四つ葉のクローバー(4)

 最悪の状態で次の日を迎えた。ご飯は一口も食べられなかったし、一睡もできなかったせいで頭痛がひどかった。病院へ向かう車の中で母親に顔色が悪いことを指摘された。身体が小さくなったとも言われ、最近食欲がないことを正直伝えると泣きそうな顔をされた。

「本当にごめんね。こんな身体に産んでしまって……」

「別に母さんが悪いわけじゃないから」

 パニック障害だとわかってから、母さんはたまにこんなことを言った。そのたびに自分は今と同じような返しをするしかなかった。こうなった原因がそもそも特定できるものではないから、誰が悪いということはない。もちろん自分も悪くないと思う。誰かのせいにして元に戻ることができるならいいけど、そういうことでもない。そう考えるとこんな会話は本当に意味がないなと思う。

「できればもう二度とそういうことは言わないでほしい」

 気分がすぐれなくて、今日はそんな余計なひとことを添えてしまった。でもいい加減鬱陶しかった。自分は自分なりにこの状態を受け入れようとしているから。これに慣れていくしかないのだから。

 ときに人は考えてもどうにもならないことに理由をつけたがるし、原因を探そうとすることがある。それでも自分はこうなってしまったことの原因全てを母さんに背負わせようなんて思わない。こんな言葉を言わせてしまうことがあるなら、離れて暮らしていてよかったなと思った。

 診察が終わって会計窓口の隣で薬を受け取る。受け取った袋の中身がいつもよりも重い。一日二回、朝と夜に飲む薬が一種類増えた。二年かけてようやく飲む薬が頓服一つになったのに、逆戻りみたいになったことが悲しい。増えた薬はこの病気になって最初の頃に処方された薬で、その際合わなかったということを伝えると、今回は一回半錠のみの処方となった。重い足取りで病院の自動ドアを通る。そのまま駐車場に向かう気になれず、ふらふらと中庭にある花壇の方へと向かう。なにも植えられていない花壇のそばに置いてあるベンチにひなたちゃんが座っていた。

「こんにちは」

「あら、仁くん。こんにちは」

 隣に腰掛けながら溜息をつくと、ひなたちゃんがこちらを覗き込むように「どうかした?」と聞いてきた。

「薬が一つ増えたんだ」

「あらら、そうだったんだね。それは大変だ」

 それ以上踏み込んでくる様子のないひなたちゃんに安心する。この極端に重くも軽くもない返しも今の自分にとってはありがたかった。

「さすがに冬が近くなってきたから、なにも植えられていないね」

 土だけが残された花壇を見つめながら、ひなたちゃんが手に持っていた本を閉じて膝の上に乗せる。不意に見慣れた表紙が目に入った。それは自分が一年以上読み込んだ花言葉の図鑑と同じものだった。

「それ──」

「あ、これ? 誠くんの花言葉図鑑なの。お姉さんにもらったんだって。ほら、わたしたち仁くんの高校の文化祭に行ったでしょう? ちょうどその夜にね」

「へえ」

 文化祭。やっぱりあの日がきっかけで、あの日の俺がなにか間違いを犯したのだ。

「あのさ、仁くん」

「うん」

「これを誠くんのお姉さんにあげたのって、仁くんだよね?」

 意外なことを聞かれてひなたちゃんの顔を見る。真剣な眼差しがこちらに向けられていた。

「誠くんがね、これを好きな人からもらったってお姉さんが嬉しそうに言ってたから、それをなんの見返りもなく自分に渡すなんておかしいって不思議がっていたの。仁くん、誠くんのお姉さんとなにかあった?」

「なにもないよ」

「本当に?」

 ひなたちゃんの真っ直ぐな瞳から逃れるように前を向く。それ以外に上手い言葉も見つからず、ただ小さく頷いた。そのまま立ち上がり「じゃあまた」とひなたちゃんに声をかける。「また」と言ったひなたちゃんの心配を帯びた声色に気づかないふりをして駐車場へと向かった。その道中で溜息をつきながら空を見上げる。風が吹く。今日もどこからか枯れ葉が空を流れていく。心を離れた気持ちの欠片が飛んでいく。そして、ひらひらどこかへ落ちていく。

 なにもなかった。

 なにもかもなくなった。

 だから手放したのだ。

 俺も、小野田も──。

 帰りの車の中で、気づいたら左目から一粒の涙がこぼれ落ちた。車を運転する母さんに気づかれないように静かに鼻をすする。

 あの花言葉の図鑑を小野田に渡したとき、俺は小野田のことをなんとも思っていなかった。藤原先生への想いを手放す意味でただそれを自分のものでなくしたのだ。それなのに、あのとき好きな人にもらえるものならなんでも嬉しいと言った小野田の笑顔が今さらになって恋しい。過去に戻れないことは自分がよくわかっている。戻れない中で、これからの未来をどうするかが人生いつだって一番大切なことなのだ。

 できるだけ冷静になって考える。今の自分が抱えている事実は、小野田が自分のことを諦めたこと、花言葉の図鑑を手放したこと、そして自分は昨日小野田に告白してその気持ちを拒否されたということだった。

 自分の気持ちを伝えることが前に進むことだと思っていた。その気持ちが拒否された今は、もうどこが前なのかわからない。どこに進むことが正解なのかもわからない。

 目を瞑る。涙がこぼれる。

 真っ暗な中ではこれ以上前に進めそうもなかった。

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