迷子の指針

@offonline

第1話

 画面の向こうの女――アバター名「白蓮」は笑っていた。

 その笑みは、なめらかなはずのデータの下で軋むように歪んでいた。


 イツキは眠気を払うように舌打ちをした。

 いつの間にか居眠りをしていたようだ。

 だが、没入型でもない旧式のパソコンは勝手に起動し、見知らぬアバターの配信が再生されている。

 本来なら、外部操作を検知してセキュリティが跳ねるはずだ。


「……妙な拾い物でもしたか?」


 沈黙したままのセキュリティに文句を言いながら、画面端で点滅するアイコンに目をやる。

 御堂が作った補助AIだけが、微かに赤く瞬いていた。


「仕事の依頼ってわけでもないな……」


 ログは生成されていない。だが、何かを検知している。

 イツキは息を呑んだ。

 眠気が吹き飛ぶ。

 

 パソコンの画面から、熱気がじわりと滲み出るようだった。

 高負荷でファンがうなりを上げているわけでもない。ただ空気が震え、歓声のような圧がイツキを叩いた。

 観客席のアバターは影の群れと化している。にもかかわらず、白蓮だけが、画面の向こうから一歩踏み出してくるようだった。


 その笑顔が、引き金だった。

 無理をして笑った、あの夜の姉と重なる。

 振り払った手の感触だけが、今も焼き付いている。

 

 気づけば指がキーボードを叩いていた。乾いた打鍵音が、静寂を裂く。


『幽世案内人のイツキだ。用があるなら、呼べ。戻れなくなるぞ』


 文字化けしたコメントの奔流が画面を流れていくが、それはほとんど意味をなさず、黒いもやのように視界を濁らせるだけだった。だが、自らが打ち込んだ一文だけが、確かな意味を持ってそこにあった。

 届けと、願う。その予感が胸の奥で熱を帯びた――目に見えない力が、誰かの視線をこちらに引き寄せているようだった。


「現実にいる俺と繋がった……なら、まだ帰る気があるだろ」


 画面に食い入る。彼女の、わずかな揺れも見逃したくなかった。部屋の明かりが、宵闇に浮かぶ机の上だけをくっきりと浮かび上がらせる。


 ヘッドフォンもスピーカーも繋がっていない。だが、声は音を介さず、意識そのものに直接触れてきた。

 イツキの経験が、観客として取り込まれるなと警告していた。


「毒……麻薬だよ」


 思わず呟いていた。苦虫を噛み潰したような顔で、画面に向かって言い放つ。


「それが、お前が選んだ世界なのか?」


 そのときだった。彼女の声が、まるで返答するように響いた。


【こんな――ところに居たらダメだよ】


 諦めを帯びた声に、胸の底を引っ張られる。白蓮を通して、忘れようと足掻いていた過去が語りかけてくる。どうしようもない焦燥が、イツキを追い立てる。


「だったら、とっとと戻ってこい。何を善人ぶってるんだ!」


 彼女は、歌い続けている。だがその顔は変わっていた。

 アバターの仮面が、ゆっくりと剥がれていくようだった。

 安らかとすら思えるその表情が、かえってイツキを苛立たせた。


「なんで、そんな顔ができる……くそっ!」


 イツキは頭を掻きむしる。次の瞬間、パソコンがパチ、と音を立てて暗転した。


「……白蓮(びゃくれん)か?」


 立ち上がりながら、イツキは悪態を吐く。


「今日の仕事でイラついてたってのに……」


 だが、その声にもう迷いはなかった。


「絶対に、助けてやる」


 その言葉は、まるで自分に課した呪い。誰よりも、自分自身に向けた誓いだった。

 だが、この呪いを遂行するには、あの男の力が必要不可欠だった。


「……御堂」


 その名を口にした瞬間、決意とは裏腹に、ずしりとした疲労が全身にのしかかる。

 日中に請け負った案件が思い出される。

 助けられて当然だと信じ切った、傲慢なあの男の顔が。

 

 イツキの足は、古民家の軋む廊下の先――御堂のいる奥座敷へと、自然に向いていた。

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