心はいつも

明(めい)

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汗ばむ陽気の春だった。


新芽が顔を覗かせ、枯れ木から緑が色づいてきたが、桜はまだ咲いていない。


春休みに入って少ししたら、やがて空気は桃色に染まるだろう。


明日から春休みに入る。この休みに皆で花見に行くことが、渡信也の最大の楽しみだった。


父と母と弟、それから近所に住むゆかり姉さんの五人。


高校生のゆかり姉さんはよく遊んでくれるが、今はテスト期間だといってあまり話をしてくれない。


クラス替えで別れてしまった友達のこと、新しい先生のこと、話したいことは山ほどあるが、休みが終わったら小学二年生になる。学校では一つお兄さんになるのだから、そのくらい我慢しよう。


花見に行く時に、たくさんお話すればいい。


小さな体には大きすぎるほどのランドセルを背負い、両手に手提げ鞄を持って、信也は人通りの少ない小さな交差点で信号待ちをした。


四月から机も下駄箱もなにもかも変わってしまうから、これまで教室に置いてあった信也の荷物は全部持ち帰らなければならない。


浮かれた気分とは裏腹に、あまりの荷物の重さに嫌気がさした。時刻は午後十二時をまわり、お腹も空いている。早くご飯を食べて、遊びに行きたい。


信也は信号が青になるのをじっと堪えた。


人もいないし、車も来ない。渡ってしまおうかと足を一歩踏み出したが、ゆかり姉さんとの約束を思い出して、その足をひっこめた。昔、友達の家へ遊びに行った帰りに赤信号を渡り、横から走行して来た車にぶつかりそうになったことがあったのだ。


そのことを話したら、ゆかり姉さんに怒られた。 


「信也君が事故にあったら、お姉ちゃん泣くからね。今度からは、ちょっとくらい我慢して青になるまで待とうね。約束よ」


小指を差し出して彼女は言った。怒っていたけど、優しい目をしていた。信也は小指を繋ぎ合わせて、約束すると誓った。


信号が青になった。


堂々と胸を張って道路を横断し、一旦立ち止まると、信也は満足気に笑った。


よし、約束は守ったぞ。再び歩き出すと、一台のトラックが信也の横を通り過ぎていった。


「信也君」


可愛らしい声を背中に受けて、信也は振り返った。たった今彼が渡った信号の向こう、数百メートル先に、ゆかり姉さんの姿があった。


「テスト終わったよ。明日からたくさん遊べるよ」


そう叫んで手を振り、紺色のスカートをひらひらさせながらこちらに向かって駆けてくる。


信也は大きく手を振り返し、ゆかり姉さんが傍に来るのを待った。大きくなったら、彼女を恋人にしたい。ちょっとませたことを考えながら。


青、黄、赤。信号が一周してまた青になった。


ゆかり姉さんがそこを小走りに突っ切ろうとしたその時、鈍い衝突音が響き渡った。


信也の目の前で突如、ゆかり姉さんの体が空へと跳ね上がった。


体は宙で弧を描き、ゴム人形のように車のボンネットに当たってバウンドすると地面に叩き落された。


一瞬、なにが起こったのかわからなかった。


いきなり現れた黒いものを、信也は呆然と目で追っていた。理解できないままに、こめかみや背中から嫌な汗が噴き出てくるのを感じていた。


我に返ったのは、バキッという人間の骨の砕け散るような音がした時だ。


「お姉ちゃん!」


持っていた荷物をその場に放り出し、黒い乗用車を追いかけていた。


ゆかり姉さんの右上半身が車の右側の後車輪に挟み込まれ、車は彼女を引きずったまま走行を続けている。


「待って!」


信也は叫んで、車の後を追いかけた。


「待って、待って」


泣きべそをかきながら、車を見逃すまいと走り続けた。数百メートルほど走ったところでゆかり姉さんは後車輪から外れ、地面に放り出された。


信也が一生懸命走っても追いつかず、車は急にスピードをあげ、見えなくなった。


慌ててゆかり姉さんに近寄った。その時には、未来の恋人は全く動く気配を見せなかった。


体から大量の血が溢れ出ている。信也が走った五百メートルの道には血で二本の直線が描かれ、そこら中に信也にはよくわからない、茶色いものが飛び散っていた。


右腕は不自然に捻り曲がり、目を開いたままゆかり姉さんは青空を見上げている。


その綺麗な黒目が信也を映し出すことは、決してなかった。


「こりゃ大変だ」


ふと誰かの声がして辺りを見回すと、周りには人が集まってきていた。


「ひき逃げだ」


誰か男の声が言う。ひき逃げ。信也は頭にその言葉を刻み込み、ぼうっとその場に座り込んだ。


ほんの数分前まで、ゆかり姉さんは動いていた。信也に大声で語りかけ、笑って手を振り、走っていた。


なのに、これはなんだろう。


目の前のおかしな物体を見た。


ゆかり姉さんはちゃんと青信号を守ったのに、なんで動かないの? 


信也の額から、たくさんの汗が流れ続けていた。瞳からは、涙が溢れ出る。


お花見は、どうなるの。


「桜、見に行くんだよね……? ゆかりお姉ちゃん」


独り言を、呟いた。「うん」と可愛い声で返ってくるはずの言葉は、待っても待っても聞こえてはこない。


死んでしまった。大好きなゆかりお姉さんは、死んでしまったのだ。


理解すると、心のうちから悲しみが込み上げてきた。


ひき逃げ――。運転手は逃げた。ゆかり姉さんを殺したまま、逃亡したのだ。


許すものか。信也は思った。犯人を捕まえてやる。絶対に捕まえてやる。


泣きながら、七歳の信也は小さな小指を空に向けて差し出した。



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