春は来れり雛まつり

綿雲

花より団子と言わないで

「いやじゃ。なんにもやりとうない」


鳥居の笠木にちょこんと腰掛けて、おひいさまは赤いほっぺたを膨らませた。着物の袖と金色のかんざしが、ひんやりした風にそよいで柔らかく揺れる。

幾日か前からずっとこんな調子だ。固く閉じたつぼみのようにつんとした横顔に、わたしはめげずに声をかけてみる。


「おひいさま……そう駄々をこねてはいけませんよ。年に一度の大切なお勤めではございませんか」

「いやといったらいやじゃ!ここいらも姉上たちにまかせておけばよかろう」


ぽっくりを履いた華奢なおみ足をばたつかせて、まるきり子どものようだ。わたしは苦笑いで応えるほかない。人任せにはできないこと、わたしより誰よりおひいさまがいちばんよくわかっていらっしゃるはずだ。


「まあまあ、そうおっしゃらず。このままおひいさまのお勤めなしでは、わたしも皆もかないません。それにあなたのやる気の源は、きっともうすぐ届けられますから」

「うるさいうるさい!このわらわを餅なんぞで釣られる単細胞かのように言いおって!」


しまった、逆効果だったかもしれない。この時期になると毎年、ここの住人たちが届けてくれる桜餅。きっとあれがなかなか来ないので、痺れを切らしているのだと思ったのだが。


「ああ、申し訳ありません、そのようなつもりでは……。雅を愛するおひいさまのことです、もしや、今年はまだお雛様をご覧になられていないのがご不満なんでしょうか」


この家族は毎年それは立派な雛人形を飾る。おひいさまはそれがお気に入りらしく、毎年この木の上からよく眺めていらっしゃるのだ。

けれどもおひいさまは梅花の如きくちびるを尖らせたまま、じとりとわたしを睨め付けている。


「それも…ちがう!確かに重要なことじゃが、いちばん肝心なのは…」


言いかけたおひいさまは、急にぐいと前のめりになって地を見下げた。鳥居から落っこちてしまう、ぎりぎりのところまで身を乗り出して、見ていたものは境内を歩む2人の巫女。


「ああ、ようやっと来てくれましたね。おひいさま、ほら」

「み……見えておるわ!まったく」


暢気なものじゃのう、とぶつくさ言っているおひいさまだけれど、笑みが抑えきれていない。楽しげに言葉を交わしながらこちらへ向かってくる巫女たちは、この神社に仕える母娘だ。

手に持っているのは、漆塗りの台に乗った食器と、千代紙で折られた小さな雛人形。しずしずと木の根元にそれを置くと、2人の巫女は厳かに両手のひらを合わせ、こうべを垂れた。


「はあ、今年は遅くなっちゃった。あとはお雛様を出したら、準備は整ったかしらね」

「ねえお母さん、なんで向こうにあんな立派な雛飾り出してるのに、こっちにもわざわざお供えするの?これも可愛いけどさ、こんな折り紙じゃ、逆に失礼なんじゃない?」

「全くこの子ときたら。こういうのは本来行事ごとに人の手で願いを込めて作られてきたんだからね。気持ちが大事なのよ」

「まあ、それもそっか。手作りは形より愛情だよね」

「わかったようなこと言っちゃって。来年はもっと上手く作らなきゃね」


母娘は笑い合いながら、背を向けて石畳を戻っていく。おひいさまはそれをじっと眺めていた。

神饌の桜餅や甘酒と共に盆に乗っているのは、若草色と薄桃色の美しい蝶の柄が入った和紙の飾り。春を愛する気持ちのこもった、手作りの流し雛だ。


「形も大切にせんか。今年のは不細工じゃぞ」

「許してやってくださいな。今年は初めて、あの娘が作ったみたいなんですよ」


そう聞くと流し雛を見つめ直して、それからぷいとそっぽを向くと、やっぱり不細工じゃ、とおひいさまは言った。横顔はほんのり紅く染まっている。

生まれた時から見守っている子の成長が、よほど嬉しかったのだろう。拗ねていたのは、今年はなかなかお参りに来なかったからだったのかしら。


「しかし、この餅だけは毎年よいものじゃ。許してやってもよい」

「あら、餅にご興味はなかったのでは」

「そ、そうは言っとらん!食べるに決まっておろう!」


いつのまにか手に握られている桜色の餅にかぶりつき、満面の笑みを浮かべている姿は実に幼女然としている。けれど、おひいさまは一体おいくつになられるのだろうか。私よりもうんと歳上なのは理解しているつもりだが、どうも幼な子を相手している気分になってしまう。


「あ、ほら、おひいさま!雛人形も出すようですよ」

「おお!まことか!」


窓ガラス越しに見える雛壇に、錦の着物を着せられた人形がずらりと並ぶ。緋色の唐衣。金銀の刺繍。立派な玉櫛。ぼんぼりにぽっと明かりが灯って、人形たちの白い肌を桜色に染めた。

おひいさまは満足そうに頷き、お猪口から甘酒をちびちびと呑みはじめる。どうやらご機嫌を直していただけたらしい。花の季節はまだなのに、甘酒の上には桃の花びらが何枚も浮かんでいた。


「……食って呑んだからにはしかたがないのう。いっちょやるか」


おひいさまは鳥居の上で立ち上がる。重力を無視したその春風の如き立ち振る舞い。ぽっくりがふわりと笠木を離れると、木のてっぺんまですうっと飛び上がる。

太陽を背に、万華鏡のように輝く光の粒を散りばめて、一瞬おひいさまの姿が眩む。光の輪が波紋のように広がっていくと、ぱん、と植物の種子が弾けるかのように霧散した。たちどころに春の香りが立ち込める。花の蜜の沈香。むせかえるような甘い土の香気。頭を擡げる若芽の瑞々しいにおい。

光を纏い、おひいさまの姿が淡い桃色にきらめく。結えていた黒髪がさらさらと広がって、彼女自身が大輪の花のようだった。


「さあ、どうじゃ!」

「見事にございます、おひいさま。素晴らしい仕事ぶりです」

「ふふん!まあ当然じゃな、流石はわらわ、麗しき春の神の末妹よ!」


自信満々にふんぞりかえって、にこにこするおひいさまは、神の御身とはいえやはり愛らしい。わたしも嬉しくなって、どんどん誉めそやしたくなってしまう。


「そうですとも。おひいさまと同じく、各地を巡っておられるお姉様方もきっと、とっても褒めてくださいますよ」

「ふ、ふん!知ったような口をきくでないわ!」


そう言いつつも、頬は染まって口元が緩むのを抑えきれていない。不安はあったのだろけれど、毎年初仕事を終えてしまえば、もう大丈夫だ。さっきとは打って変わって、その瞳は朝日を浴びる露のように煌めいている。

色とりどりのあられのように、ぱらぱらと残光を振り撒きながら、おひいさまは地へと降りてくる。わたしの肌をひと撫ですると、満足そうに頷いた。


「よいよい。やはり我ながら上出来じゃ。今年も美しく咲くのだぞ、桜よ」

「もったいないお言葉でございます。おひいさまのご期待に添えますよう、精進いたします」


おひいさまはひとつ頷いて、紙製の流し雛を手に取ると、小さな手にそっと握った。おひいさまはこの人形と一緒に旅に出る。冬を引き受けて、春を咲かせる旅。草木に、大地に、ひとびとに、そしてこのわたしにも。いまの儀式はその第一歩だ。


「おひいさま、どうかお気をつけて。どうぞゆっくりと、お進みくださいね」

「馬鹿を言うでない。わらわにかかれば、こんなもの稲妻の速さで終わらせてくれるわ!」


春は近いぞ、と歌うように言うや否や、おひいさまは力強く渦巻く春一番とともに、青い空を駆け抜けていった。相変わらず忙しなくて、やっぱり暖かいお方。思わず笑みが溢れた。

彼女の旅が終わる頃、わたしの花も開くだろう。その頃にはきっとここへお帰りになって、次はお団子でも食べられるかしら。

わたしは地から己の身を振り仰ぐ。いちばん太陽に近い枝先で、まあるい大きなつぼみが膨らんでいた。


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春は来れり雛まつり 綿雲 @wata_0203

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