶にいらした。何時もの様に新たなお客様であるマスターご夫婦に話しかけられた。するとご夫婦共に英語で会話をされている。春子おばあさんの時もそうだったが皆驚きを隠せなかった。
「美穂お姉ちゃん、音大って英語を話せないと入れないのかなあ?」少し不安そうに里穂が美穂に言った。
「里穂、大丈夫だよ。まだ大学まで時間はたっぷりあるわ。それまでに英語を話せるようにお勉強をしましょう。」そう言って里穂に微笑みかけた。「うん。」何時もの里穂の笑顔に戻った。
和やかにディナーは進んでいった。もう里穂もナイフとフォークはお手の物となっていた。こちらに来てから毎日使っているからだろうか、不安なくお魚料理もいただけるようになっていた。それを見て感心するマスターご夫婦。『本当にしっかり躾が出来ている子供たちだわ!』と感心するお2人だった。
給仕さんからデザートの説明があった。本日のティラミスにはブランデーが使われているということなのでぶどうジュースを飲んでいる子供6人にはショ-トケーキをお願いした。大きなマスカットが乗った生クリームたっぷりのショートケーキに子供たちは大喜びだ。
「里穂、クリームごとマスカットを一緒にすくえば転がらないわよ。」そう言って里穂にコツを教える美穂。
「里穂ちゃん、少し小指で押さえても平気だよ。」そう言ってマナーを教えてくれる遥香さん。
それを見ていた早紀さんは朝の3姉妹との会話を思い出していた。
『何時も傍に誰かがいてくれるの。』と言った里穂の言葉だった。
会場作りは高原高校の体育系の男子部員の皆さんが手伝ってくれた。
そしてお客さんが集まり出す。やはり小さな子供たちが多い。春子おばあさんと小春さん、マスターご夫婦、優香さんと早紀さんは会場の真ん中前列に座っていただいた。
そして18時30分。突然3姉妹が現れた。
「よいこのみんなーっ!こんにちはーっ!」突然の美穂の呼びかけに驚く子供たち。「すこしのあいだおねえさんたちとおうたをうたってあそびましょうーっ!」今度は遥香さんの呼びかけだ。
里穂がピアノを奏でる。「犬のおまわりさん」を弾き始めると遥香さんと美穂が歌い始める。突然始まったショーに最初は驚いていた子供たちだったが直ぐに一緒に歌い出した。ちびっ子たちと2人の愛らしい歌声が会場に流れる。次の曲は「チューリップ」だ。両手でチューリップを作り、皆大きな声で歌ってくれる。
3曲目はみんなの大好きな「アンパンマンのテーマ」だ。もうちびっ子たちはテンション丸上がりで大きな声で一緒に歌ってくれている。
それを見ているマスターご夫婦を始めとする会場の大人たちはそんな子供たちを優しく見守っていた。里穂の演奏はまだまだ続く。「かえるのうた」から「むすんでひらいて」と展開していく。遥香さんと美穂はステージ前でちびっ子たちと一緒にお遊戯をしている。その姿も可愛いという声が上がる。
そして最後は「ドラえもんの歌」で締めくくる。
歌が終わり、遥香さんと美穂がちびっ子たちに「ありがとう!」と言って手を振る。「ありがとう!」子供たちもそれぞれお礼を言いながらお父さんお母さんの元へ戻って行く。
一人の女の子がこう言ってくれた。
「ありがとう!天使のお姉ちゃんたち!」
その一声で会場がざわつく。そうだ、お盆休みで関東地方からこちらに旅行で来ている人や帰省している人がいて、その人たちはピアノのCMで“天使の3姉妹”を知っているのだ。お化粧をしていないので大丈夫と思っていた3姉妹に「うれしい!」と衝撃が走る。
「うわあ!覚えていてくれてありがとう!」そう言って美穂がその女の子に手を振る。それを見て遥香さんと里穂も口々に「ありがとう!」と手を振る。“天使の3姉妹”に手を振って貰った女の子は大はしゃぎだ。3人揃って会場の皆さんにご挨拶する。
「以上、“天使の3姉妹”でしたあーっ!」と手を振って舞台裏へ引き揚げてきた。直ぐに控えていた3人が駆け寄る。「美穂ちゃん!神対応だったよ!」優太ママが3姉妹を抱きしめてくれた。
会場は“天使の3姉妹”の話で持ちきりになっている。こちらにお住まいの方は全く理解出来てないようだったが知っている方たちに教えてもらい、やっと納得がいったようだ。会場の後ろで立ち見していた音楽部や体育部の皆さんも初めて3人の正体を知り大騒ぎだ。皆ピアノが上手な娘たちだとしか認識していなかったからだ。会場のざわめきは一向に収まらなかった。
この反応にCMの効果を見せつけられた早紀さん。優香さんも同様だ。CMが流れていないところにも、そう全国展開も視野に入れなければと思った。
そして19時定刻に6人がステージに登場。美穂がマイクを取ってご挨拶をする。
「本日はおいでいただきありがとうございます。“天使の3姉妹”は違う面でも活動しています。これからの1時間、私たちの演奏でお楽しみいただけたらと思います。最初の曲は「トルコ行進曲」です。」
美穂の挨拶が終わると遥香さんがピアノを奏で始める。誰もが知る「トルコ行進曲」だが、さすが遥香さんだ。優雅な高速演奏に驚きの声が上がる。ちびっ子たちもじっと聴き入ってくれている。
「速い!速すぎるわ!」春子おばあさんが思わず言葉にする。今までの人生でこれほど早く、丁寧に、しかも優雅に流れる「トルコ行進曲」を聞いたことが無かったからだ。マスターご夫婦も同様だった。「あの歌ちゃんでさえここまでは弾けなかった!」そうお互いに語り合っていた。後ろで控えている美穂と里穂も同様だった。里穂は「次のコンクールでこのような演奏をされると美穂お姉ちゃんは太刀打ちできるのだろうか?」と思って美穂の横顔を見つめた。それは今まで見たことのない姉の横顔だった。「美穂お姉ちゃんにスイッチが入ってしまった!」そう思うと身震いがした。
信子も遥香さんの演奏に驚きを隠せなかった。音大の推薦試験は間違いないとして、コンクールでこれを弾かれると美穂が、いや、美咲さんさえも危ういかもしれないと思った。そして、この後の優太君とのコンビでの美穂の演奏が楽しみでもあった。
曲が終わり拍手喝采の中、高原高校のサッカー部の皆さんの声援が飛ぶ。そんな中、次の曲が紹介される。
くるみ割り人形より「花のワルツ」だ。里穂の演奏が始まる。優しい!とにかく優しい!そんな曲調だ。もはや小学3年生の演奏ではない。
会場の皆さんも驚きを隠せない。優雅な演奏を披露していく里穂。
演奏を終えた遥香さん、そして次に控える美穂も里穂の演奏の見事さに衝撃を隠せないでいた。「遂に並ばれちゃったね。」そう呟く遥香さんの言葉に「ええ。」と頷く美穂。「ママの言っていたことがまさか今日起こるなんて!」
信子も美穂と同じ気持ちだった。
「里穂ちゃんってこんな素敵な演奏が出来る子だったのね!まだ3年生なのに!」春子おばあさんはハンカチで目頭を押さえた。
「何て子だ!まだ3年生だと言うじゃないか!」何時も来てくださっている町役場の広報課の課長さんもそう言って里穂の演奏に聴き入っていた。
「歌といい、演奏といい、この3人は超一流だわ!さすが、パパが惚れ込むわけだわ!」早紀さんも思わず呟く。その横で「うん!うん!」と首を縦に振る優香さん。
里穂の演奏が終わると遥香さんに負けない位の拍手が起こる。嬉しそうにお辞儀をする里穂。手を振ってくれるちびっ子たちに手を振って応える里穂。「すごい!舞台慣れしているなあ!」そんな声も飛ぶ。同じような会話が高原高校の皆さんの間でも交わされていた。
特に例の件ですっかり里穂のファンになってしまった剣道部の面々は興奮しまくりだった。
「3曲目はヴァイオリンとピアノでお送りします「カルメン幻想曲」です。それではお聴きください。」そう言いながらピアノの前に座る美穂。優太君がヴァイオリンを構える。そして「いつでも行けるよ。」と目で合図を送る。美穂の指が力強く鍵盤を弾く。余りの迫力に驚く会場の皆さん。直ぐに優太君のヴァイオリンが鳴り響く。圧倒される会場。「なに!この子たち凄すぎるわ!」春子おばあさんは信じられなかった。一人くらいは素晴らしい演奏をする子はいる。しかしこの3人娘のピアノの演奏は異常なくらい見事だ。「こんな子たち見たことないわ!」
会場に響き渡るヴァイオリン、見事な弓捌きとそれによって生み出される力強い旋律。それと美穂のピアノとのハーモニーが素晴らしい。ヴァイオリンってこんなに良い音が出るんだ!会場の皆さんはそう感じて聴き入ってくださっているようだ。
「今度のピアノコンクール、3人とも満点確実だわ!」優香さんが叫ぶ。早紀さんもそれを見届けたいと思った。
「それにしても、優太君。学生の部では敵なしって感じだわ。」そう言う早紀さんに今度は優香さんが頷いた。
こちらもまた割れんばかりの拍手を頂いた。特に音楽部の女子生徒の皆さんは優太君のファン、野球部の皆さんは美穂のファンだ。
美穂がマイクを取る。「ありがとうございました。それでは最後の曲になります。全員で「モルダウ」です。」
優太ママの掛け声で全員の音が鳴り響く。ヴァイオリン3挺とピアノ3台での室内楽風の演奏だ。メインのヴァイオリンは優太君が、ピアノは美穂が務める。各自がそれぞれのパートを受け持ち、調和を図りながら演奏していく。通常管楽器などが担うパートを遥香さんと里穂の電子ピアノが弾き進めて行く。春子おばあさんとマスターご夫婦はこの曲が新たに編曲されているものだと気付く。「編曲はだれ?楽譜は?」そう不思議そうに口にする3人に優香さんが小声で囁く。「全部美穂ちゃんの編曲ですよ。」これに驚く3人。美穂ちゃんだって?まだ5年生じゃあないの!5年生の子がクラッシックを編曲するなんて聞いたことが無いわ!」そう言って再度驚く3人だった。
最後の曲も割れんばかりの拍手を頂いた。全員で一礼して舞台裏にはける。「おつかれさまーっ!」そうお互いに言い合いながらドリンクを頂く。アンコールの声があちらこちらから上がる。
それに応えるように再び美穂が登場する。「アンコール、ありがとうございます。ただ、残念ながら私たち小学生は20時以降の活動は禁止されております。その点をご配慮いただきたくお願い申し上げます。」そう言って深々と頭を下げた。「わかったよーっ!」「ありがとうねえーっ!」そんな暖かい言葉に再度お辞儀をする美穂。「ありがとうございました。」拍手の中、手を振ってはけてくる美穂。そんな美穂を迎える遥香さんと里穂。3人で抱き合って涙を流した。3人娘の、それぞれ良い演奏が出来たことから来る充実感からの涙だった。
演奏会が終わり、後片付けが行われている中、春子おばあさん、小春さんとマスターご夫婦が6人の元へご挨拶に来てくださった。4人にベタ褒めされて照れまくる3姉妹と優太君。それでもとても嬉しそうだ。その輪に優香さんと早紀さんも加わる。更にそれを見守るファンになってくださった皆様方。ロッジに引き上げる6人はサイン攻めにあう。いつの間にかサイン色紙まで用意している人までいた。
プロである2人のママはお手のものだが、4人はどうだろうか?
すると4人とも見事にサインを書いていく。いつの間にか練習していたようだ。6人全員のサインを欲しがる人、4兄弟のサインを欲しがる人、“天使3姉妹”のサインを欲しがる人と各自1人1人のサインを欲しがる人と大混乱だ。突然のことに驚いたのは支配人さんたちだ。早速、フロントの皆さん方が整理にあたる。が、皆さんの要望が多すぎてなかなか上手く人の流れを整理出来なかった。更に優香さん、早紀さん、観光課の課長さんも加わっていただき時間が経つにつれてどうにか収まった。その騒ぎの中、私は春子おばあさんと小春さん、そしてマスターご夫婦に明日の老人ホーム行きを打診した。
ひと騒動が終わると、関係者がレストランの一角に集合した。
私たち7人と、支配人さん、観光課の課長さん、優香さん、早紀さんは改めて名刺交換をしながらご挨拶を交わす。大人のご挨拶の仕方に目を見張る里穂。そんな4兄弟にもご丁寧にご挨拶をしてくださる皆さん方。少しドキドキしながら名刺を頂く里穂。美穂がテーブルの左側に、座っている人の順番に名刺を置いていく。こうして皆様のお顔を覚えるのだ。『美穂!何処で知った?』私がそう思って見ていると遥香さん、優太君、里穂もそれに習っている。
そんな様子を見て名刺を渡した皆さんと2人のママもそのビジネスマナーに驚き、そして微笑んでくださった。
早速話に入って行く。
先ずは私からこの高原ホテルでの演奏会の経緯について説明をした。次に現状の優太君と3姉妹の説明を早紀さんが行う。CM出演と放映について、その浸透度(CMの効果)についても説明があった。そして付け加えられたのが、前倒しで大手芸能プロダクションの名前を使っても構わない、これは他のスカウトを断るためだけでなく10月以降からマネジメントを担当するからだという。現在、広報部には“天使の3姉妹”への問い合わせが殺到しているという。
これに続き町の観光課課長さんの説明が行われる。先の「のど自慢大会」及び「夏祭りコンサート」に於ける6人の評判が良く、町の観光課への問い合わせが多く寄せられているという。特に関東地方を中心とした“天使の3姉妹”に関する問い合わせも多くなってきているとのことだ。「因みに、この“天使の3姉妹”の商標登録はお済みなのでしょうか?」課長さんが早紀さんに尋ねた。
「はい。当社の方で“天使の三姉妹”と“天使の3姉妹”で商標登録の申請を行なっており只今審査中です。」という答えが返ってきた。
課長さんはにこにこと頷きながら話を終えた。
続いて信子から報告があった。小学生の3人と高校生の遥香さんには鉄道警察隊から“要警護対象者”のリストに載せられているとのこと、言わば要請があれば警察官が警護に当たってくれるということなのだ。これは千夏さんを始めとする鉄道警察署署長の了承もあるとのことだ。
「そう言えば、駅前交番のおまわりさんたちが電話でそう話していました。私がリストに載っているって。」遥香さんが思い出した様に発言する。遥香さんの発言に皆さん驚きを隠せなかった。
最後は支配人さんからだ。明日からはサインコーナーを設けて6人座っていただき流れ作業でサインをお願いしたいとのことだ。さらに、コテージエリア入り口にガードマンを配置することも発表された。使われている車は登録済だが、訪問する車を事前登録しなければエリア内には入れないとのことだ。特に訪問する車両に対しての強化措置だという。
付け加えて、駅ビルの楽器店の改装工事についての説明が優香さんから行われた。2階の店舗、1階の音楽教室の改装と新設につき説明が行われた。開業は8月22日の土曜日、10時を予定しているとのことだ。6人はわくわくだった。どんな店舗になるのだろうか。
これに加えて観光課課長さんから町のテーマを“音楽の流れる町”としたいとのこと。併せて6人に観光大使になっていただきたいとの打診も行われた。
こうして急遽開催された集まりは笑顔の内にお開きとなった。
翌、日曜日。美穂と私は春子おばあさんと小春さん、マスターご夫婦を乗せて一路老人ホームへ向かった。途中のサービスエリアで朝食を採る。マスターご夫婦も初めてのサービスエリアということで様々な光景に驚かれていた。特に広いフードコートには大興奮だった。迷子にならないようにと美穂が同伴した。年配の3人は和食の朝定食、若い2人はハンバーガーセット、私は天玉そばをそれぞれ美味しく頂いた。私は一足先に朝食を終え、外に出て老人ホームへ電話を入れる。お母さまとの面会と昼食の予約を入れるためだ。
皆さんと合流して再び車を走らせる。お盆休みの最終日とあって
結構車が多い。しかし車中は賑やかだった。2列目シートにマスターご夫婦、3列目シートには春子おばあさんと小春さんと美穂が座っており、お喋りの話題には事欠かなかった。そうして楽しく過ごしている間に老人ホームへ到着した。
事務室に顔を出してご挨拶する。途中の掲示板を嬉しそうにメッセージに目を通す美穂に並んでそれぞれの内容に感激する4人。美穂たちがいかに可愛がられているかが良く分かったと嬉しそうだった。
後は案内役のホーム長さんにお任せして美穂と私は結婚式場へ向かう。式場に着くと簡単な事前打ち合わせだ。今回はアルバムを放映するとかでその上映時間に合わせてピアノを弾いて欲しいとのことだ。ナレーションは女性司会者が行うとのことでこちらも上映時間に合わせるとのことだった。
開宴時間が近くなると私を残して全員が持ち場へ向かう。私は何時もモニターで披露宴の様子を眺めている。美穂ももうこの仕事にはすっかり慣れて安心して見ていられる様になった。
結婚式場を出て、老人ホームで4人を乗せて一路高原ホテルへ向かう。反対側の上り車線は大渋滞だがこちら下り車線はスイスイ流れる。
途中トイレ休憩を挟みながら面会の楽しかった様子がうかがえ、お連れして良かったとつくづく思った次第だ。高原ホテルへは18時過ぎに到着、美穂は急いで5人と合流した。
開演が近づくにつれお客様がどんどん集まってくる。そのため通路に置かれていた5本の大きな観葉植物をレストランの通用口に繋がる連絡通路脇に移動させることとなった。この作業は高原高校の男子運動部員さんたちにより速やかに行われた。それでも通路は立ち見のお客さんで溢れかえっていた。
そして18時30分、ちびっ子たちへのショーが始まる。
「こんにちわあーっ!」遥香さんと美穂、そして里穂が登場する。
わあーっ!きゃあーっ!“天使の3姉妹”の登場に会場は一気にヒートアップする。
里穂がピアノを弾く。「さんぽ」だ。「さあみんな!まえにでてきてねえっ!」遥香さんがちびっ子たちに両手で手招きする。
ちびっ子たちがステージ前まで出てくるとお遊戯の始まりだ。
「むすんでひらいて」を遥香さんと美穂が踊り始めるとちびっ子たちも嬉しそうにそれに続く。連続演奏で「チューリップ」へと移る。
みんな楽しそうだ。「おべんとうばこ」の歌まで皆でお遊戯をすると「ゆうやけこやけ」でちびっ子たちを親元へ帰す。
「ありがとうまたねえ!」そう言って手を振って見送る2人。ちびっ子たちも振り返りながら手を振ってくれる。どの子もにこにこ顔でお父さんお母さんの元へ帰って行く。そんなちびっ子たちを会場の皆さんが拍手で迎えてくださる。会場が笑顔で包まれる。
「ちびっ子の皆さんはちゃんともどれたかなあーっ?」遥香さんが会場に尋ねるとあららこちらから「はーい!」と言うちびっ子たちの返事が聞こえる。それに笑顔で答える“天使の3姉妹”。
「はーい、ちびっ子の皆さんも無事にお席に戻られた所で演奏会を始めさせていただきます。それでは最近末っ子の里穂がマスターしました「ラ・カンパネラ」からスタートです。」美穂がそう紹介すると大きな拍手が起こる。「里穂ちゃーん!」という声援も飛ぶ。
少し照れながら里穂の演奏が始まる。小3とは思えない優雅な演奏に驚く同年代の女の子たち。この曲を弾けるようになりたいと思う憧れの曲でもあるようだ。会場の皆さんも静かに聴き入ってくださっている。
「里穂ちゃん、怖いくらい上手になってくるわ!」遥香さんがそう呟く。「遥香お姉ちゃんの教え方が上手すぎるからだよ。」美穂がそう言うと「やだ!何言ってるのよ。」と2人でくすくす笑う。
大きな拍手と歓声によって里穂の演奏が終わったことに気付く2人。
里穂とハイタッチをして遥香さんと美穂が登場する。
「わあーっ!」と言う声援が飛ぶ。
「はい。たくさんの拍手ありがとうございます。続きましては遥香と私、美穂の2人での演奏をお届します。曲は「カノン」です。そう言って2人並んでピアノの前に座る。会場から「おおーっ!」という声が上がる。2人の連弾が始まる。余りの迫力と激しい指使いが会場を魅了する。ピアノコンクール1位同志の素晴らしい演奏に聴き惚れている会場の皆さん。興奮の内に「カノン」の連弾が終了した。こちらも盛大な拍手と歓声が巻き起こる。それに答えるかのように深々とお辞儀をする2人。
そして美穂だけが残ると優太君の登場だ。拍手とともに黄色い声援があちらこちらから飛ぶ。
「はい、可愛い声援ありがとうございます。優太も喜んでおります。」そう言いながら優太君を見つめる美穂。優太君も見つめ返す。会場が湧く。「はい。いつまでやってもきりが無いので次の曲へまいります。優太と私、美穂で「メヌエット」です。そう言ってピアノの前に座る美穂。ヴァイオリンを構える優太君が合図を送る。頷く美穂。
このやり取りだけで黄色い悲鳴が起こる。
美穂のピアノが鳴り響く。余りの力強さに静まり返る会場。そこへ突き刺すような優太君のヴァイオリンの音色。見事なコンビネーションで演奏は続いて行く。「やはりこのコンビは最強だわあ!」2人のママはそう思った。優太君と美穂の高速演奏で会場を魅了して行く。とても小5のコンビの演奏とは思えなかった。
演奏が終わると大歓声と拍手の嵐だ。立ち上がって拍手してくださる方が大勢いらした。
「ありがとうございました。さていよいよ最後の曲となりました。最後にお届けするのはビバルディの四季より「夏」です。どうぞお聴きください。」そう言ってピアノに戻る美穂。
優太ママの掛け声で演奏が始まる。ピアノ3台、ヴァイオリン3挺での室内楽風の演奏だ。ミニ楽団ならではの工夫を凝らした美穂の編曲は常連の皆さんを始めとするファンの方々の評判が良い。
静かに、流れるように演奏が続く。突然ピアノが大きく鳴り響いたりとスリリングな一面も入れながらの美穂の編曲だ。「管楽器が無くてもここまで見事に演奏が出来るのね!」春子おばあさんは感動していた。やがて静かに演奏が終わった。
割れんばかりの拍手が起こる中、美穂がお礼のアナウンスと入り口手前の通路に手順送りでサイン会を行う旨説明した。フロントの皆さんがお客さまを一列に並んでいただくように誘導する。サインは里穂、美穂、遥香さん、優太君、信子そして優太ママの順番に座り流れ作業でサインしていく方法だ。いつの間にか売店でサイン色紙を売っている様でお客さまの殆どが2,3枚を手にしていた。おそらく各人の分、“天使3姉妹”の分、そして6人全員の分を想定しているのだろうか。大きな混乱もなく一言二言言葉を交わしながらも昨晩のような混乱は無かった。6人がサインを書いている間に楽器や椅子の後片付けも高原高校の皆様のおかげでスピーディーに終了出来た。私も3挺のヴァイオリンと2台の電子ピアノをワゴン車に積み込んだ。
そして気が付くと、作業を終えた高原高校の皆さんもサインの列の最後に並んでくださっていた。皆さん嬉しそうに言葉を交わしながらサインを書いてもらい大事にかばんなどにしまっていた。列の最後は女性2人だった。そっと里穂の前に色紙を差し出す。横に居た美穂が声をあげる。「実、美咲さん!瞳さんまで!」驚く4人。一人里穂だけがポカーンとしている。そんな里穂に美咲さんが話しかけてくれた。「初めまして、里穂ちゃん。私、美咲と言います。そして妹の瞳です。これからもよろしくね。」そう言って2人で微笑んでくださった。「はい、里穂と申します。お二人のお名前は伺っておりました。姉たち同様、よろしくお願いいたします。」里穂はそう言って満面の笑みを浮かべた。余りにも見事な小3らしからぬ挨拶に先ほどの演奏の土台の一つがこれなのかと思った美咲さんだった。
「でも、美咲さんと瞳さんがどうしてここへ?」遥香さんが不思議そうに尋ねた、
「うん、実はね、一昨日夏祭りでこちらに来たの。そうしたら周りの人たちが高原ホテルのクラッシックのショーが素晴らしいっていう話を聞いて今日帰り道に寄ってみようと思ったの。皆さんだと知ってびっくりしちゃった。しかも子供向けのショーまでやっているんだもの、ねえ瞳さん。」そう言って2人で微笑んだ。
「ご丁寧にありがとうございます。」そう言って7人でお礼を述べた。
「そうそう”天使の3姉妹”CMで見ているわよ。3人ともとても可愛いわ。特に遥香さん、中学生みたいで可愛いわよ。」そう言う美咲さんに遥香さんが口を尖らせて言う。「もう!美咲さんまでえ。」皆で大笑いだった。
「ところで、美咲さん。帰る途中っておっしゃったけどどちらまで?」信子が尋ねる。
「はい。この先にうちの別荘があるんです。折角来たのでもう少し滞在してピアノの練習をしようかと思って。」そう答える美咲さんに「よろしければ明日にでも遊びに来てください。」そうお誘いする信子だった。
「わあ!ありがとうございます。お言葉に甘えて明日にでも連絡します。」喜んで帰って行く2人をホテルのエントランスでお見送りする。真っ赤な外車に乗って挨拶しながら走り去って行く美咲さんたちだった。里穂が思わず呟く。「さすがお嬢様だわあ。」
「あっ!忘れていた!まだ晩ご飯食べてないじゃないの!」優太ママの一言で我に帰る私たち。慌ててレストランへ駆け込んだ。
翌朝、美穂と里穂、そして遥香さんは交代でりすくんたちに落花生の朝ごはんをあげていた。可愛い仕草のりすくんたちに癒されて3人ともすごく幸せだった。そうこうしている間に皆が起きてきた。
全員が揃ったところで朝ごはんを食べに本館のレストランへ向かう。レストランでは皆楽しく朝食バイキングを頂く。美穂と里穂は相かわらずの“富士山盛り”と“極楽鉄火丼”を美味しそうに食べている。優太君は渋めの鰆の西京焼きとご飯に味噌汁、野沢菜漬けを運んできた。大人の女性4人はトーストにハムエッグとサラダというメニューだ。しかし、遥香さんが戻ってこない。私が料理を取りに行くと遥香さんは一生懸命お餅を焼いていた。大きめのどんぶりにはデザートコーナーで見つけてきた粒あんと栗の甘露煮が5粒入っている。これにお餅を入れておぜんざいを作ろうということの様だ。
私に見られていることに気付かずに一心不乱でお餅を5個も焼いている。「遥香ちゃん、こまめにひっくり返さないとお餅が焦げちゃうよ。」不意に声を掛けられてびくっと驚く遥香さん。その様子がとても愛らしい。「は、はい。パパ。」慌ててしまったからだろうか“パパ”と呼んでくれた。「ありがとう、遥香。」そう返すと嬉しそうにはにかんでくれた。「あっ、遥香、お箸休めに野沢菜が美味しいと思うよ。」そう言って私はサラダバーへ向かった。
席へ戻ると遥香さんは特製のおぜんざいを美味しそうに食べていた。
お餅も黄金色に焼けていて本当に美味しそうだ。それを横目でチラチラ見している里穂。お餅のあんこと栗を乗せてぱくりと舌鼓を打つ遥香さん。どうやら里穂は食後のデザートを決めたようだ。
デザートタイムになった。女性は全員チョコレートフォンデュへ向かうと思われていたが里穂は別方向へ。そう、そこはお餅が焼けるコーナーだ。網にお餅を並べてせっせとひっくり返す。しかも素手を使って素早くお餅を扱う。通りかかった人たちから「お!お嬢ちゃん!プロだねえ!」と言われ喜ぶ里穂。そんな里穂を見て声を掛けた人たちも笑顔になるのだった。どんぶりにこんがり焼けたお餅を並べて粒あんで蓋をする。そしてデザートコーナーで栗の甘露煮をこれでもかとデコレーションしていく。どんぶり一面に栗が整然と並ぶ。席に戻るとホットチョコミルクを味わっている遥香さんに驚かれた。「里穂ちゃん!栗づくしだね。」
「じゃじゃじゃじゃーん!」そう言う遥香さんに3段重ねの秘密を見せる里穂。「いやあーっ!なにそれ!」絶句する遥香さんだった。
朝食が終わるとロッジへ戻り、優香さんと早紀さんは改装工事の立ち会いで楽器店へ向かい、私たちは各自練習に励む。相変わらず音を出すのは3挺のヴァイオリンだけだ。3台の電子ピアノはヘッドホンを使用しているので音を出すことはない。音を出す時は誰かが誰かに教えたりアドバイスをする時だけだ。
そんな時、信子の携帯が鳴った。美咲さんからだ。今、湖畔の画廊にいるという。近くの喫茶店“白樺”の場所を教え、そこで昼食をとることになった。急いでお出かけの準備をする女子メンバーたち。
美咲さんと瞳さんは先に着いていた。どこかで見たことのある外観に親近感を覚える2人だった。入り口のドアを開けて中へ入る。白い壁に可愛らしいテーブルクロス。初めて訪れたお店とは思えなかった。席に案内されても2人でキョロキョロと店内を見回す。
オーダーを取りに来た奥様に恐る恐る尋ねる美咲さん。
「ここの喫茶店とそっくりなお店を知っているのですが、同じ“白樺”という・・・。」その問いに直ぐに答えが返ってきた。
「はい。学院大学の傍のお店ですよね。そこは夫の弟が出しているお店なんですよ。大学の方ですか?」奥さんがそう言ってお冷を2人の前に置いた。
ドアベルが鳴る。
「あっ!美咲さん、瞳さんお待たせしました。」そう言いながら美穂が飛び込んできた。そして遥香さん、里穂と続く。
「まあまあ、皆さんお揃いで。」そう言って歓迎してくださるマスターと奥さん。
「今ね、大学の傍の喫茶店の話をしていたの。」瞳さんがそう言ってお冷を一口頂く。
「美咲さんって、あの美咲さん?」マスターが美咲さんに尋ねる。
「はい、妹と2人でいつもお世話になっている美咲です。」
「うわあ、弟から聞いています。いつもご贔屓いただきありがとうございます。」
「いえいえ、こちらこそいつもわがままを聞いていただいております。」そんな2人の会話に耳を傾けていると美穂と里穂がオーダーを取り始めた。
「まあ、2人とも慣れたものだわ。」瞳さんが驚きの表情を浮かべる。
話の中心は10月に控えたピアノコンクールだ。前回同率1位の3人は自分が演奏する曲の話で盛り上がっている。「相手に手の内をばらすなんて!」瞳さんが呟く。
「瞳さん、美穂ちゃんたちはお互いをしっかり認め合っているんです。しかも自分に絶対の自信がある。だから平気なんでしょうね。」優太君が瞳さんにそう説明する。
「そうよね。普通ならライバル心剥き出しで話もしないでしょうし。」そう言って納得する瞳さん。
「ところで、里穂ちゃんはコンクールで弾く曲は決めたの?」
瞳さんの問いに里穂が答える。
「いいえ、私はまだ出れないんです。ピアノ始めたのが遅かったから。」そう言って笑う里穂。
「と、いうことは1年未満?それであの演奏が出来るの?」驚きの声をあげる瞳さん。
「はい、ピアノを始めたのは今年の4月からだから。」里穂の言葉に美咲さんも驚いて会話を中断する。
「そうなんです。里穂はピアノ歴5か月なんです。」信子がそう言うと信じられないという表情を見せる美咲さん。それを聞いていていたマスターと奥さんも思わず調理の手を止める。「それであの「花のワルツ」なの?」信じられないという思いでお互いに顔を見合わせた。
「里穂ちゃんは先生が3人いて呑み込みが凄く早いの。指も良く動くし、ピアノを弾くために生まれてきた様な子よ。」遥香さんの説明に思わず赤面する里穂だった。
皆さん、全員ナポリタンとチーズトーストをオーダーして調理場はそれぞれ9人前の調理でマスターと奥さんは大忙しだ。美穂と里穂が調理台にお皿を並べてお手伝いをする。「すまないねえ。でも本当に助かるよ。」お2人はそう言って笑ってくれた。
ナポリタンを頂いていると次々にチーズトーストが焼きあがる。
それをせっせと運んでくる奥さん。美穂と里穂のチーズトーストが最後になった。そして最後に運ばれてきたチーズトーストは分厚いチーズが挟まれていた。これに目を大きく見開いて驚き、そして喜ぶ美穂と里穂。「お手伝いのお礼ですよ、ご遠慮なく召し上がってね。」奥さんはにこにこ顔で引き揚げて行った。
2人が食べているチーズトーストにはサワー系のドレッシングが薄く塗られていてさらに美味しく、食べ易かった。「美味しいね。」2人でそう言いながらあっという間に完食した。
器を下げに来た奥様に2人でお礼を言った。更に美穂が提案する。
「このチーズトーストにトマトとレタスを挟んで“白樺スペシャルチーズトースト”って名前を付けてメニューに載せましょうよ。それくらい美味しかったです。」それを聞いたマスターご夫婦は嬉しそうに笑った。「それは良い!さっそく明日からやってみましょう!」
私の帰京に合わせて全員でロッジへ移動することにした。
ホテルのフロントで美咲さんの車の来客者入場許可を貰いロッジへ向かう。大きなロッジに驚く美咲さんと瞳さん。中に入ってさらに驚く。広さもだが、3台の電子ピアノと6台の譜面立てが無秩序に置かれている。応接セットだけでは足りないため何時もの様に椅子を追加する。楽しいお喋りが再開される頃、私は自宅へ向かった。
瞳さんは里穂の電子ピアノを借りて試し弾きをする。想像以上にピアノに近い感触に満足げだ。そして演奏会が自然と始まった。
美咲さんと優太ママのコンビで始まり瞳さんと里穂の連弾まで飛び出した。美穂の描いた楽譜をしきりに感心する美咲さん。口には出せないが、従妹としての血の繋がりを感じるのだろうか。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
「2人は夕食はどうするの?」信子が尋ねる。
「いつも出掛けた先で済ませているので。」と美咲さんの遠慮がちな答えが返ってきた。
「それじゃあ一緒に食べましょうよ。」優太ママがそう言うと同時に信子はレストランに追加の連絡を入れていた。
優太ママ、優太君と信子の3人はヴァイオリンの練習に余念がない。
「信子お姉さまはピアノだけでなくヴァイオリンも演奏されるのね。」瞳さんが羨ましそうに演奏する信子を見つめる。
「ねえ、瞳さんは何弾いているの?」遥香さんが演奏の手を休めて話しかけてきた。里穂と2人で一生懸命に何かの曲を練習していたからだ。「うふっ、里穂ちゃんが得意の「花のマーチ」を教えてもらっているんです。」明るく答える瞳さん。「そうなの、私は瞳さんに「ラ・カンパネラ」を教わっているの。上手く弾けたら春のコンクールの自由曲にしたいなあ。」里穂もそう答えた。
「あら、里穂ちゃん。春までたっぷり時間があるからいろんな曲にチャレンジしたら?今の里穂ちゃんのペースなら春には相当良い曲が弾けているわよ。」美咲さんのアドバイスに頬を緩める里穂だった。
ふと3人が美穂を見ると何やら楽譜に書き込んでいる。どうやらアレンジの真最中のようだ。
「美穂ちゃんは何しているの?」美咲さんは懸命に音符を五線譜に書き記している美穂に尋ねた。美穂は手を止めて答えてくれた。
「これは遥香さんに歌って欲しい“文部省唱歌”の伴奏バージョンなんです。言ってみればカラオケですね。」そう言って笑った。
「あと、歌謡曲もあるんです。」遥香さんがそう言って補完した。
「美穂ちゃんって色んなことが出来るのね。」感心する美咲さん。
「はい。保育園で使うものです。何だか色々やっていると楽しくって。」美穂が答える。
「そう言えば去年の運動会も生演奏をしたの?」美咲さんは美穂が運動会でピアノを生演奏していたことを覚えていた。
「実は、去年ほ天気が悪く2度も延期になったんです。しかも3回目の日曜日はピアノコンクールと重なってしまって。」と残念そうに話す美穂。さらに続ける。「今年はもろにコンクールに重なってしまうんです。里穂とママにお願いしようかとも思ったんですが、あいにくママは地方公演が入っているので諦めたんです。」そう言って悔しがる美穂。
「しかも翌週は優太君のヴァイオリンのコンクールなんです。ママが2人とも地方公演でいないから私たち3姉妹で付添いと応援なんです。」そう遥香さんと里穂が口を揃えるように説明してくれた。
「でも3姉妹で客席とかに居たらファンの皆さんに囲まれちゃうよ。」優太君はそれが心配だった。
「優太君、それは大丈夫。学校のスクールバスで、応援団に紛れて行くから。」遥香さんはそう言って笑った。「でも、2人とも初等部の制服は持っていませんよ。制服の中に私服だと目立ちませんか?」
優太君の疑問はもっともだった。
「優太君。“ティンカーベル”を忘れたの?もう“服飾部”が制服を作成しているの。」遥香さんは自信ありげだ。
「あのう、“ティンカーベル”って何ですか?」瞳さんが興味深々で尋ねた。「うふっ、それはね・・・。」美穂の長い説明は続いた。
皆で大笑い。「可愛かったでしょうね。」笑いながら美咲さんがそう言ってくれた。
そうこうしている間に夕食の時間になった。皆でワゴン車でホテル本館まで移動する。美咲さんと瞳さんは初めてのワゴン車に乗り驚いていた。「京都の観光タクシーみたい。」と嬉しそうだ。「そうなの、この車、元はタクシーだったのよ。」運転しながらそう説明する信子。
「いつもこの車で移動しているんですか?」瞳さんが羨ましそうに尋ねる。「そうよ。でも10月からはどうなるか分からないのよ。うちのパパがいなくなるから。」そう答える信子。
「えっ!おじさまがいなくなるって・・・。」美咲さんが驚いた様に信子に尋ねた。
「そう、うちのパパは転勤でニューヨークへ行っちゃうの。」里穂が少し寂しそうに答えた。
「まあ!そうだったの!」驚く美咲さんと瞳さん。
「だから10月からは大手芸能プロダクションにお願いしてマネージャーさんと運転手さんに来て頂く様にしているの。」信子が説明する。
「と、いうことは、4人はその大手芸能プロに所属するんですか?」美咲さんの質問は続いた。
「いいえ、4人とも学生、しかも小学生が3人いるからね。マネジメントだけお願いするのよ。」信子の返答に納得する2人だった。
何故なら、今のこの関係が激変してしまうことを望まなかったからだ。この仲間が唯一気を許せる対象だったからでもあった。
レストランに入り何時ものテーブルに案内される。するとすぐに料理長さんがゲストの2人にご挨拶に見えた。何時もの様ににこにこと先ずは英語で話しかける。すると美咲さんも英語でご挨拶ししばし雑談となった。それに中1の瞳さんも加わる。
これは美穂と里穂にとっては衝撃だった。学年が2歳しか違わない瞳さんが英語を話している!改めて英語を学ばねばと痛感した様だ。そしてその思いは優太君も同じだった。
また、美咲さんと瞳さんに学ぶところはテーブルマナーの美しさだった。2人の所作が綺麗で美しいと思うほどだったからだ。
ディナーが済むとロビーでくつろぐ。自然とピアノの傍へ腰を下ろす。皆無言でピアノを見つめていた。
「あら、誰も弾かないのなら弾いちゃおうかな。」そう言ってピアノの前に座る信子。皆、待ってました!と言わんばかりに拍手を送る。
「アラベスク第1番」が流れ始める。誰の弾き方とも違う「アラベスク」だ。「何が違うの?」皆そう思ったが自分たちとの違いが明確には分からなかった。
「良かったわ。ここのところヴァイオリンばかりお願いしていたからピアノの腕がなまっているんじゃないかと思っていたのよ。さすがプロだわ。」そう言って信子は安堵のため息をついた。
「良く分からないんだけど、曲を理解して自分の思いを演奏に込めるってことの様な気がするんだ。」そう言って優太君は優太ママの方を見た。「うん、優ちゃんの言う通りかもね。譜面通りだけど譜面通りでだけではなく感情が込められているということなのかしら。自分で弾いていても今日は感情が込められたとか思うことが多々あるからね。後は絶妙な鍵盤のタッチかなあ。皆も各自鍵盤のタッチは異なるでしょ。そういうのも関係があるんじゃないかしら。」そう話してくれる優太ママだった。
『そう、私が伸びるにはそれを早くマスターすることだわ。遥香さんと美穂ちゃんはそれぞれの欠点を克服して私に追い付いてきた。それを振り切るには感情移入しかないわ!』美咲さんはそう思いながら信子の演奏を聴いていた。
一方の遥香さんと美穂も口にはしないが思いは美咲さんと同じだった。そして美穂が気付く。『最近里穂の演奏が上達しているけど、よく考えたら里穂は民謡を歌うことでもう自然に感情移入をマスターしているんだわ。だからママは里穂のコンクール参加を敢えて先送りしたのね。』美穂は漠然ながらも手ごたえを感じた。
信子の演奏が終わると大勢の拍手が起こった。驚いて周りを見るといつの間にか大勢の観客がロビーに詰め掛けていた。
驚く美穂たち。信子は何も言わずピアノ椅子から立ち上がり皆さんに一礼した。そして黙して何も語らなかった。
「信子お姉さんは演奏で教えてくださったのね。」美咲さんはそう言って一言だけ信子に声を掛けた。「ありがとうございました。お勉強させていただきました。」
「いえいえ、皆さんの参考になれば嬉しいわ。」信子はそう言って美咲さんを見つめた。「はい。私に弾かせてください。」美咲さんは信子にそう言ってピアノの前に座った。
ピアノが鳴り始める。美咲さんの華麗な指捌きで「英雄ポロネーゼ」が始まった。美咲さん独特の滑らかに流れる様な演奏だ。
遥香さんと美穂は久しぶりに聴く美咲さんの演奏に聴き入っていた。
里穂は信子の隣でじっと聴き入っていた。そして指の動きを引き寄せられるように見つめていた。ピアノが鳴り響くロビーはたちまち人だかりが増えていく。そんな中で美咲さんの堂々たる演奏は続く。
瞳さんもじっと目を閉じて美咲さんの演奏に聴き入っていたが何かに気付いたように目を開けた。何時もの美咲さんの演奏と何かが違うと気が付いた様だ。
「さすがは美咲さんだわ。もう修正してきたのね。」信子はそうひとり言を呟いた。
遥香さんと美穂も以前の美咲さんの演奏とは異なると感じていた。この微妙な修正を自分にも出来るのだろうか?それが不安だった。
「ママ、美咲お姉さんの演奏、素敵だね。」里穂が信子に話しかける。
「そうね。ママの演奏で気が付いてくれたみたい。さすが美咲さんだね。」信子はそう里穂に返事をした。里穂はちょっと困った様子だった。
「里穂、心配しなくても大丈夫よ。里穂は既に身につけているから。」そう言って信子は里穂を見つめた。
「ママ、私は何を持っているの?」里穂はそれが何を意味するのかが分からなかった。
「信子お姉さま、聞こえてしまって申し訳ないんですけれど、里穂ちゃんは既にそれ身につけているのですか?」瞳さんが信子に尋ねる。
「瞳さん、里穂は幼い頃から民謡を歌っているの。そのおかげで自然と身についたみたいなの。一生懸命に歌って来たからだと思うの。」
今一つ分からない素振りの2人にこう説明した。
「私たち演者は音をお客様にお届けするのはもちろんだけどその歌や曲の情景も一緒にお届けするのが理想と言えるの。それを意識して演奏することでお客様に自分の中で曲のイメージを作っていただくのよ。そしてそれが感動に繋がるの。難しいけれど、里穂は民謡でその力を自然と身につけているのよ。土曜日の「花のワルツ」、たくさんの拍手を頂いたでしょ。あの演奏がそうなのよ。」信子はそう2人に言い聞かせた。
「遥香さん、美穂。ママのリクエストよ。今練習している「ウナ・セラ・ディ東京」を聴かせて貰えないかしら。」信子から歌のリクエストだ。「里穂、伴奏をお願い。」
美咲さんと瞳さんが驚く。「ピアノだけでなく流行歌まで歌うなんて!」
里穂の伴奏で2人の絶妙な歌唱が始まる。ロビーに集まった人たちも小学生のコンビによるムード歌謡に驚きを隠せない。美咲さんと瞳さんも同様だった。「何でこんなに上手いの?」ロビーの皆さんもうっとりとした表情を浮かべている。
「お2人とも分かっていただけたかしら。」信子が美咲さんと瞳さんに問いかける。
「はい。感動していただくことですね。」美咲さんが即答する。
「瞳さん、上手く弾くことに夢中になり過ぎても感動は伝わらないの。ただの上手に弾ける人で終わっちゃあだめですよ。美咲さん、瞳さんのご指導をお願いしますね。」信子はそう言って2人を見つめた。
頷く2人。
そう話している間にも遥香さんと美穂の歌唱は終わった。ロビーは拍手の渦に包まれた。
「2人とも良いお歌をありがとう。今頂いている拍手とピアノを弾いた時の拍手、違いが分かるかしら。今の拍手は“感動”の拍手、ピアノを弾いた時の拍手は“称賛”の拍手なの。お歌なら出来ていることが2人のピアノにはまだまだ足りていないのよ。」そう言う信子の目は暖かかった。「特に美穂、最近の演奏が形通りになりがちですよ。」この信子の一言で目が覚めた美穂だった。確かに色々なことをやる中でピアノの演奏が雑になっていたかもしれないと感じた。
「ママごめんなさい。教えてくれてありがとう。」涙を流しながら信子に抱き着く美穂。そして同時に泣きながら抱き付く遥香さん。
「遥香さん、推薦入試までには間に合うわよね。そしたら胸を張って入学出来るわ!」信子はそう言って2人を抱きしめた。
その様子を見つめていた優太君がふと漏らした。
「僕には何も言ってくれないんですか?」寂しそうな優太君を優太ママが脇から抱きしめた。
「何言ってるの!優ちゃんはとっくに身につけているわ!だってプロの響子さんに声を掛けていただいたじゃないの。それが証よ。ねえ信ちゃん。」優太ママの話の振りに答える信子。
「優ちゃん!その通りよ。優ちゃんはとっくの昔に実践しているじゃないの。うふふ、それともこっちに来て一緒に泣く?」そう言われて慌てて首を横に振る優太君だった。
翌日、私の携帯が鳴った。わが家の工事担当会社からだった。週末の金曜日には工事が完了するとのことだ。そのため土曜日に立ち合いを求められた。工事期間中は玄関から2階へとの生活をしていたので楽しみだ。それに合わせて楽器店の改装工事も終わる様だ。
高原とこちらでの催事が重なりおめでたいことこの上ない。
特に高原店の開所式には楽器メーカーの重役さんたちが勢揃いされるとのことだ。相当な力の入れ具合だ。販売実績もあるが、今後の音楽教室への期待も大きいものと思われる。
週末の金曜日、楽器店2店は紅白の幕が飾られ、お祝いの花が幾つも飾られていた。その中には音大大学長さんからの立派な胡蝶蘭もあった。そんな中、オープニングセレモニーが華々しく開催される。春子おばあさんと小春さんは感無量という感じで地に足が着いていない様だ。それを優香さんと早紀さん、そして桜さんがフォローしていた。お客様への挨拶に追われるお2人にアルバイトの高原高校の生徒さんたちも手助けをしていた。さらに重役さんたちはお揃いの青いハッピを着て来客者の皆さんに記念品を手渡していた。重役さんたちの意外な気さくさに驚く美穂たちだった。
美穂たちはというと撮影チームが用意した天使のコスチュームに着替え1階の音楽教室のイベントに参加する。さらに驚きだったのは優太君の衣装まで作ってくれていたことだ。それは真っ白なタキシードで“ヴァイオリンの貴公子”と呼ばれる優太君にぴったりの衣装だった。これをお披露目した優太君の晴れ姿に優太ママは感激だった。信子と口を揃えて褒めたたえる。「きゃあーっ!優太君!似合い過ぎるうーっ!」それに3姉妹も加わり控室は大賑わいだった。
また、今日は地元のテレビ局や町の広報課のカメラも入り大騒ぎだ。何処で情報を得たのかファンの皆様も多数来場いただいて賑やかさが増していた。
当然1階の駅前広場は人でごった返し大混雑となっていた。駅員さんと警察官さん、ガードマンさんたちは増員されお客様の整理に追われている。
そんな中、2人の紳士が1階の音楽教室を尋ねてきた。それは大手芸能プロの社長さんと副社長さんだった。最初に気付いたのは早紀さんだった。
「えっ?パパ!どうしてここに?」驚く早紀さん。
「いや、早紀が良い仕事をしているとママに聞いたものでね。」そう言って社長を紹介してくれた。
「初めまして。早紀さん。お父さまからお噂は伺っておりました。それにしても見事な式典、演出ですね。地方都市とはいえ、力の入れ具合が半端ではない。」そう言って早紀さんに名刺を渡した。
「ちょっと待ってください。上のものを呼んで参りますから。」早紀さんはそう言って重役さんたちを連れて戻って来た。そしてお互いに名刺交換が始まった。その話を聞きつけた優香さんと美穂たち4人が挨拶へ向かう。それに続く信子と優太ママ。しかしまだ教室店舗から外には出られない。気を利かせてくださった大手芸能プロのお2方が店内に入ってきてくださった。そして“天使の3姉妹”と“ヴァイオリンの貴公子”と対面となった。
社長さんはたいそう喜ばれ4人と握手して回った。副社長さんも同様に早紀さんとその様子を眺めて喜ばれていた。楽器メーカーの重役さんたちとの談笑にも花が咲いた。「パパったら、これが目的だったのね。」早紀さんはそう思って微笑んだ。自社でCMを作成するより大手プロの手腕を貸してもらう方がより良いCMが作れると思ったからだ。
午後1時、両社の重役さんたちが見守る中ショーが始まる。物凄い応援の中をガードマンさんたちに守られて仮設ステージに登場する“天使の3姉妹”と“ヴァイオリンの貴公子”に黄色い声と野太い声援が飛びまくる。司会の女性が話そうとするが声援は止まない。
見かねた美穂が司会のお姉さんからマイクを借りる。
「はあーい!皆さんこんにちわあーっ!」突然の美穂の呼びかけに驚くお客さんたち。続ける美穂。
「今日は楽器店及び音楽スクールのオープニングイベントへおいで頂きありがとうございます。改めて自己紹介です。私たち“天使の3姉妹”でーす!」それに合わせて3人でお辞儀をして声援に手を振る。「そしてもうお馴染みの“ヴァイオリンの貴公子”優太君でーす!」この紹介に黄色い声援が飛ぶ。
「今日は、スペースの関係でピアノが設置できなくて2台の電子ピアノでお歌をお贈りすることにしますね。ピアノが聴きたかった方ごめんなさいね。」そう言ってマイクを司会のお姉さんに戻す美穂。
「はい、それでは最初の曲です。「ピアノはともだち」です。
美穂と里穂の演奏に乗せて遥香さんの澄んだ歌声が流れる。これには改めて驚く重役さんたち。CMの主題歌であるが、皆遥香さんのソロバージョンを聴くのは初めてだった。
2曲目は優太君の「マジンガーZ」だ。初めて聴く優太君の歌声に興奮気味の女性ファンたち。「きゃあーっ!歌声も素敵!」
3曲目が紹介される。美穂の「アタックナンバーワン」だ。小さな女の子たちは大喜びだ。「この子たち、ピアノやヴァイオリンだけではない。皆、歌唱力も確かだ。」役員さんたちはそう思った。「確実に売れる!」
4曲目は遥香さんの「エースを狙え」だ。もう遥香さんの代名詞と言える曲だ。皆の歌声に圧倒される会場。「遥香さんだけの話ではなくなってくるなあ。」副社長さんが呟く。
5曲目は優太君の「星のフラメンコ」だ。思わぬ選曲にどよめく会場。
しかし軽やかなリズムで歌っていく優太君。もう皆聴き惚れるしかなかった。余りにも“貴公子”過ぎだ。違和感が全くなかった。
「それにしても、トリは最年少の里穂ちゃんなのか?」役員さんたちはそう思った。「荷が重くないのか?まだ小3だぞ。」
「それでは最後の曲になります。最年少の里穂ちゃんの歌です。「帰ってこいよ」です!どうぞ!」司会のお姉さんのアナウンスに驚きの声が上がる。そんな中、何故か普段着姿の里穂がステージ中央でマイクを受け取る。遥香さんの演奏に美穂の演奏が続く。
「きーいいっとおー・・・!」天使姿の可愛いかった姿からは想像が出来ないあまりにもパンチのある歌声に会場に衝撃が走った。
「う、嘘だろ!」「何て声だ!」「小3なのに何処にこんなパワーがあるんだ!」あちらこちらから驚きの声が上がる。
「この声かね。私に聴かせたかったというのは。」芸能プロの社長さんは副社長さんに言った。
「はい、この子の声はもうプロの声です。当然、他の子たちもかなり上手で申し分ないのですが、この里穂ちゃんだけは格段に上手いです。しかも歌に魂があります。」そう言って副社長さんは里穂を見つめた。
「個人で良し、グループでも良しということだな。」社長さんの言葉に静かに頷く副社長さんだった。こうして4人への高評価が決定した。「後は如何にして4人を守っていくかだな。」
セレモニーが終わると里穂は再び天使に衣装替えだ。これは天使のイメージと歌唱曲のイメージが合わないと里穂が判断したものだった。この里穂の一連の行動に楽器メーカーの重役さんたちからは称賛を頂き、加えて芸能プロのお2方からもお褒めの言葉を頂いた。
里穂は嬉しそうにはにかんでそれに応えていた。
そして皆さんと記念撮影後に、役員さんたちと芸能プロのお2方はそれぞれの車に乗り込んで帰って行かれた。
その後のサイン会は里穂、美穂、遥香さん、優太君の順に長テーブルに座り色紙を順送りする方法で粛々と行われた。列も終わろうかという時に里穂がコンコースの柱に寄りかかるようにしてこちらを見つめている1人の女の子に気付いた。最後のお客様が帰られると一目散に女の子めがけて走って行く天使姿の里穂。そして女の子に事情を聞く。どうやらお小遣いが足りずに色紙が買えないでいた様だ。
「こっちに来て。」里穂は女の子の手を引き自分の席に戻って来た。他の3人もにこにこと手招きをしてくれていた。
里穂は皆と一緒に控室へ行こうと言って女の子を誘った。女の子は小さく頷いて、里穂と手を繋いで控室へ入ってきた。
里穂は自分のかばんから“天使の3姉妹”のロゴが入った色紙を1枚取り出すと自分のサインを書いた。それに美穂、遥香さん、優太君が続く。余りの出来事に驚く女の子に4人がそれぞれ握手をする。満面の笑みを浮かべる女の子を真ん中にしてポラで記念撮影をして、更にその裏に今度はボールペンでサインを書き込んでいく4人。余りの嬉しさに泣き出してしまった女の子を皆が円陣で囲んで「きょうもいくよーっ!はいいーっ!」と何時ものルーティンを決める。女の子は大喜びで何度も振り返り手を振って帰って行った。
「すごーい!皆さん神対応ですね!」衣装替えをしてくれる衣装さんとメイクさんたちに言われて少し照れる4人だった。衣装替えが終わると控室にはお弁当が用意されていた。そう、4人はお昼ご飯をまだ済ませていなかったのだ。早速4人で「頂きまーす!」と美味しそうに食べ始める。ボリュームたっぷりのステーキ弁当の味は格別だった。その間に衣装さんとメイクさんたちが帰京のご挨拶にいらした。「久しぶりに会えて嬉しかったです!」とお互いに喜びを分かち合った。そして次のCM撮影での再会を楽しみにしてお見送りをした。
お弁当を頂いて6人で世間話をしていると商店街の組合長さんがご挨拶に見えた。オープニングセレモニー出演への労いの言葉を掛けて頂いた。さらに「駐車場の一般出入り口付近が混雑しているので納品車専用口から出庫して欲しいのです。」と教えて頂いた。そこで6人は30分後に出ることにした。組合長さんは納品車用駐車場との連絡口を開けてくださるとのことだった。しかも業務用エレベーターまで組合員の皆さんがガードしてくださるとのことだ。皆でお礼を言うと逆に組合長さんにお礼を言われた。「今回もそうですが、ストリートピアノでの演奏会で客足が増え、そのため売り上げが増えた店舗が多くあるとのことだった。これに4人は大喜びだ。
自分たちがお役に立てたことがすごく嬉しかったからだ。
こうしてこの日は無事にロッジまで帰り着くことが出来た。
ロッジに着くと夕食前に温泉に行こうということになった。女性5人と男性1人というアンバランスなグループはホテル本館へ向かう。今日は金曜日ということでさほど込み合ってはいなかった。浴室の入り口で2手に分かれる。優太君は独りぼっちだ。美穂は出来れば一緒に入ってあげたいと思った。「一緒に入っておいでよ。」遥香さんと里穂に冷やかされる美穂。「優太君!一緒に入る?」美穂が思い切って尋ねると「よせよ、何言ってるんだい。」顔を紅くして慌てて暖簾の奥へと消えていく優太君だった。そんな優太君を微笑みながら見送る美穂だった。「お姉ちゃん、マジで家族風呂、予約しなよ。」里穂に言われて「やだ、もう!」と真っ赤になる美穂だった。
今日のお風呂での話題は高原高校での送迎会についてだった。こちら側の出し物をどうするかで盛り上がっていた。
夕食の時も送迎会の話で盛り上がった。ふと、優太君が言った。
「全員参加すると5,60人程になるよね。何処でやるんだろうね。」
そう言われてみれば確かにそうだ。そんなに大きな会場となると学校の体育館位しか思い当たらなかった。
その日の夜は送迎会での演目の練習に励む6人だった。
翌日の朝食後の練習中に志保さんから電話が入った。どうやら体育館が他校との交流試合のため当分使えないとのことだった。こちらでも探してみることにして一旦電話を切る信子だが、改めて心当たりは無かった。
「ホテルの宴会場なら100人位は入れそうだよ。」そう提案する優太君の言葉に後押しされ信子はフロントのマネージャーさんの元へ向かった。マネージャーさんに理由を話してみたところ「宿泊のお客様には無料で使っていただいております。時間も夕刻前までなので何の制約もありません。食べ物の持ち込みは自由ですが、飲み物に関しては当ホテルのサーバーを3台無料でお貸しいたします。ただし、飲み物のタンク代は有料とさせていただきます。」と説明があった。楽器類に持ち込みは可能とのことで、こちらとしては宴会場のセッティングは全てこちらで行う旨付け加えた。こうして後は日時を決めるのみとなった。その旨を志保さんに連絡する信子。電話口で喜ぶ志保さんの声が漏れ聞こえてくる。今日の午後にお昼を頂きながら打ち合わせを行なうこととなった。
午後1時少し前に志保さんが尋ねてきた。早速、信子と優太ママ、そして美穂がお出迎えをする。レストランの個室でランチコースを4人で頂く。余りこのような機会が無いのだろうか、志保さんは少し緊張気味だ。
「志保さん、マナーとかあまり気を使わなくて大丈夫ですからね。」信子が志保さんに声をかける。
「そうそう!4人しかいないんだからお気軽にね。」優太ママもそう言って志保さんの緊張をほぐそうとしていた。
「志保お姉さん、今日は冷製トマトのスパゲッティーだからきっと口に合うと思うよ。」美穂もそう言って志保さんに話かける。
皆にそう言われて少し落ち着いてきたのか志保さんの陽に焼けた顔に笑顔が戻った。
「ありがとうございます。実は私、幹事とかやったことが無くて、しかも今回60人ととんでもない人数で・・・。」と胸の内を教えてくれる志保さん。
「大丈夫!私たちが付いているから!」そう言って笑う優太ママだった。
「後は食事と楽器運びだね。お弁当にするの?」美穂が2人のママに尋ねる。志保さんも頷きながら2人のママを見つめる。
「そうだねえ、お弁当も配りやすいんだけど、体育会系の男の子と音楽部の女の子では満足感が違い過ぎるよね。」優太ママがそう言うと信子も頷いた。
「そうだね、食べ残しが出るとお弁当だとそのまま捨てなくてはならないわね。それじゃあもったいないわね。」信子もそう言って考え込んだ。
「ここの朝食みたいにバイキングにしたらどうかなあ。楽しいと思うんだけど。」美穂がそう言って目を輝かせる。
「そうか、それだとたくさん食べる人と小食の人とのバランスもとれるわね。」志保さんも美穂の意見に賛成の様だ。
「そうか!保管容器ごと持ち込めば良いんだ。」優太ママも賛成の意見を出す。
ここで料理が運ばれてきて会議はいったん中断する。
コーンクリームスープがとても口当たりが滑らかで美味しい。
驚いたように飲み続ける志保さん。
「やっぱりシェフが作ってくれるスープは美味しいなあ。」美穂もすっかりこのレストランの味を覚えてしまった様だ。
「えっ?美穂ちゃんって普段何食べてるの?」志保さんが美穂に尋ねる。
「朝はフレンチトースト、お昼は給食、デザートはクッキーとかアイス、夕食は自分で作ることが多いなあ。ハンバーグとかしょうが焼きとかが多いかな。」さらりと言ってのける美穂に感心する志保さんだった。
「美穂ちゃんは里穂ちゃんだけでなくうちの優太にまでご飯を作ってくれるのよ。いつもありがとうね、美穂ちゃん。」優太ママはそう言って両手を合わせた。
「すごいわね。それで音楽もやってお勉強もしているんでしょ。偉いわあ。」志保さんはそう言って美穂を褒めてくれた。
「志保さん、そんなことないです。私も習い事をしている普通の小学生だと思っています。」美穂はそう言って笑った。
メインディッシュのヒレステーキを頂きながら優太ママが料理を作ってくれるお店を探そうと発言し、食事が終わって支配人さんに聞いてみることにした。
食後のアイスクリームを頂きコーヒーと紅茶で締める。何時もと違う昼食に感激する志保さん。「美味しかったです。」そう言って喜んでくれた。
フロントで支配人さんに相談すると少し考えてから「高原食品」さんを教えてくれた。こちらは駅弁を始め、仕出し弁当、会社の食堂の委託を受けている会社さんとのことだ。しかも社長さんに直接電話をしてくださりアポの段取りまでしてくださった。
「今からでも大丈夫みたいです。お昼のピークはもう終わっていますから。」そう言って笑って見送ってくださった。
信子の運転のワゴン車で高原食品さんへ向かう。そこは街外れの大きな工場だった。微かながら良い匂いが漂っている。志保さんと美穂は何の匂いかを当てっこしている。
早速入り口から入る。「きゃあーっ!」という声が若い女子社員の皆さんから巻き起こる。突然の“天使3姉妹”の次女の訪問に沸き立つ事務室。美穂にピースサインを送る女子社員の皆さんににっこりとピースサインで応える美穂。また悲鳴のような黄色い声が巻き起こる。それを聞きつけた工場長さんが受付へ飛んできた。
「い、いらっしゃいませ。」そう言う工場長さんも動揺していた。どうやら高校生数名が訪れると思われていた様だ。しかもその中の一人は小学生なのだ。信子と優太ママと挨拶を交わし4人を社長室へ案内してくださった。社長室に入ると社長さんも想定外の4人の訪問に驚かれていた。「何で小学生がいるんだ?」当然の疑問だったがまあ、付添いだろうと思って名刺を渡しながら4人に挨拶をする。そして美穂の名刺の受取り方に驚きを隠せなかった。しっかりとビジネスマナーに則った受け取り方だったからだ。工場長さんも同様だった。小学生らしからぬビジネスマナーを身につけた美穂に釘付けだった。
志保さんが事の経緯を説明する。音楽を指導してくださった皆さんに感謝の意を込めてお帰り頂きたいと熱く語ってくれた。
信子からも、いろいろと教えていただいたこともあり今回は合同企画としてお願いしに来た旨をお話しした。
「予算的には一人2000円で60人分のお料理をお願いしたいんです。」具体的な美穂の言葉にさらに驚くお2人。しかし気を取り直すように料理のメニューの提案をしていくお2人。
「実は、60人中、体育部系の男子が40人、こちらの皆様を含めて文科系の女子が20名ほどの割合なのです。それを考慮してメニューを決めたいと思っています。」志保さんもそう説明する。
「そうなると、唐揚げ、エビチリ、春巻き、餃子といった中華系ですかね。」工場長さんがそう提案してくださった。
「うふ、あと焼きそばもお願いします。」美穂がそう付け加えた。
工場長さんは電卓で計算を始め、出た金額を社長さんに見せた。
社長さんは大きく頷いた。「それではお一人2000円で60人分、合計120000円でお受けいたします。工場長さんの一声で決まりだった。
「あのう、受け渡し場所はどうなりますでしょうか?」美穂が尋ねる。工場長さんが社長さんに一言二言小声で了解を求めた。社長さんは首を縦に振って快諾された。「うちの車でお持ちします。帰りは容器類をそのまま洗わずにお返しください。」工場長さんがそう言ってくださった。
「それではお料理をお持ちいただいた時に代金を現金でお支払いします。」黙って経緯を見ていた信子がそう言って打ち合わせを締めくくった。
打ち合わせの後は雑談となった。高原高校との親交の始まりとか演奏会の話などで盛り上がった。その中で話題となったのは美穂が1日でピアノを7台売ったという話だった。どうやら商工会でも話題となっているようだ。
「ピアノってそんなに売れるものではないと思うのだが。」社長さんが興味深そうに尋ねてきた。
「はい、美穂は夫の経済雑誌などを読んで知識を身につけています。そのせいかもしれませんね。販売戦略もある程度理解している様ですから。」信子が説明する。
「なるほど。興味があってそれを理解出来るとなるとかなり優秀なお嬢さんですな。」感心するお2人だった。
帰り際に女子社員の皆さんにサインをお願いされた。納品の車に載せるとのことで容器を返却の際にお返しすることとした。色紙の袋に皆さんのお名前を書いておいてくださいとお願いして手を振りながら工場を後にした。
4人が次に向かったのはレンタカー屋さんだ。楽器を運ぶための貨物車を借りるためだ。「誰が運転するんですか?」志保さんが尋ねると優太ママから頼もしい答えが返ってくる。「私が運転するわ。」
「優太ママは音大の頃ステージ設営のバイトをしていたのよ。だからお手のものよ。」信子が懐かしそうに笑う。
こうしてレンタカーも無事に借りることが出来た。
「後は当日を待つだけだね。」そう言う美穂ににっこりと笑顔で返す志保さんだった。
送迎会当日、何時も通りレストランのバイキングで朝食を済ませた5人は練習に励んでいた。特に女子5人は慣れないコーラスにチャレンジしていた。優太君の伴奏をしながらコーラスを入れようという美穂の提案に皆が賛成してチャレンジをしていたのだ。
そして11時前に各自楽器を持ってホテルへと向かう。ホテルで楽器を降ろしレンタカー屋さんに向かう信子と優太ママ。
優太ママはその足で高原高校へ向かう。高校では既に40人の男子生徒たちが待機してくれていた。校舎の入り口に車を停めると直ぐに号令がかかる。何と40人が一定間隔で並び手渡しで楽器を降ろし始めたのだ。これには流石の優太ママもびっくりだった。息つく暇もなく降ろされる楽器たち。これも運動部員たちのなせる業なのか。
楽器の積み込みが終わると男子部員たちは整列して「お願いします!」と優太ママに声を掛け一斉に自転車置き場へと駆けて行った。
優太ママと志保さんがホテルへ戻ってから10分経った頃に40人の自転車が到着した。再び1列に並んで手渡しで温泉施設の通用口から宴会場へ取りレーしていく。通りかかったちびっ子たちが面白そうに眺め、きゃっきゃと大騒ぎだ。そんなちびっ子たちに愛想を振りまきながら搬入作業は終わった。更に40人は優太ママの指導の下、宴会場にテーブルと座布団を設置していく。志保さんと美穂たちが見守る中、あっという間に宴会場の準備が終了した。
丁度その頃、各自の楽譜を入れたリュックを背負った音楽部の皆さんが到着した。重そうなリュックの中からは楽譜とサイン色紙が出てきた。申し訳なさそうに55枚のサイン色紙にサインをお願いする音楽部部長の早苗さん。そして大きな丸まった模造紙を信子に渡してくれた。今日来てくれている皆の寄せ書きだという。サインは快く書かせていただくことにした。早速寄せ書きを広げる6人。55人の寄せ書きが所狭しと書かれている。これに感動する6人。「これ、額に入れてピアノルームに飾ろうよ。」里穂の提案に5人も拍手で賛成した。そして里穂から皆さんにピアノルームの説明が始まった。
皆さん驚きの声を口々に話していた。
やがて料理が到着。併せてドリンクサーバーの取り付けも終了した。
その間にも6人がサインを回し書きしていく。それを遠目で見守る皆さん。スピーディーな流れ作業に驚きの声が漏れ聞こえる。
そして、送迎会の開催だ。司会は志保さんと美穂だ。
最初は音楽部部長の早苗さんの挨拶からだ。最初手が付けられなく下手だった音楽部がまともに演奏できる様になったこと、そして所要のため後からいらっしゃる顧問の桜さんを紹介していただいたことへのお礼が主な内容のスピーチだった。
そして信子の挨拶と続く。信子は、指導者がいない中一生懸命練習してきたこと、そしてその後の練習について褒めたたえてくれた。
併せて、桜さんが駅前音楽教室のチーフ講師に任命されたこともお知らせした。すると全員から祝福の拍手が起こった。
続いては「野球部」「剣道部」「サッカー部」のそれぞれのキャプテンの挨拶が続いた。特に剣道部が里穂にコテンパンにやられた話は参加者の爆笑を貰っていた。
スピーチが終わると音楽部の発表会が行われる。演奏内容は「恋はみずいろ」「エーゲ海の真珠」「涙のトッカータ」「オリーブの首飾り」そして最後は「シバの女王」だ。見違えるほど綺麗な音色、そして全体的にまとまった演奏だった。最初の頃を知る6人にとっては衝撃的な進歩だった。一層強い拍手を送る6人だった。
音楽部の演奏が終わると小休止してビュッフェタイムだ。皆、取り皿やコップを持って料理とドリンクバーに群がる。すごく賑やかな光景に廊下を通りかかった人たちが一瞬足を止めるほどだ。
皆で好きなものを食べ好きなものを飲む。ワイワイガヤガヤ好きなお喋りがあちらこちらで花を咲かす。優太君の周りにはファンの音楽部女子部員たちが、里穂の周りは剣道部を中心とした男子運動部のファンが、遥香さんの周りはサッカー部を中心としたファンが、そして司会を終えた志保さんと美穂を待っていたのは野球部を中心としたファンの皆さんだった。やはり1番の話題は美穂に怒られたキャプテンの話だった。あんなにしょげ返っているキャプテンを初めて見た!と野球部員を中心に大笑いだ。しきりに頭を掻き照れまくるキャプテン。思わず志保さんへ助けを求めるような視線を送るキャプテンを美穂は見逃さなかった。「ひょっとして?」そう感じた美穂は小声で志保さんに尋ねる。「志保さん、キャプテンとお付き合いされてますよね?」ストレートな質問に顔を紅くして呟く志保さん。「もう!里穂ちゃんったら。誰にも言わないって約束したのにいーっ。」
なるほど。そういうことだったのね。そう悟った美穂が志保さんに言った。「いや、違います。先ほどのキャプテンの視線が志保さんに向いていたので、もしかしたらと思ったんです。でも、里穂は知っていたんですね。」そう言って小さな声で笑った。「もう!美穂ちゃん!笑わないでよ!」志保さんも小声で返す。
「あらあら、司会者2人で何のお話し?」優太ママに気付かれてしまった。「いえ、司会のことでちょっと・・・。」慌てる志保さん。
「あらあーっ!ひょっとして恋のお話かしら?」信子も加わる。
一方、遥香さんのグループは男子たちからのアピール合戦となっていた。我こそは遥香さんの彼にふさわしいと大騒ぎだ。さすがの遥香さんも苦笑いだ。
里穂のグループは剣道の話で大盛り上がりだった。とくに腕の鍛え方が話題の中心で皆それぞれに鍛えた腕を里穂にアピールしていた。
最も熱かったのは優太君とファンの女子生徒たちだ。「何でヴァイオリンがあんなに上手に弾けるの?」「どうやって身体を鍛えているの?」「学校で好きな子はいるの?」とかの質問が飛び交っていた。
中でも優太君を困らせたのが「なぜ何時も伴奏は美穂ちゃんなの?」「美穂ちゃんとはどれ位仲が良いの?」の質問だった。思わず美穂に視線を向ける優太君。今度は志保さんが見逃さなかった。
「ねえ美穂ちゃん。彼が困っているわよ。」そう美穂の耳元で囁く志保さん。「えっ?」そう言って思わず優太君を見つめる美穂。
「ちょっと失礼します。」そう言って優太君の元へ向かう美穂。
「うふふ。今度は志保さんの勝ちみたいね。」そう言って2人のママが笑った。「えっ?何のこと?」男子たちはお互いに顔を見合わせるのだった。
「でもねえ、あの子たち、今は信頼関係で結ばれているけどこれから恋愛感情がより大きくなってくると上手くやっていけるのか心配しているのよ。」優太ママの発言に大きく頷く信子。
「私もそうです。彼のことを思うと何も手につかない・・・。」志保さんが思い出したように言う。
「そこなのよね。」信子もそう言ってため息をつく。
「あっ!志保さん、ごめんなさいね。おばさんの会話に付き合わせちゃって。」そう言って笑う2人のママだった。
「あっ!皆さんそろそろ時間です。」志保さんは時計を見ながら6人に声を掛けていった。舞台に上がった6人を代表して信子がお礼の挨拶をする。暑くてたまらなかった音楽室での練習、顧問桜さんの誕生、楽器店の応援アルバイト、ホテルロビーや夏祭りでの公演、そして楽器店オープニングセレモニーと様々な良い想い出が出来たことを感謝していた。そして裏方として会場の準備に携わってくださった皆さんに感謝の言葉を述べた。
続いて美穂が司会を受け持つ。
「今日はピアノが無いので演奏ではなく歌を披露させていただきます。私たちが歌っている間に皆さんにリクエストカードをお渡しします。自分が歌いたい曲を書いて志保さんに渡してください。私たちが対応できない曲でも大丈夫、カラオケも借りております。」そう言い終わらないうちに志保さんがカードを配っていく。
「それでは1曲目は優太君で「美しい十代」です。」
5人の演奏とコーラスが始まる。沸き起こる拍手。電子ピアノ3台、ヴァイオリン2挺での室内楽風のアレンジだ。音楽部の皆さんが思わず身を乗り出す。
優太君の甘い歌声が流れる。初めて聴く優太君の歌声に胸をときめかせる女子生徒たち。そして呆然として聴き惚れる男子生徒たち。
5人の軽快な演奏とコーラスによって臨場感が膨らんでいく。
歌が終わると拍手喝采だ。
「はーい、優太君の「美しい十代」でしたあ。続きましては遥香さんの「エースを狙え」をお贈りします。それではどうぞ。」
里穂の力強い電子ピアノが鳴り響く。それに合わせて各自がそれぞれのパートを演奏していく。皆さんはもうノリノリだ。しかも廊下には聞こえてくる演奏と歌声に足を止めて聴き入る人たちで溢れんばかりだ。そんな中、遥香さんの可愛い透き通った声が皆を魅了する。こちらも拍手喝采だった。遥香さんの話し声だけでこの歌声を想像できる芸能プロの副社長さんのスカウト力には脱帽の美穂だった。そう感心している間にも美穂の出番になっていた。5人が一瞬美穂を見た。じっと考え込んで身動きをしなかったからだ。
「ごめんなさい。思わず聴き惚れていました。」そう言って照れる美穂。「かわいい!」と声援が飛ぶ。わあーっ!と盛り上がる宴会場。
「ありがとうございます。それでは次は私の曲です。「みずいろの手紙」です。お聴きください。」直ぐに優太君のヴァイオリンの音が流れる。それに続いて演奏が始まる。美穂の優しい歌声が流れる。
「何でこの子たちこんなに上手なの?」皆の共通の思いだった。
“天使の3姉妹”と言われている由縁かと皆が思った。
美穂が歌い終わると拍手と声援が飛ぶ。
「ありがとうございます。続きましては遥香さんと私で「恋のフーガ」をお贈りします。どうぞお聴きください。」登場した遥香さんと並んでマイクを持って立つ。里穂の演奏が始まる。そして2人の歌声が流れる。皆から驚きの声が上がる。「すごい!本物みたい!」
2人のハーモニーに酔いしれる宴会場。廊下の皆さんも騒ぎ始めた。
「おい!これは宴会のレベルじゃないぞ!」「誰が歌っているんだ?」
そんな声が飛び交い始めた。
2人が歌い終わると宴会場からだけでなく廊下からも拍手が起きる。
皆それに驚く。いつの間にか廊下は人で埋め尽くされ通れないほどだった。お手洗から戻った生徒たちからその様子を聴かされる志保さん。信じられないといった表情で確認のため外へ。すると身動きが出来ないほどの人だかりが。「一旦休憩を挟んだ方が良いわ。」
志保さんは早速美穂に駆け寄りことの次第を説明した。
「はーい、皆さん。ここで小休憩を挟みます。お手洗いに行かれる方、お料理や飲み物のお替りをされる方はしばらく時間がありますからごゆっくりどうぞ。」美穂のアナウンスで歌唱はしばらくお休みとなった。
6人も席に戻って一休みだ。この小休憩で廊下の人たちも次第に帰って行った。
宴会場ではお喋りが再開された。殆どの話題が4人の歌の上手さだった。料理をほおばる人、飲み物を頂く人と過ごし方は様々だ。
特にお料理は保温が効いていてまだまだ美味しく頂ける。3姉妹は春巻きに夢中だった。「歯ごたえが良いよね。」そう言いながらお皿に取っていく。「私、餃子も貰っちゃおうっと。」里穂が春巻きの横に餃子を並べる。そして留めとばかりにその上に焼きそばを盛る。傍に居た男子生徒たちもびっくりの里穂スペシャルの完成だった。
「そう言えば里穂ちゃん、まだ歌ってないよね。」「えっ!まさかの音痴だったりして。」そう言って里穂を冷やかす里穂の歌あを聴いたことのない男子生徒たち。それに笑って答える里穂。「そうだったらどうしますかあっ?」
そんな里穂の元に司会者の2人がやって来た。「里穂、2曲連続って行けるよね?」それに頷いて答える里穂。「里穂は大トリだからね。」そう言って里穂の肩をポンッ!と軽く叩く美穂。
「それでは歌唱を再開します。再会第2部のトップバッターは優太君の「雨の中の二人」です。それではお聴きください。
伴奏とコーラスが流れる。コーラスも本格的だ。女性5人でのコーラスは良くまとまっていて優太君の歌唱を盛り上げる。
再びの優太君の甘い歌声に女子生徒たちはもうメロメロだ。そんな様子を眺める美穂は少しジェラシーを感じていた。そんな美穂の横顔を見ながら志保さんは『美穂ちゃんってかわいい!』と思った。
優太君の歌が終わると何時もの美穂に戻る。その微妙な美穂の変化に思わずクスッと笑ってしまう志保さんだった。スーパー小学生だと思っていたが素は可愛い普通の小学生の女の子だと思えた。
「優太君、ありがとうございました。続いては遥香さんで「瀬戸の花嫁」です。」遥香さんの素晴らしい伸びのある高音に酔いしれる生徒たち。そして再び廊下に人が集まり始めた。「誰だ?すごく上手いなあ!」そんな声が上がる。
大きな拍手で歌を称えられる遥香さん。やはり副社長さんのスカウト眼は正確無比だった。美穂は遥香さんがアイドルとしてデビューするのではないかと内心気が気ではなかった。
「続きましては今日最後の演目となります。里穂の「帰ってこいよ」と「好きになった人」を2曲連続でどうぞ!」美穂の紹介に合わせて里穂と優太君がステージ中央に歩み寄る。
「えっ?何?優太君何で三味線持ってるの?」絶句する美穂。今まで全く気が付かなかった!何時も一緒に居るのに!そんな思いで優太君を見つめる美穂。「さんはい!」優太ママの掛け声と共に優太君の三味線が鳴る。上手い!信じられない!そう思う美穂だった。
宴会場は美穂と同様に驚きの声が上がる。それは優太君の三味線の演奏と里穂の歌声によるものだった。民謡で鍛えたパンチのある歌声とこぶし回し。もう立派な演歌歌手だった。「おいおい、まだ3年生だぜ!」そんな声があちこちから上がる。そして2番に入る前には「里穂ちゃーん!」と合いの手が入る。廊下も騒がしくなった。どんな子が歌っているのだろうと宴会場の引き戸をそっと開ける人も居た。そして里穂の姿に驚き、代わる代わる覗き込んでいる。
里穂の歌は続いて「好きになった人」へと移っていく。
こちらも十分パンチのあるこぶしを利かせるプロ顔負けの歌唱だ。
宴会場内は皆唖然とした表情で里穂を眺めている者、声援や合いの手を送る者で熱気に包まれていた。
その頃ホテルのフロントに問い合わせの電話が相次いでいた。
「歌っている子は誰?」という問い合わせだ。フロントの皆さんも誰が歌っているのか分からず困惑していた。そして図らずもちびっ子たちの会話からその名前を聞くことになる。
「ママ、里穂お姉ちゃんのお歌上手だったね。」そう言って上機嫌で帰っていく親子連れ。「そうか!里穂ちゃんだったのか!」
おそらく夏祭りのカラオケ大会で里穂の歌を聴いていたのだろう。
宴会場では里穂へのアンコールが鳴り止まなかった。
「ねえ、お姉ちゃん。「乙女の祈り」って演奏できるかなあ?」里穂の質問に美穂は首を横に振らざるを得なかった。さすがの美穂も音を聞かなければ何も出来ないからだ。
「カラオケがあるから大丈夫だよ、里穂ちゃん。」いつの間にか早苗さんがステージのすぐ傍に来てくれていた。「曲を入れてあげる!」そう言って慣れた手つきでカラオケを操作する早苗さん。「結構音楽部の皆でカラオケに行っているの。」にこにこと操作を続ける早苗さん。「里穂ちゃん、前奏が流れるわよ!」
カラオケから曲が流れ始めた。嬉しそうに早苗さんに会釈をする里穂。そして歌い出す。今度はムード感あふれる歌謡曲「乙女の祈り」だ。これには男子生徒たちが狂喜乱舞だ。突然の里穂の秘密兵器に唖然とする5人。しかし、皆、直ぐに笑顔になった。「もう!2人とも私に内緒でえーっ!」怒りながらも笑ってしまう美穂だった。
「さあ、いよいよお待ちかねの全員参加のカラオケ大会です!時間の都合でデュエットを中心に進めていきます。」美穂のアナウンスに沸き立つ宴会場。
「先ずは、優太君とのデュエットを希望された方で「旅の夜風」をリクエストされた方、ステージへどうぞ!」手招きをする美穂。一人の女子生徒がステージに登場する。割れんばかりの拍手だ。少し照れた素振りの女子生徒に志保さんが突っ込む。「ねえ、渋すぎない?」これに大うけする宴会場。「ええーっ!そうかなあ?いつもおじいちゃんと歌っているけど・・・。」そう言う女子生徒に皆が驚く。さすがの優太君もびっくりだ。
早苗さんの操作で曲が流れる。恥ずかしそうに優太君と並ぶ女子生徒。そして1番を通太君が甘い声で歌う。きゃあーっ!という悲鳴にも似た声援が飛ぶ。横でそんな優太君の横顔を見つめる女子生徒。
それをみて内心複雑な美穂だった。
歌が終わると女子生徒は両手で優太君と握手を交わし逃げる様に席へ戻って行った。そして周りの生徒たちから冷やかされ真っ赤になっていた。
「続きましては、遥香さんとのデュエット「夕陽の丘」をリクエストされた男性の方どうぞおいでください。」美穂の呼びかけに手を揚げて走って登場したのはサッカー部の副キャプテンだった。
「遥香さんと歌えるなんて夢の様です!」そう言って大喜びの副キャプテン。同じサッカー部員から強烈なヤジが飛ぶ!それに俯いて紅くなる副キャプテン。それを見た女子生徒たちから「可愛い!」の声が上がる。低音を響かせて歌い始める。結構上手だ。2番に入ると遥香さんのパートだ。そんな遥香さんを横でじっと見つめる副キャプテン。
『うわっ!この人、本気で遥香さんが好きなんだ!』美穂は直感した。それを見ていた志保さんが歌い終わった2人に話しかける。
「ちょっと、副キャプテンが入れ込み過ぎて美穂ちゃん、引いちゃっているんだけど!」その突込みに宴会場は大爆笑だった。
「いや、引いてはいませんけど・・・。」そう言いながら気を取り直すように司会をする美穂。ごめんなさい!時間の都合で最後の曲になります。私とのデュエットを希望される方々、複数名いらっしゃいます。」美穂がそう言うと3人の男子生徒が次々に手を揚げた。
「どうしましょうか?1番、2番、3番と交代で行きましょうか。」志保さんがそう提案する。3人でジャンケンをして順番を決める。
「それでは最後の曲です。「もしかしてパートⅡ」ですどうぞ!」
志保さんの曲案内で音楽が流れる。お色気たっぷりの美穂の歌声に驚く宴会場と廊下の皆さん。「とても小学生の歌声とは思えない色っぽさだ。男子生徒から歓声や指笛まで飛び出す始末だ。本当に嬉しそうな男子たちだった。
こうして歌謡ショーはお開きとなった。最後の最後に駆けつけてくれた桜さんより挨拶があった。就職に悩んでいた時に顧問や音楽教室のお話を頂き有難く思っておりますとの皆さんへの感謝の言葉でスピーチを締めくくった。
「これにて送迎会はお開きとなります!皆さん、ありがとうございました!」そう言って閉会を宣言する志保さん。
「サインは後片付けが終わってお渡ししまーす!」遥香さんの愛らしい呼びかけに「はーい!」と返事する生徒さんたちだった。
ああ!昭和は遠くなりにけり!第8巻 @dontaku
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