まんまる月夜のおひなさま

楠秋生

第1話

 時計の針が十二時をさして三月三日になった瞬間、ひな段のてっぺんでお雛様が大きく背伸びをしました。障子の下半分がガラスになっているので、月明かりが部屋の中まで入りこんでいます。


「ん〜。やっと動ける〜!」


 嬉しそうなお雛様の隣で、お内裏様も首や肩をぐるぐる回して体をほぐしています。


「お雛様ひいさま、今年もこうしてお話しすることができて嬉しいですね」


 下の段の真ん中にいる三宝持ちの官女が振り返り、二人を仰ぎ見ました。両脇の官女たちも頷いています。


「ふふっ。毎年この日だけが楽しみなのよ。他の日は全く動けないしおしゃべりもできないから退屈で退屈で……。あら? ね、ちょっと、なんだかおかしいわ」


 お雛様はおもむろに立ち上がりました。華やかな桃色の十二単が緩やかに揺れます。


「身体がものすごく軽いわ。ほら」


 とんっとその場でジャンプして見せました。重いはずの十二単もふんわりと軽そうです。


「おおーっ。本当だ!」


 お内裏様もすくっと立ち上がって両腕を広げてみて、屈伸をしてみています。


「まあ。今年に限ってどうしたことでしょう」

「こんなに自由に動けるなんて!」

「不思議不思議!」


 三人官女が口々に言い、下方の男性陣もざわついています。

 と、五人囃子の謡いの通る声が響き渡りました。笛の音、太鼓の音もそれに続きます。合奏するのではなく、ひとしきりそれぞれが自分の楽器を鳴らして。


「腕が軽い」

「テンポを速くしても叩ける」

「思いっきり叩ける」

「いつもより声がよく出る」

「いろんな吹き方ができる」


 五人はみんな互いにうずうずしているのを感じました。テレビから流れてくる今風の音楽を奏でてみたいと思ったのです。これまでは手がそんなに早く動かなかったので、好きな曲を自由に演奏することはできなかったのです。


「月の魔力かもしれませんなぁ。今宵は満月じゃて」


 左大臣が窓の外から差し込む月明りを見て、考え深げに長い髭をなでながらつぶやきました。


「ほう。さすがは物知りですね」


 右大臣の若者が感心して唸ります。

 下の方では仕丁たちがなにやら相談したようで、下へ降りていこうとしています。


「あ! 仕丁さん! どこへ行くの? 私も降りてみたいわ!」


 六段目から七段目へ降りようとしている仕丁たちに気づいたお雛様が、上段から声をかけました。お雛様の声にみなが仕丁を見下ろしすと、仕丁たちは顔を見合わせこそこそと相談してから、代表して立傘持ちが答えました。


「お雛様ひめさん、安全かどうか確認してきます。その後でお道具を避けて通れるようにしますんで、しばらくお待ちくだせぇ」


 仕丁たちが下へ降りて探索に向かった後、三人官女たちのところでは恋バナが始まりました。紅白丸餅の高坏を端に避けて、真ん中に集まって小声で話します。上の段ではお雛様が、三人に気づかれない程度に身を乗り出して聞き耳を立てていました。


「私、五人囃子の謡いの子が気に入ってるの」

「長柄の銚子持ちさんのところから、よく見えるものね」


 加えの銚子持ちが相づちを打ちます。


「あの声がいいのよう」


 今も下の方から聞こえてくる謡いに耳を傾け、ぽっと頬を染める長柄の銚子持ち。それをながめて年かさの三宝持ちがやんわりと尋ねました。


「加えの銚子持ちは、誰がいいの?」

「私は……」


 加えの銚子持ちは言いかけて口ごもります。


「私、わかるわよ。当ててみようか」


 長柄の銚子持ちが間に入ってくふふと笑いました。


「立傘持ちの仕丁でしょう」

「どうしてわかったの?」

「わかるわよ~。ね、三宝持ちの姉様」

「ふふ。そうね。さっき下から返事があったときの様子で私も気がついたわ」


 図星だったようで、加えの銚子持ちが顔を赤らめました。


「でもね、仕丁は平民なのよ。身分が違うわ」

「そんなの今の時代、関係ないわよ。思う分には問題ないわ。姉様もそう思うでしょう?」

「そうねぇ。心は自由だものね」

「そういう姉様だって……ふふ」


 長柄の銚子持ちの意味ありげに含み笑いに、三宝持ちが眉をひそめました。


「私は既婚者だもの、何もないわ」

「……何か、あるの?」

「姉様が好きなのはね、う・だ・い・じ・ん。よね?」

「まぁ! どうしてわかっ……。いいえ、私は……」

「右大臣様。なるほど確かに端正なお顔をしてますものね」

「そうそう、イケメンよね。体格も良くて力持ちだし。姉様も、心は自由だって言ってたじゃないですか」


 三宝持ちがすいっと二人から視線をそらし、「あっ」と声をあげました。二人もその視線の先に目をやって慌てて立ち上がります。


「お雛様ひいさま! 危のうございます」


 お雛様が二段目に来ていて、次の三段目に降りようとしているところでした。


「大丈夫よう。すっごく身体が軽いもの。こんな時にじっとしてなんていられないわ。ほら。仕丁たちも戻ってきたわよ」

「お待ちください。桃の君。もそっとゆっくり」


 おっとりしたお内裏様も、お雛様の後に続いて降りてきます。


「これ、五人囃子。演奏は一旦止めにして、お雛様ひいさまが通れるよう右に寄りなさい」

「さあさあ、左大臣も呑気にかまえてないでお膳を少しずらしておくれ」

「仕丁たち。危険なものはなかったかえ? 大丈夫なら、御所車や茶道具を動かしておくれ」

 

 散歩に出たいという二人の意をくんで官女たちがてきぱきと支持を出し、空いたスペースを使ってお雛様とお内裏様は降りていきます。官女たちも世話係としてついて行こうとすると、お雛様は顔の前で手を振って遮りました。


「あなたたちは恋バナを続けてていいわよ~。危ないことはしないから」

「でも……」

「たまには二人にならせてよ。デートっていうのをしたいのよ」


 官女たちが難色をしめしていると、右大臣が口をはさみました。


「大丈夫ですよ。私が行きます。お雛様ひめさま、少し離れたところで警護させていただきます」

「儂はちょっと……。この段をぴょんぴょん行くのは難しいかと。右大臣、頼みますぞ」


 左大臣は段の下をのぞきこんで赤い顔を青くしました。高所恐怖症のようです。


「わかりました。その代わり、お雛様ひいさま。必ず五時半にはお戻りくださいまし」

「いつも六時には人間が起きてきます」

「御着物や御髪おぐしが乱れてしまっているかもしれませんからね」

「わかったわ~」


 何度も念をおす三人に手を振って、お雛様は軽やかに下へ降りていきました。その後ろをもたもたとお内裏様もついて降りていきます。右大臣は調度を避けていない反対側の端をひょいひょいと身軽に降り、三人官女を見上げて「任せろ」とでもいうように片手をあげました。


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