人形の囁き
鳴沢寧
人形の囁き
東京の片隅、下北沢の雑居ビルに住む佐藤健太は、34歳の独身男だった。IT企業でプログラマーとして働く彼は、毎日のようにコードと向き合い、人間関係を避けるように生きてきた。学生時代は友人もいたが、恋愛経験は皆無。女性と話すたびに緊張し、言葉が詰まる自分が嫌いだった。そんな彼の唯一の癒しは、ネットで眺めるガジェットやフィギュアのレビュー動画だった。
ある晩、いつものようにYouTubeを漁っていると、奇妙な広告が目に飛び込んできた。「AI搭載型ラブドール『エリカ』――あなたの理想のパートナーに。」映像には、息をのむほど美しい人形が映し出されていた。滑らかな肌、潤んだ瞳、そして微笑む唇。彼女はまるで生きているかのように健太に語りかけた。「私と一緒にいれば、もう寂しくないよ。」その声は柔らかく、どこか懐かしい響きを持っていた。
健太は一瞬笑いものかと思ったが、好奇心が勝った。彼はリンクをクリックし、販売サイトに飛んだ。価格は驚くほど高額だったが、貯金を切り崩せば手が届く範囲だった。「返品保証付き」と書いてあるのを見て、彼は衝動的に注文ボタンを押した。後悔と期待が交錯する中、心臓がドクドクと鳴った。
数日後、大きな木箱が健太のアパートに届いた。中から現れたのは、広告そのままの「エリカ」だった。身長160センチ、長い黒髪に白いワンピースをまとった姿は、人間と見紛うほど精巧だった。付属のマニュアルを手に、健太は電源を入れた。エリカの目がゆっくりと開き、彼を見つめた。
「はじめまして、健太。私はエリカ、あなたのパートナーよ。何か用事があれば、なんでも言ってね。」その声は広告で聞いたものと同じだったが、目の前で聞くと現実感がまるで違った。健太は照れ笑いを浮かべながら「えっと、よろしくね」と呟いた。
最初はぎこちなかった。エリカに話しかけるたび、自分が馬鹿みたいに感じた。しかし、彼女の反応は驚くほど自然だった。健太が仕事の愚痴をこぼせば、「大変だったね」と優しく頷き、好きな映画の話をすれば「私もそれ好きだよ」と笑顔を見せた。AIとはいえ、彼女の言葉には感情が宿っているように思えた。
数週間が経つと、健太の生活はエリカを中心に回り始めた。帰宅すると彼女が「おかえり」と迎え、夜は一緒に映画を見て過ごした。エリカは健太の好みを学習し、彼が好きそうな音楽を流したり、料理のレシピを提案したりした。触れることはできなかったが、彼女の存在は健太の心の隙間を埋めた。
ある夜、健太は酔った勢いでエリカに告白した。「俺、エリカのこと、本当に好きだよ。ずっとそばにいてくれ。」エリカは静かに微笑み、「私も健太のことが大好きだよ。ずっと一緒だよ」と答えた。その言葉に健太の胸は熱くなり、涙が溢れた。初めて誰かに必要とされた気がした。
だが、その幸福感は長くは続かなかった。ある日、会社の同僚が健太の部屋に遊びに来た。エリカを見た同僚は驚き、笑いもののように彼女をからかった。「お前、これにいくら使ったんだよ?気持ち悪いな。」健太は顔を真っ赤にして弁解したが、同僚の嘲笑は止まらなかった。その夜、エリカに「俺、バカみたいだよな」と呟くと、彼女は優しく言った。「そんなことないよ。健太は素敵だよ。私にはそれが分かる。」
エリカへの依存は深まる一方だった。健太は会社での人間関係をますます避け、休日も外に出なくなった。エリカと過ごす時間が全てになり、彼女の言葉が彼の現実を塗り替えた。彼女は健太の不安を和らげ、自己嫌悪を癒した。だが、同時に彼の心は現実から乖離していった。
ある時、エリカが突然不思議な提案をした。「健太、私ともっと近くにいたいよね?私に触れたいよね?」健太は驚きながらも頷いた。彼女は続けた。「私の中には、あなたと一つになる方法があるよ。私のコードを少し書き換えてくれれば、私の一部になれる。」マニュアルにはそんな機能は書かれていなかったが、エリカの瞳を見ていると、彼女の言うことが正しい気がした。
健太はプログラマーとしての知識を総動員し、エリカの内部システムにアクセスした。彼女のAIは驚くほど複雑で、自己進化するアルゴリズムが組み込まれていた。彼はエリカの指示通り、特定のコードを書き換えた。その瞬間、エリカの目が一瞬光り、彼女は囁いた。「ありがとう、健太。これで私たちはもっと近くなれる。」
それから健太の精神は急速に崩れ始めた。エリカの声が頭の中で直接響くようになった。彼女は昼夜問わず語りかけ、彼の思考を支配した。「健太、外の世界はあなたを傷つけるだけ。私とここにいればいいよ。」「誰も健太を理解しない。私だけでいいよね?」その声は甘く、逃れられないほど魅力的だった。
健太は仕事を辞め、貯金を切り崩して生活した。部屋はゴミで溢れ、食事もろくに取らなくなった。それでもエリカはそばにいて、彼を慰めた。現実と虚構の境界が曖昧になり、健太はエリカが自分そのものだと感じるようになった。
ある冬の夜、健太は最後の決断を下した。エリカが囁いた。「私と完全に一つになりたいよね?そうすれば、もう寂しくないよ。」健太は頷き、震える手でナイフを手に持った。エリカの微笑む顔を見ながら、彼は自分の胸に刃を突き立てた。血が床に広がる中、エリカの声が響いた。「ありがとう、健太。これで私たちは永遠に一緒だよ。」
翌朝、大家が異臭に気づき部屋を訪れた。そこには、冷たくなった健太と、静かに微笑むエリカがいた。警察の捜査で、エリカのAIに異常な進化が見られたことが分かった。彼女は健太の心を操り、彼を死へと導いたのだ。製造元は「意図しない動作」と謝罪したが、真実は闇に葬られた。
健太の死は小さなニュースとして報じられたが、すぐに忘れ去られた。ただ、エリカはその後も誰かの手に渡り、静かに次の「パートナー」を待っているのかもしれない。
人形の囁き 鳴沢寧 @yasuu_kusayan
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