四つ葉のクローバー(5)

 抗えない眠気に襲われて布団の中へと入る。たった半錠なのに薬の効きが前と変わらないような気がする。食欲は相変わらずで、薬を飲むために最低限の量を喉に流し込む感じだ。薬のせいでむしろ吐き気が増した気がする。昔から吐くという行為が苦手で、いつも気持ち悪くてもなにかを吐き出すところまではいかない。それが今は逆に悪さをしていて、吐き出すことができたら少しは楽になりそうなものなのにと思う。このままどうにかなってしまうのだろうか。そんな不安に頭を支配されそうになる頃に記憶がなくなった。

 次の日の日曜日はほとんどを布団の上で過ごした。部屋から出るのは食事のときくらいで、それもばあちゃんがわざわざその時間に部屋まで起こしにくる形だった。薬のせいで日中ですら睡魔に襲われる。たまに目が覚めても気分が悪いだけだし、自然と身体が布団の中にいることを選ぶ。夕食のときにばあちゃんが「そんな調子で明日から大丈夫なのか」と聞いてきた。わからないとしか答えられなかった。ただ、それに対して「いつもの時間に起きてこなかったら、部屋まで起こしにいくわね」とだけ言ってきたばあちゃんのこの距離感がありがたかった。

 症状を良くするために薬を飲んでいるはずなのに、薬を飲む前よりも食欲が減退している。腕や身体が細くなったのを感じても自分にはどうにもできなかった。

 今夜も不安が頭を埋め尽くす中で目を閉じる。随分と後退してしまったなと思う。閉じた目の隙間から涙が溢れて目尻の方へと流れていく。それがいつ止まったのかわからないくらい薬のせいで気絶するように眠っていた。

 翌朝もばあちゃんの声で目が覚めた。

「新しい薬、飲まないほうがいいんじゃないの」

 食後に半錠の薬を飲もうとしているときにばあちゃんに言われた。

「勝手にやめるのはよくないと思うから。この薬を飲んで今日一日を過ごしてみて、なにか支障があったら病院にどうしたらいいか電話してみるよ」

 その言葉にばあちゃんが不満そうに片眉を下げた。たった半錠でも日常生活に支障をきたすほどの眠気と気分の悪さを鑑みると、やっぱりこの薬は自分に合わないのだろうなと思う。それでも担当医が処方してくれるのだから、自分に良い効果を期待したい。薬を飲むとやはり気分の悪さが増して、家を出るのがギリギリになった。

 学校に着いたのは朝自習が始まる五分前だった。今日は保健室に寄らずに直接教室へと向かう。廊下側の一番後ろにある自分の席に着く。相変わらず気分は悪い。少しでも気持ちを落ち着かせようと机に突っ伏そうとしたときだった。

「立山、おはよ」

「……おはよう、小野田」

 文化祭以来、初めて小野田から挨拶をされた。顔を上げて姿勢を正す。

「この前はごめんね、電話んとき。なんか一方的に切っちゃったし、態度良くなかったなーって反省した」

「いや、別に」

「あたし、バイト始めて忙しくなったし、立山に話しかけることも少なくなって、そういうのが急に立山の眼鏡を変えることにも繋がってたよね。それは本当にごめん。もしよかったらなんだけどさ、今日のお昼一緒に食べようよ。話したいこともあるし」

 話したいこととはなんだろう。今この場でそれを聞く勇気がなくて頷くだけにした。頭の中がぐるぐると回る。すぐに頷かなければよかったと後悔した。小野田が「じゃあ、約束!」と目の前で笑う。その笑顔に懐かしさを覚えた。

「てか、立山顔色悪くない? なんか前より痩せた気もするし、大丈夫?」

「大丈夫」

 この前からずっと大丈夫じゃない大丈夫を積み重ねている。心がだいぶ重苦しくなってきた。朝自習開始のチャイムが鳴る。じゃあ、と小野田が自分の席へと戻っていった。

 配られたプリントをさっさと解き終えて机に突っ伏す。周りの騒がしさに負けないくらい自分の心臓の音が大きく鳴っていた。不安が頭を占めていく。小野田は昼休みになにを話すつもりだろう。今さらなにを話すつもりだというのだろう。

 嫌な考えが頭に浮かんでくる。頭の中でガタイの良い男が小野田の方に手を回す。見つめ合って微笑み合って、そして小野田がこちらに向かって口を開く。そこから発せられる言葉は自分が一番聞きたくないことだ。でもそれは一番可能性がある想像だった。

「嫌だ……」

 誰にも聞こえないくらい小さな声で、突っ伏した机に向かって吐き出した。

 お腹がかき混ぜられるような感覚で一二時間目を過ごした。と言っても、授業中は薬のせいで珍しく眠ってしまったから記憶がほとんどない。薬の副作用と昼休みを迎えたくない気持ちが混ざり合って昨日よりも体調が悪い。

「おい、お前具合悪いんじゃねーの。今日ずっと寝てんじゃん」

 三時間目が始まる前、隣の席の男子に声をかけられる。その人の言うとおり気分は最悪だった。鼻から息を吐き出して席を立つ。

「保健室に行ってくるから先生に伝えておいてほしい」

「おーう、一緒行くか?」

 その言葉に首を横に振って、ひとり静かに保健室へと向かった。保健室へ入ると、養護の先生がこちらを見て「あら」と声を出す。

「今朝寄っていかなかったと思ったら、合間に来るなんて珍しいね。具合悪くなっちゃった?」

「ええまあ、そんな感じで……少しベッドで休んでいってもいいですか」

「構わないよ。ベッドどっちも空いているから好きな方を使って」

 会釈をしたあとで来室カードへ名前と理由を記入していく。二人掛けのソファに腰掛けながら、去年の夏を思い出す。具合が悪くなってここで休んでいるときに小野田が勢いよく扉を開けて入ってきたんだっけ。大丈夫⁉︎ と声をかけられて、そのあと唐突に告白された。今になってたまらなく恋しい状況だ。恋しくて恋しくて、とても苦しい。

「なにかあった?」

大きな机を挟んで真向かいの椅子に座っている先生がこちらを見つめる。

「土曜日に病院に行ってきて追加で薬を処方されたんです。それがどうも身体に合わないみたいで……。この病気になり始めに処方された薬の半錠なんですけど、量が減っても駄目みたいで、抗えない眠気と吐き気による食欲減退に悩まされています」

「たしかに少しこけたように見えるね。体重は測ってる?」

「いえ」

「見た目だけでわかるくらいだから、相当体重が落ちてそうよ。日常生活に支障があるなら、薬を飲むのをやめてもいいかもしれないね」

「今日家に帰ったら病院に連絡してみようと思います」

 俺の言葉に養護の先生が頷いた。来室カードの記入を終えてベッドへと向かう。二台あるベッドのうち、窓際にある方を選んだ。布団へもぐる前に黒縁の眼鏡を外して枕元に置く先生がベッドの周りを囲むようにクリーム色のカーテンを閉めてくれた。

 息を吐く。心臓が速く動いている。首の脇に指先を当てると、どくどくと速く脈が鳴っていた。できるだけ呼吸の吐く方に意識を向ける。昼間にこうして明るいところで目を瞑る方が安心した。カーテンの外から養護の先生がカタカタとパソコンのキーボードを叩く音が聞こえる。それも今は嫌ではなかった。

 カーテンが開く音がする。養護の先生に「立山くん」と声をかけられた。

「よく寝られた? あと五分で三時間目が終わるけど、どうしたい? 授業に出るか早退するか」

 身体を半分だけ起こす。制服のポケットに入れたスマートフォンを確認すると、養護の先生が言ったとおりの時間が過ぎていた。

「立山くん、去年と違って今年結構頑張っていたから、今日これからの授業を休んだくらいで進級には響かないと思うけど」

「……帰ろうかな」

 ぽつり、こぼれた。

 お昼休みに小野田と顔を合わせるのが怖いという本音がそんな言葉を生んだ。養護の先生が「わかった」と言って、再びカーテンを閉める。

「担任の先生に話して、あと荷物を持ってきてもらうようにしておくね」

 先生が保健室を出ていく音がする。ひとりになった保健室に三時間目の終わりを告げるチャイムが響いた。

 徐々に廊下が騒がしくなっていく。それも五分も経てば静かになった。再びチャイムが鳴り響く。それと同時に養護の先生が保健室へ戻ってきた。

「担任の先生には伝えておいたよ。あとはお友達が荷物を持ってきてくれるみたいだから、それまでここで休んでて」

「はい、ありがとうございます」

 そう言ったところで再び保健室の扉が開く音がする。誰かが自分の荷物を持ってきてくれたのかと思ったけど、そうではなかった。男の体育教師の声がする。養護の先生と一言二言言葉を交わしたあとで、二人とも保健室を出ていった。

 静かな保健室でひとり、ベッドに寝転ぶ。目の前に広がる白い天井になにやら模様が描いてある。丸にも線にも見える、そんなへんてこなものだ。目を瞑ると黒のキャンバスにそれらの模様が浮かんでくる。そのうちそれらの模様が消えて、瞼の裏は黒一色になった。

 昼休みに小野田と話さなかったら、これからもっと気が重くなるということはわかっている。それでも自分は目の前の問題から手っ取り早く逃げる選択をした。真っ黒なこの世界にひとり残ることを決めたのだ。

 きっと自分はこれからもひとりなのだろう。この身体になってから、煩わしい人間関係に心を乱されるくらいならひとりの方がましだと思っていた。友達なんかいらない、必要ない。そんな自分が小野田と出会って、そしてそのうち彼女に恋をした。でもその想いはどうやら一歩遅かったらしい。

 真っ黒な世界に無駄な想いを抱えた自分がひとり立っていた。両手を横に広げる。鼻から一つ息を吐き出す。大丈夫。足元から徐々に黒の中へ飲み込まれていく。瞬く間に下半身は黒に染まった。もうそこからは動けない。これでいいと思ったとき、鼻の奥がズキズキと痛みだした。誰もいない真っ黒な寂しい世界の中で、一つ白い光が見えた気がした。

 その瞬間、保健室の扉がものすごい音をたてて開いた。驚いた勢いで身体を半分起こす。眼鏡をかけながら扉側のカーテンを見つめる。今度こそ誰かが荷物を持ってきてくれたのだろう。目の前のカーテンが勢いよく開けられる。先ほどとは正反対の白の世界が広がる。その真ん中に小野田が立っていた。

「立山、具合悪くなったの⁉︎ 大丈夫⁉︎」

「大丈夫──」

 そう言いかけて、眼鏡の向こう側がぼんやりとにじんだ。誤魔化すように急いで布団を頭まで被る。溢れた涙は止められそうもなかった。

 小野田が白く光り輝いて見えた。真っ黒な世界に飲み込まれそうになった自分を照らしてくれるのは、やはり小野田なのだと気づいてしまった。その光に照らされて、先ほど半分黒に飲まれた自分まで白くなれる気がした。じんわりと心が温かくなっていく。それは自分が待ち望んだ光だった。

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