第8話


「佐紀、大学どうすんの」



恋との一件のあと、鬱々とした日が続いたけれど少しずつ体調は良くなって、症状が落ち着いてから数日が経った。なのに大学にも行かない私に、奏の言葉は当然だったしむしろ、自覚していた。

ふたりのアパート。夕食を済ませてお風呂が沸くまでの少しの時間。いろんな意味で逃げ場のない私に、奏はスマホを弄りながら答えを待っていた。



「……行く、けど」


「そう。体調はもういいんだ?」


「……うん」


「行きたくないの?」



数日前、彩夏が座っていた位置に今、奏が座っている。テーブルには、食後のコーヒーが入ったマグカップが二つ。まだ湯気が上がっている。その湯気に彩夏とお粥を思い出す。そうして行き着くのは、やっぱり恋だった。

…行くことが怖いんじゃない。決して、恋に会いたくないわけじゃない。


頭の中だけで入り乱れて、口から出ていかない私に、奏はスマホを置いて、背もたれに体重を預ける。コーヒーをすする音がした。



「…何があったの」


「……、」


「彩夏からも連絡来たよ。心配してた」


「………うん」



あの夜。頬に伝った涙は、誰のものだったんだろう。触れた瞬間、肌は酷く熱かったけれどどっちのものだったんだろうか…。



「佐紀」



奏の強めの声が、名前を呼ぶ。分かってる。奏が無意味に詰め寄ることなんてない。

言うべきことじゃないと思っていた。けれど、このままではいられないのかもしれない。きっともう限界なんだ。

そんな言い訳をして、私は溜まりこんだ心をこぼす。



「……やだって言ってたんだ」


「………」


「やめてって言ってたのに、止められなかった…」


「……、」


「最近まで、夢に、恋が出てきて…、そういうことをし、…しちゃったり、とか……して」


「うん、」


「あの夜も、なんか、………」



言葉が続かない。喉が、引き攣るように痛む。泣いて逃げてしまいたい。でも、そんなことをする勇気も度胸もない。あまりに中途半端だ。



「なに?夢で見たから、襲ったとかいうわけ?」


「っちが!」



奏の言葉に、否定が先立つ。それでも、顔を上げた先の真っ直ぐな眼に言葉が詰まってしまう。なんでそんなこと言うんだ、そう思うのに、それこそが勝手だと、後ろから自分に指さされる。


――夢で見たから?だから、それに惑わされて襲った?


そんなの、最低だろ。でも、きっとそういうことなんだ。恋や他人はそう思うにきまってる。恋は夢のことなんて知らないから、熱にうなされて襲ったとかそんな風に思われているんだろう。…どちらにしても、最低なことに変わりはない。


大学に行きたくないわけじゃない。恋に会いたくないわけじゃない。恋に会うことが怖いわけじゃない。恋に、会えない現実に向き合うことが、もう二度と会えないことが、怖くてたまらないんだ。



「佐紀、」


「……、」



なんて、責め立てられるだろう。それでも堂々と否定することができない。それぐらい最低なことをしたと思う。



「何考えてるのか、ちゃんと言ってよ」


「!」


「そうやって溜め込んで考え込んで身動き取れなくなって、もう二度と会えなくなっていいの?」



そんな現実があるだろうと分かっていたはずなのに、いざ人に突きつけられると感情が揺さぶられる。分かってなんてないのだと、痛感する。結局逃げたくて、逃げたくて仕方がないんだ。



「取り返しのつかないことが、もっと後悔することが起きてるかもしれないんだよ」


「…え?」



含みを持たせる言葉に、心がざわつく。奏は私を見たまま言葉をつづけた。



「襲ったって、どこまでしたの、」


「え、」


「夢でしてたとして、実際はどこまでしたの」


「………抱きしめて、押し倒した、」



そして、その肌に触れた……。



「………、やだって言われたのに」


「……それ以外に、なんか言ってなかったの」



奏の言っている意味が分からなかった。でも何か意図をもって問いかけている感じがしたから必死に記憶を探る。けれど、脳裏に焼き付いているのは否定の姿だけだ。



「恋が佐紀になんて言ってたかよく思い出して。たぶんだけど、恋は佐紀のことを想ってたよ」



奏は優しいような、悲しいようなそんな顔をしてる。奏の言葉はさっきから、謎解きのヒントを出す言い回しをする。私は、自分の見つけた答えを手にしたまま、もうひとつの答えを探さなければいけなかった。けれど、自分の持つ答えが正解で。もうひとつ、別の答えを探し見つけ出すなんて出来なかった。




「………、わかんないよ。それしか、覚えてない」


「ほんとに?」


「……わかんないよ」



少しだけ、ぼやけた記憶に触れる。でも、掴むことは出来なかった。なにかは言われていたけれど、きっと奏のいう言葉ではないのだろう。



「…確かに同意なく触れたのは良くないよ。でも私は、」


「……」


「佐紀が触れちゃいけないなんてないと思う」



奏の落ち着いた声が響いた。責められて当然のはずなのに、その言葉に甘えていいわけがない。そう思うのに泣きそうになる。



「むしろ、佐紀しか触れちゃいけないんだよ。恋には」



奏は何を知っているんだろうと、疑問に思う。私の知らない恋を知っているんだろうし、私の自覚していない面を知っているんだろう。でも、きっと。奏の言うことなんてあるはずがない。触れていいわけなんてない。私だけが触れていいことなんてない。

私がどれだけ、恋を好いていたとしても恋が嫌だと言ったのならそれが事実なんだ。



「ねぇ、佐紀」


「……」


「大学行こう。佐紀は知らなきゃいけないことがある」



そこに一体何があるって言うのだろう。もう二度と、恋に会えない。そんな現実を知れとでも、言うんだろうか。

そんな私の思考とは反対に、奏が伝え続けてくれるヒントは別物の答えを導いてくれている気がしてどこか浮かれてしまいそうになる。

でも。そんなのは、それこそ浮かれていたんだと思い知らされたんだ。



翌日。私は奏と揃って大学に向かった。歩くうちに見える風景にも大して変わりはない。たった数日前の日常がなんだか懐かしかった。

大学に着いて、奏に知らなきゃいけないことについて聞いてみても、明確な答えはもらえなかった。



「とりあえず、講義受けよ。そんな急いでも分かんないから」



はぐらかされているのか、それともそれすら謎解きのヒントなのか。分からない。それがこんなにも心臓に悪いなんて知らなかった。交感神経が優先になって、でもソワソワして周囲に意識が散る。



「佐紀。行くよ」


「あ、うん」



言われるがまま講義に出席する。まばらに座る学生に混じり、間隔を空けて座る。奏は私の隣に座った。恋とは会えていない。それが知らなきゃいけないことだろうか。

講義が始まっても、大して面白みのある内容ではなくて。真面目そうな学生は前の方の席でノートを取っているけれど、私達の座る後ろ側の席ではぽつりぽつりと寝ていたりコソコソ話す姿がある。もしかして、恋がいるんじゃないか。そう思って前の席に目を凝らしたりもしたけれどそれらしい後ろ姿は確認できなかった。



「……、」



息をついて背もたれに体を預ける。奏はいつの間に突っ伏していて寝てしまっているようだった。それでなくても長い講義をこんな状態で真面目に受けられるほど勉学に励んでいるわけではなかったし、大学の課題を進めるのも気分じゃない。


そういうときって、嫌なことばかり考えてしまう。

恋は、今。どうしているんだろう。傷ついてひとり泣いていないだろうか。友人はいるとは思う。けれど、いま傍にいてくれる人はいるのかな。私のせいで、震えているかもしれない。

そんなことを考えて、自分の後ろに、どす黒く大きな渦が巻き、呑み込んでいく感覚に襲われる。胸が苦しくなって、痛い。でも気持ち悪いとも思う。罪悪感に溺れる感覚は、答えがなくて、逃げ道すら見つけられない。



「、奏」


「………」


「ごめん、ちょっと出てくる」



寝ているのか分からないけど、私の声に未だ沈黙の奏に一方的に伝えて、講義室を出る。廊下を早足で歩き、心臓を触られるような不快感に追われて、恋へ連絡しようとスマホを開き、手が止まった。



「………、」



なんて、言えばいい?『ごめん』って言えたらいいのだろうか、でもそれは、更に恋を傷つけることにならないだろうか?

だって、あの行為は確かに最低だったけれど、あの時の想いに、行為に。嘘はないんだ。『ごめん』って言葉が、あの行為を間違いだと熱に浮かされただけだと認めるようで、手は止まったまま、スマホ画面は自動で落ちた。それを再起動させることも出来ず、思考は止まってしまった。

廊下で立ち尽くしていたら、後ろから声がかかった。



『あ、佐紀じゃん』


「!、先輩…」



声に振り返ると、そこには同じサークルの先輩がいた。



『久々だね。元気?』


「風邪ひいてたんですけど、なんとか落ち着きました」


『風邪ひいてたの?大丈夫?』


「今はもう。全然」



自分の風邪なんて知らなかった。その事実に自分の存在の小ささを知る。知るわけない。当たり前のことに、少し恥ずかしくなった。



『良かった。だから恋も元気なかったのかな』


「…え?」


『ん?会ってないの?』


「今日は、まだ。」


「珍しい。いつも一緒にいるイメージ」


「そうですか?」



恋。元気ないんだ。やっぱり、私のせい…。



『付き合い始めたのも、知らない?さすがに知ってるか』


「—え?」



先輩の言葉に、真っ白になる。さっきまでの罪悪感の渦は、ご都合主義よろしく吹き飛んでしまった。私の顔に、先輩も驚いて、気まずそうに頭を掻いた。



「あー、ごめん」


「…付き合ってるって、…恋が?」


『…うん。』


「あ、せんぱーい。お元気でした?」


『!奏。久しぶりだね』



聞きたいのに聞いちゃいけない気がして、先輩も勝手に口にしてしまったことにやってしまったという感が溢れていた。先輩との気まずい空気を壊してくれたのは、奏だった。

私こそ気分は低いままだったけれど、先輩は逃げ道を確保したように、奏に向く。

先輩に挨拶をして、私を見る。奏はすぐ、今の状況を見抜き、先輩を突いた。



「あー、先輩。恋のこと言いましたね」


「…ごめん。まさか、知らなかったなんて」


「ちょっといろいろあったんですよ。風邪ひいてて、大学来るのも一週間ぶりくらいだし」


「そっか。ごめん、佐紀。こんなこと、私から言うなんて」


「…いや、そんな」



奏には、そういう狙いだったんじゃないかとか、先輩はいい人だなとか。そんなことを思うけど、私は笑うことしかできなかった。すごい愛想笑いだろうとは思ったけどそれ以上の対応なんて出来なかった。



「恋とは、ちょっと次いつ会えるか分からないけど、どんな人か聞かないとですね」


『…あ、』


「まあ、先輩。あとは、私が居ますんで」



奏と言葉を交わし、先輩は小さく手を振って離れていった。奏の方を見ると、わざとらしく笑っていた。私の愛想笑いより、たちが悪い。



「知らなきゃいけないって、これ?」


「まあ、半分くらいはこれ。で?恋に連絡できたの?そのために出て行ったんでしょ」



こいつ。私の思考でも読めているのか。もしくは、私が奏の術中にはまったのか。



「連絡、しようと思ったけどできなかった。謝りたいけど、謝ってどうなるのかとか、恋に触れた気持ちに嘘はないとか思って…。すごい、よね。傷つけたって思ってるのに、こんなに自分のこと繕いたくて。恋に、誤解されたくなかった。…でも、もうそんなの関係ない」


「…」


「恋は別に好きな人がいて、付き合ってる。なら、私はもう」



私はもう。その話題にすら触れず、近寄るべきじゃない。



「…失恋って、こんな呆気ないんだ」



静かに、いつのまにか、涙が零れた。こんな感情が追い付かないまま、涙が流れることなんてあるんだ。止める間もなく、感情に溢れてなんて事のない涙は、あまりに軽やかだった。

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